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喰らう迷宮

第3話 第3話

第3話

第3話

蛍光灯の光は、近づくほどに頼りなくなった。

 廊下を左に曲がると、天井に取り付けられた蛍光管が一本だけ残っていた。カバーはなく、剥き出しの管が不規則に明滅している。ちか、ちか、ち——消える。数秒の闇。また、ちか。そのたびに廊下の壁が一瞬だけ浮かび上がり、網膜に残像を焼きつけて消える。

 僕は懐中電灯を頼りに、その廊下を進んだ。

 地下二階の空気は、階段で感じたよりもさらに温かった。肌に触れる空気が、まるで体温を持っているかのように生ぬるい。甘い腐臭は一定の濃度で鼻腔に居座り続けていて、もう匂いとして認識するのをやめかけている。人間の鼻は、同じ匂いに長く晒されると感じなくなるという。順応。でも、この匂いは消えたのではなく、僕の呼吸の一部になっただけだ。吸い込むたびに、肺の奥で甘さが溶けていく。

 両側のドアを一つずつ確認しながら歩いた。ほとんどが施錠されているか、膨張して開かなくなっている。一つだけ開いた部屋があったけれど、中はコンクリートの壁に囲まれた空の小部屋で、錆びたベッドフレームが一台あるだけだった。療養所の地下病室。かつてここに誰かが寝ていたのかと思うと、背筋を何かが這った。日光の届かない地下の、この温い空気の中で。

 廊下の終点は、T字路になっていた。左は数メートルで行き止まり。右は、さらに奥に続いている。蛍光灯の光はもう届いていない。懐中電灯だけが、僕の周囲三メートルほどの世界を切り取っている。

 右の廊下に進む。

 ここまで来ると、壁の質感が明確に変わった。コンクリートの色が違う。廊下の左側の壁だけが、不自然に白い。周囲の壁が経年で黒ずみ、水染みや亀裂を走らせているのに対して、その区画だけが妙に均一で、新しい。まるで、後から塗り直されたように。

 僕は立ち止まって、懐中電灯を壁に近づけた。

 コンクリートの表面がなめらかすぎる。周囲の壁は骨材が露出して粗い手触りをしているのに、この区画だけは丁寧に左官されている。範囲はおよそ二メートル四方。人間が通れるだけの大きさ。

 ——これは、元々壁じゃない。

 廃墟を何十箇所も歩いてきた経験が、直感として告げていた。増築や改修の痕跡は建物の至る所にある。壁の色が違う、材質が違う、境目に隙間がある。そういう差異を見つけるのは、廃墟探索者にとって基本だ。そしてこの壁は、明らかに後から塞がれている。

 拳で、軽く叩いてみた。

 こん。

 低くて、抜けるような音が返ってきた。手のひらに、空洞特有の振動が伝わる。この壁の向こうに、空間がある。

 壁を指先でなぞると、左端の下部に亀裂が走っているのが見つかった。コンクリートが乾燥収縮で割れたのか、力が加わって罅が入ったのか。亀裂に指を差し込むと、向こう側の空気が指先を撫でた。温い。この廊下よりも温い空気が、向こう側から吹いている。

 リュックからマルチツールを取り出した。ペンチの先を亀裂に突き込んで、こじる。コンクリートは見た目より脆かった。ぼろぼろと崩れ、拳大の穴が開いた。懐中電灯を穴に向ける。光が向こう側に届いた。

 部屋だ。

 小さな部屋が、壁の向こうにある。

 コンクリートを崩すのに、それほど時間はかからなかった。表面は丁寧に仕上げてあったけれど、厚みは十センチもない。マルチツールと拳で縁を広げていくと、人がしゃがんで通れるほどの穴が開いた。砕けたコンクリートの破片が足元に散らばり、その向こうに四畳半ほどの空間が広がっていた。

 僕は穴をくぐった。

 最初に目に入ったのは、床だった。

 コンクリートの床面全体に、幾何学模様が刻まれていた。直線と円弧が組み合わさった複雑な図形が、床一面を覆っている。ペンキではない。コンクリートに直接彫り込まれている。溝の深さは数ミリ。指で触れると、滑らかな切削面が指先を導いた。機械で彫ったのか、それとも途方もない時間をかけて手作業で掘ったのか。どちらにしても、この模様を刻んだ人間は、正確な設計図を持っていたはずだ。フリーハンドで描ける精度じゃない。

