第2話
第2話
廊下を歩きながら、私はイヤホンを外した。外さなければ、もう一度再生してしまいそうだった。
「また会えたね」——その声は、まだ鼓膜の内側に貼りついている。聞き返すほど輪郭がぼやけていく類の音だった。空耳だと思いたいのに、波形ははっきりと跳ねていた。機材の不具合。そう結論づけることにした。今はそうするしかなかった。
「ねえ、自己紹介しません?」
真帆が振り返った。金髪が懐中電灯の光を受けて、暗い廊下に場違いな明るさを撒いている。
「閉じ込められてるのに呑気だね」黒田が低い声で言った。
「だからですよ。どうせすぐ出られないなら、せめて名前くらい覚えたくないですか?」
誰も反論しなかった。沈黙よりはましだ、という空気が六人の間に漂った。暗い場所では、人の声があるだけで呼吸が楽になる。私が「じゃあ、歩きながらにしよう」と言い、先頭に立った。一階は受付と外来の待合だけで、探索するなら上の階だ。階段は廊下の突き当たりにあるはずだった。
「改めまして、宮瀬です。配信者やってます。今夜はよろしく」
努めて軽い調子で言った。続いて真帆が「心霊系インフルエンサーの真帆でーす、フォロワー八万」と手を振り、藤堂が「藤堂です、会社員です、こういうのは初めてで」と頭を下げた。黒田は「黒田。まあ、見ての通りのおっさんだ」と短く済ませた。凛は「……凛です」とだけ言って、また黙った。声が小さすぎて、隣にいた私にやっと聞こえる程度だった。
梓の番になった。
「佐伯梓です。大学二年。心霊スポット巡りが趣味で——あ、階段はこっちですよ」
言いながら、梓は迷いなく左の分岐に足を向けた。
私は一瞬、足が止まった。
この病院に来たことがある人間なら、自然な振る舞いだろう。しかし梓の応募フォームには「鷹宮総合病院は初めて」と書いてあった。廃墟探索経験は豊富でも、この病院は初訪問。そう申告していた。
「梓ちゃん、よく道わかるね」
さりげなく聞いた。声に棘を入れないように気をつけた。
「え? あ、いや、廃病院って大体こういう造りなんですよ。昭和後期の地方総合病院は設計がパターン化してて」
梓は早口で言った。嘘をついている、とは断言できない。理屈は通っている。けれど、彼女が左に曲がった判断は知識に基づく推測ではなく、記憶をなぞるような確信に満ちていた。迷いがなさすぎた。
二人分の靴音が並ぶ。梓はさらに続けた。
「階段の横に旧式のエレベーターがあるはずです。当然動かないでしょうけど」
十秒後、懐中電灯が錆びたエレベーターの扉を照らした。梓の言う通りだった。
偶然で片づけるには、精度が高すぎる。私は胸元のカメラが回っていることを確認しながら、梓の横顔を見た。梓は気づいていない。光に照らされた彼女の瞳は、怯えではなく——探しものをしている人間の目をしていた。
階段を上る。コンクリートの段を踏むたびに、足音が吹き抜けを伝って上の階まで昇っていった。手すりは冷たく、触れた指先にざらついた錆の感触が残った。一段ごとに、空気が重くなっていく。一階にあった腐った花の甘さは消えて、もっと無機質な、埃と鉄の匂いに変わっていた。
二階の踊り場に出た。非常灯が一つだけ、焼けた蛾の死骸を抱えたまま天井にぶら下がっていた。光はとうに失われている。
「二階は入院病棟です。東棟と西棟に分かれてるはずで——」
梓がまた言いかけて、口をつぐんだ。自分が知りすぎていることに気づいたのだろう。一瞬こちらを見て、視線を逸らした。
「……ネットで見た、と思います」
付け足すように言った。その声は、さっきより半音低かった。
私は何も言わなかった。追及するタイミングではなかった。ただ、記憶した。
二階の廊下は、一階よりも狭かった。あるいは、暗さがそう錯覚させているのかもしれない。壁の両側に病室のドアが等間隔で並んでいて、そのどれもが半開きになっていた。隙間から覗く室内は完全な闇で、懐中電灯を向けるとベッドの骨組みや点滴スタンドの影が壁に跳ねた。
「なんか、匂いしません?」
