第1話
第1話
教室という場所には、特有の湿度がある。
三十五人分の体温と呼気が混ざり合い、窓際の席にいても逃れられない、あの粘つくような空気。六月でもないのに肌がじっとり汗ばんで、制服のシャツが背中に貼りつく。昼休みのチャイムが鳴ると、その湿度はさらに密度を増す。グループが形成され、弁当箱が開かれ、笑い声が教室を満たしていく。椅子を引きずる音、ペットボトルのキャップを開ける音、誰かが誰かの名前を呼ぶ声。それらが折り重なって、教室という空間は一つの生き物みたいにうごめき始める。僕——柊真琴は、その音の輪から半径三メートルの位置に、いつも座っている。
別に、いじめられているわけじゃない。
そう言うと語弊があるかもしれないけれど、事実だ。誰かに悪意を向けられたことはない。ただ、僕がそこにいることを、誰も認識していない。出席番号で名前を呼ばれれば「はい」と答える。プリントが回ってくれば受け取って後ろに渡す。それだけの接点で、高校二年の春を迎えた。
透明であることは、最初は痛かった。中学の頃はまだ、話しかけてみようとか、輪に入ろうとか、そういう努力をしていた。結果はいつも同じだった。僕の声は教室の雑音に溶けて消え、僕の存在は誰の記憶にも引っかからなかった。文化祭の班決めで最後まで名前が余り、担任が気まずそうに「柊くん、こっちの班に入って」と言ったあの瞬間を、僕はたぶん一生忘れない。班のメンバーは誰一人、僕の顔を見なかった。
だから、僕は別の場所を探した。
人間のいない場所を。
最初に廃墟に入ったのは、高一の秋だった。自転車で川沿いを走っていたら、フェンスの向こうに朽ちた工場が見えた。錆びたトタン屋根、割れた窓ガラス、壁面を覆う蔦。その風景を見た瞬間、胸の奥で何かが緩んだのを覚えている。
ここには、誰もいない。
フェンスの隙間から滑り込み、コンクリートの床を踏んだ時の安堵は、今でも正確に思い出せる。錆びた配管が天井を這い、崩れかけた壁から鉄筋が覗いている。埃っぽい空気が肺を満たした。教室の粘つく湿度とは違う、乾いた、冷たい空気。吸い込むと、胸の奥まで透き通るような心地がした。
息が、楽だった。
それから毎週末、僕は廃墟を巡るようになった。カメラは中古のミラーレス一眼。被写体は建物だけ。人間は撮らない。朽ちた階段、剥がれた壁紙、放置された机の上の埃。時間に忘れられた空間を切り取って、匿名アカウントに投稿する。
アカウント名は「void」。フォロワーは二百人ちょっと。数字なんてどうでもよかった。ただ、僕が見つけた静寂を、誰かがいいねボタンで受け取ってくれる。その微かな接点だけが、僕と世界をつなぐ糸だった。
土曜日の午後、僕はいつものように自転車を漕いでいた。今日の目的地は、工業地帯の外れにある元・印刷工場。三回目の訪問で、まだ撮っていないアングルがあるはずだった。
ペダルを踏む足は軽い。後ろに教室はない。前には、誰もいない建物がある。四月の風がまだ冷たさを残していて、頬を撫でるたびに、平日の重力が少しずつ剥がれ落ちていく気がする。工業地帯に入ると車の音が減り、代わりに自転車のチェーンが回る規則正しい金属音だけが耳に残った。
印刷工場は、前回と同じ姿で僕を迎えた。フェンスの切れ目をくぐり、割れた窓から中に入る。スニーカーが窓枠を踏み越える瞬間、外の世界と切り離される感覚がある。懐中電灯を点け、ゆっくりと歩き始める。
一階の作業場。天井から垂れ下がった配線が、僕の懐中電灯の光で影を落とす。インクの匂いはとうに消えているのに、壁に染みついた何かが、かすかに鼻腔をくすぐる。床に散らばった紙片を踏むと、湿気を含んだ音がした。ぐしゃり、という音が静寂に吸い込まれて消える。ここではどんな音も長く残らない。建物が、すべてを飲み込んでしまう。
シャッターを切る。液晶画面に映る光と影のコントラスト。二階への階段は前回確認済みだから、今日は奥の倉庫エリアを攻める。