 壁に目を移す。四面すべてに文字が書かれていた。見たことのない文字だった。アルファベットでも漢字でもアラビア文字でもない。曲線と直線が複雑に絡み合った、分類できない書記体系。文字の大きさは均一で、行間も揃っている。落書きや走り書きではなく、明確な意図を持って記述されたテキストだ。インクの色は黒に近い暗赤色で、壁のコンクリートに深く染み込んでいる。

 そして、部屋の中央。

 石の台座の上に、革装の書物が置かれていた。

 台座は床の幾何学模様の中心に位置していて、模様の線がすべてこの一点に収束するように配置されている。書物は両手で持てるほどの大きさで、革の表紙は黒く変色し、縁が擦り切れている。金属の留め具がついていたらしいが、それは錆びて崩れ、台座の上に茶色い粉となって散らばっていた。

 部屋の空気が、廊下とは決定的に違った。温かいのは同じだけれど、濃度が違う。甘い腐臭はここでは消えていて、代わりに別の匂いが支配していた。古い紙の匂い。蝋燭の残り香。そしてもう一つ、言葉にできない匂い。鉄錆に似て、鉄錆ではない。血に似て、血ではない。何か有機的なものが、とても長い時間をかけて変質した匂い。

 僕は台座の前にしゃがみ込んだ。

 懐中電灯の光が革の表紙を照らす。表面に模様が型押しされている。床の幾何学模様と同じ意匠。円と直線の組み合わせ。中央に、目のような形をした紋章。

 これは何だ。この部屋は何のために作られた。誰がこの書物をここに置いた。

 壁の文字を見上げた。読めない。一文字も。なのに、視線がそこに吸い寄せられて離れない。文字の配列に、何かの規則性があるような気がする。同じ形が周期的に現れている。ある種のリズム——文章のリズムが、読めもしないのに、感覚として伝わってくる。

 僕は書物に手を伸ばした。

 指先が革の表紙に触れた瞬間。

 音が、聞こえた。

 鼓膜を通してではなかった。頭蓋骨の内側で、直接何かが振動しているような感覚。低い声。いくつもの声が重なっている。男の声、女の声、老人の声。壁に書かれた文字と同じ言語で、何かを唱えている。意味はわからない。一音も理解できない。なのに、その音の連なりが脳の奥を揺さぶって、理解の手前にある場所——言葉になる前の感覚の層を、直接叩いていた。

 知っている。この音を、僕はどこかで——

 手が離せなかった。指が革に貼りついたわけじゃない。僕自身が、離したくなかった。声は続いている。重なり合う詠唱が層を増していく。三つの声が五つになり、五つが十になり、頭の中が音で満たされていく。甘くはない。温かくもない。ただ、圧倒的な密度で、僕の内側を震わせている。

 視界が歪んだ。壁の文字が——動いている。いや、動いてはいない。光の加減で、文字の輪郭が揺らいでいるだけだ。でも、さっきまで意味不明だった文字の配列が、今は少しだけ違って見える。まだ読めない。けれど、読めないことが不自然だと感じ始めている。

 その時だった。

 建物が、軋んだ。

 足元から。壁から。天井から。コンクリートと鉄筋が圧力に抗う音が、この小さな部屋を包み込んだ。地震ではない。揺れていない。ただ、建物全体が一つの声を上げるように、低く、長く、軋んでいる。

 僕はようやく手を離した。

 声が途切れた。頭蓋骨の内側の振動が消え、耳鳴りだけが残った。懐中電灯の光が小刻みに揺れているのは、僕の手が震えているからだ。

 背後で、音がした。

 重い何かが崩れ落ちる音。コンクリートが砕ける音。穴の向こう——僕が通ってきた廊下の方向から。

 壁が、崩れた音だった。

 懐中電灯を穴に向ける。廊下の天井が落ちていた。瓦礫がくぐってきた穴の出口を半分塞いでいる。コンクリートの粉塵が光の中で渦を巻き、甘い腐臭が一気に噴き出してきた。そしてその瓦礫の向こう、廊下の奥の暗闇から——ごう、という低い音が、床を伝って届いた。

 空気が、動いている。建物が、呼吸するように。

 吸って。吐いて。

 その呼吸のリズムが、さっきまで頭の中で鳴っていた詠唱のリズムと、同じだった。

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