真帆が鼻を押さえた。私も感じていた。消毒液でも埃でもない。もっと生々しい——鉄の匂い。血液が酸化した後に残る、錆びた甘さに似ていた。
「古い病院だからな」黒田がぶっきらぼうに言った。けれど、その声にはかすかな震えがあった。
六人は廊下を進んだ。最初の病室を通過する時、藤堂が立ち止まって中を覗き込み、すぐに顔を背けた。「ベッドに何か……いや、シーツが丸まっているだけだ」と自分に言い聞かせるように呟いた。
廊下の半ばを過ぎた頃だった。
音がした。
金属が軋む音。それも、規則的な——回転する車輪の音。きい、きい、きい。等間隔で、廊下の奥から近づいてくる。
「誰かいるの?」真帆が声を上げた。六本の懐中電灯が一斉に奥を照らす。
光の先に、車椅子があった。
古い型の車椅子。レザーの座面が裂けて、中のスポンジが飛び出している。それが、廊下の中央を——ゆっくりと、こちらに向かって転がっていた。
誰も乗っていない。誰も押していない。
傾斜はなかった。この廊下は完全に水平だ。風もない。密閉された二階の廊下で、車椅子が自力で動く理由など存在しない。
「やばいやばいやばい——」真帆が後ずさった。藤堂が腕を掴んで制止する。
私は動けなかった。配信者としての本能が、カメラを向けろと叫んでいる。恐怖で硬直した身体を、その一点だけが動かした。胸元のカメラの角度を手で調整する。レンズの向こうで、車椅子はまだ進んでいた。きい、きい、きい。一定の速度で。まるで見えない誰かが、丁寧に——押しているかのように。
やがて、車椅子は六人の二メートルほど手前で止まった。
最後の車輪の軋みが消えた後、廊下は真空のような静寂に沈んだ。誰も声を出さなかった。呼吸の音すら聞こえなかった。
「……見て」
凛の声だった。囁くような声が、静寂を裂いた。
凛の懐中電灯が、車椅子の座面を照らしていた。裂けたレザーの上に、何かが置かれている。白い、長方形のカード。
私が一歩近づいた。膝が震えていたが、配信者の矜持が足を動かした。手を伸ばして、それを取り上げた。
プラスチック製の学生証だった。顔写真つき。
写真の中の顔には、見覚えがあった。今夜、駐車場で会ったばかりの顔だ。
佐伯梓。文学部二年。
「梓ちゃん」
振り返って、梓の顔を見た。彼女は学生証を凝視していた。顔から血の気が引いている。唇が微かに動いたが、声にならなかった。
「落とした?」
「落としてない」
即答だった。強い否定。梓は自分のバッグを開き、中を探った。数秒後、財布のカードポケットから同じデザインの学生証を引き抜いた。
同じ顔。同じ名前。同じ学籍番号。
二枚の学生証が、懐中電灯の光の中で並んだ。
私の手の中にある一枚は、角が擦り切れて、写真が少し色褪せていた。梓が財布から出した方は新しい。どちらも本物にしか見えなかった。違いは——劣化の度合いだけ。まるで、数年の時間が片方だけに流れたように。
梓の手が震え始めた。財布を握りしめる指が白くなるほど力が入っている。その目には、怯えとは違う感情が浮かんでいた。喉の奥で何かを堪えているような、歪んだ表情。
「……なんで」
梓が呟いた。その声は私に向けてではなく、車椅子に——いや、車椅子を押した何かに向けて発されたように聞こえた。
廊下の奥で、きい、と一度だけ音がした。もう一台の車輪が、暗闇の中で回ったような音だった。その音が消えた後、私の耳の奥で、あの囁きが蘇った。
——また会えたね。
それが梓に向けられた言葉だったのかもしれない、と思った。そう考えた瞬間、背筋を這い上がるものがあった。梓は、本当にこの病院が初めてなのだろうか。彼女が知っていたのは「昭和後期の設計パターン」などではなく、この場所そのものの記憶ではなかったか。
二階の廊下を、冷たい空気が撫でていった。六人分の影が壁に伸びている。いや——私は懐中電灯で確認した。六人分の影。間違いない。間違いないのに、どうしてだろう。数が合っているのに、廊下が妙に狭く感じるのは。まるで、影の一つひとつが本来あるべき大きさより、少しだけ厚みを持っているかのようだった。