僕は廃墟の中で、決して走らない。騒がない。建物に敬意を払うように、静かに歩く。ここはかつて誰かの職場で、誰かの日常があった場所だ。その残響を壊さないように。足元に落ちている色褪せた伝票を見つけて、しゃがみ込んだ。日付は二十年以上前のもの。誰かがこの紙に数字を書き込んで、誰かがそれを受け取って、印刷機を動かしていた。その人たちは今、どこで何をしているのだろう。名前も顔も知らない人間の日常を想像することが、不思議と心地よかった。
二時間ほど撮影して、日が傾き始めた頃に撤収した。帰り道、自転車の上で今日の写真を思い返す。悪くない。特に倉庫奥の、天窓から光が差し込む一枚は、いい絵が撮れた気がする。埃が光の柱の中で金粉みたいに舞っていて、崩れかけた棚がシルエットになっていた。この場所がまだ生きていた頃には、きっと誰も気にも留めなかった光景だ。忘れられて初めて、美しくなるものがある。
帰宅して、シャワーを浴びて、写真を選別して投稿する。母親は夜勤でいない。夕食はコンビニの弁当。いつもの土曜日。静かで、穏やかで、誰にも邪魔されない時間。
これが僕の世界の全部だった。
——通知音が鳴ったのは、午前一時を過ぎた頃だった。
布団の中でスマートフォンを開くと、DMが一件。送り主のアイコンは真っ黒で、アカウント名は意味のない英数字の羅列。プロフィールは空白、投稿履歴はゼロ。フォロワーもフォローもゼロ。
普通なら無視する。スパムか、悪戯か。
でも、メッセージの一行目が、僕の指を止めた。
「旧・鶴見療養所、地下二階に行ったことある?」
鶴見療養所。
その名前を見た瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。知っている。知っているどころじゃない。三度訪れて、三度とも同じ場所で引き返した廃墟だ。
地下への階段。あの階段の前に立つと、毎回、理由のわからない吐き気に襲われた。体調が悪かったわけじゃない。恐怖を感じたわけでもない。ただ、胃の底から何かがせり上がってきて、足がそれ以上前に進まなくなった。三度とも。まるで、体が拒絶しているかのように。一度目は気のせいだと思った。二度目は偶然だと自分に言い聞かせた。三度目で、これは偶然じゃないと認めるしかなくなった。
DMの続きを読む。
「あそこだけ空気が違う」
たった一行。それだけだった。
僕は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。スマートフォンの光が暗闇の中で青白く浮かんでいる。このアカウントは何者だ。僕のことを知っているのか。いや、voidのアカウントには鶴見療養所の写真を投稿していない。地下に行けなかったから、絵にならなくて、載せなかった。
じゃあなぜ、僕に送ってきた。
返信を打とうとして、やめた。指がスクリーンの上で止まる。「誰ですか」と打ちかけた文字を消して、「行ったことがある」と打ち直して、それも消した。聞きたいことは山ほどある。でも、もっと強い感情が、胸の内側を掻いていた。
あの階段の下に、何があるのか。
三度拒まれた場所。体が進むことを拒否した場所。——そこに、僕はまだ行けていない。
スマートフォンを枕元に置いて、天井を見上げた。母親の部屋からは物音ひとつしない。夜勤の日は、この家には僕しかいない。冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸る音だけが、暗がりの底に沈んでいる。
静寂の中で、鶴見療養所の階段が脳裏に浮かぶ。コンクリートの段が闇の中へ沈んでいく、あの光景。懐中電灯の光が届かなくなる境界線。その向こう側。光の輪が段差を一つ照らすごとに薄くなり、五段目あたりで完全に闇に呑まれる。あの三度目、最後に見た光景では、階段の壁に何かが走り書きされていた気がする。でも吐き気がひどくて、確認する余裕はなかった。
目を閉じると、あの吐き気の記憶が胃の底で小さく疼いた。
——四度目は、来週の土曜日にしよう。
そう決めた瞬間、不思議と吐き気の残滓は消えた。代わりに、胸の奥で何かが、とくん、と脈打った気がした。