Novelis
← 目次

告白病棟

第1話 第1話「八十七の再生数」

第1話

第1話「八十七の再生数」

再生数が三桁を切った夜に、人は正気を手放す。

 私——宮瀬奏は、車のダッシュボードに貼りつけたスマホの画面を睨んでいた。午前一時十七分。配信アプリの通知欄には、昨日の動画の再生数が表示されている。八十七。先月は千を超えていた数字が、二週間で二桁に片足を突っ込んでいる。指先でそっと画面に触れて、通知を消した。消しても数字は消えない。瞼の裏に焼きついている。フロントガラスの向こうに、鷹宮総合病院の黒い輪郭がある。街灯のない山道の行き止まりに、それは建っていた。ヘッドライトを消した瞬間、闇が車内に流れ込んできた。五階建ての鉄筋コンクリート。窓という窓が黒く塗り潰されたように暗い。七年前、原因不明の集団感染で十九人が死亡し、閉鎖された病院。心霊スポットとしての知名度は申し分ない。  ここで数字を取る。取らなければ、配信者としての私は来月には消えている。  バックミラーに自分の顔が映った。目の下の隈が濃い。頬がこけて、半年前の自分とは別人のようだった。ここ三日、まともに眠れていなかった。企画を詰めていたからではない。この病院の名前を検索するたびに、胸の奥が妙な軋み方をしたからだ。画像検索で表示された病院の外観写真を見た瞬間、心臓が一拍だけ止まるような感覚があった。既視感、という言葉では足りない。もっと身体的な、内臓が記憶しているような反応だった。  理由はわからない。来たことはないはずだった。

 集合時刻の午前一時半。駐車場に車が一台、また一台と入ってきた。砂利を踏む音が暗闇に響くたび、私の鼓動が速くなった。応募フォームから選んだ五人の参加者。全員が初対面のはずだった。  最初に降りてきたのは、パーカーのフードを目深に被った女の子だった。大学生くらい。名前は梓。「心霊スポット巡りが趣味です」と応募欄に書いてあった。車のドアを閉める手つきが妙に慎重で、音を立てることを恐れているように見えた。  次に、四十代後半の男。黒田と名乗った。白髪交じりの短髪に、くたびれたジャケット。目だけが妙に落ち着かない。握手を求めたら、その手は乾いていて冷たかった。視線が私の顔ではなく、背後の病院の輪郭をなぞるように動いていた。  派手な金髪に厚底ブーツのギャル——真帆。「霊感あるんで、なんかあったら言いますね」と笑った。声が大きくて、森の木々にぶつかって返ってくるのが聞こえた。温厚そうなサラリーマン風の藤堂は、場違いに丁寧な会釈をした。スーツの下にヒートテックを着込んでいるのが首元から覗いていた。四月の夜気は思ったより冷える。  最後に来たのは、凛と名乗った少女だった。高校生か、それより幼く見える。黒いワンピースに長い黒髪。挨拶の声は蚊の鳴くようで、ほとんど聞き取れなかった。ただ、彼女が駐車場に立った瞬間、空気の温度が一段下がったように感じた。気のせいだと思った。思いたかった。 「よし、全員揃ったね」  私は配信用カメラを起動し、胸元に固定した。赤いランプが点灯する。その小さな光が、今の私に残された唯一の命綱だった。 「それじゃ、行きましょう——鷹宮総合病院、潜入配信、スタートです」  声が明るすぎた。自分でもわかっていた。作っている。震えを隠すために。

 正面玄関は、錆びた自動ドアだった。ガラスの表面に指で触れると、夜露とは違う、ぬるりとした湿り気があった。当然動かないはずのそれに手をかけた瞬間——滑るように開いた。 「え、電気通ってるんですか?」梓が後ろで呟いた。 「まさか。七年前に全部止まってる」  懐中電灯の光が、埃の浮かぶ空気を切り裂いた。光の柱の中を、無数の微粒子がゆっくりと漂っている。七年分の沈黙が、粒になって浮遊しているようだった。消毒液の残り香がかすかにある。いや、違う。もっと甘い匂いだ。花が腐ったような、重たい甘さ。喉の奥にまとわりつくような、吐き気に近い甘さだった。  六人が玄関ホールに足を踏み入れた。靴底がリノリウムの床を踏むたび、ぺたぺたと湿った音がした。私が最後だった。  振り返る理由はなかった。ただ、背中に風を感じた。冷たい、湿った風。首筋の産毛が一本ずつ逆立つのがわかった。振り返ると、自動ドアが閉まっていた。音もなく。いつの間に。 「——閉まった?」  黒田が駆け寄り、ドアに手をかけた。びくともしない。藤堂も加わる。二人がかりで引いても押しても、錆びたレールに溶接されたように動かなかった。黒田の額に汗が浮かんでいた。藤堂の腕の筋が浮き上がるほど力を入れても、ドアは一ミリも動かない。 「スマホ。外に連絡」  私はポケットからスマホを取り出した。画面の左上、電波のアイコン。  圏外。 「私も圏外です」梓の声。「俺も」藤堂の声。六人全員が同時にスマホを確認して、同じ結果だった。液晶の白い光が六つ、暗闇の中で互いの顔を幽霊のように照らしていた。  真帆が「やばくない?」と笑った。その笑い声が天井に反響して、妙に長く残った。コンクリートの壁に跳ね返り、角を曲がり、廊下の奥まで滑っていくようだった。 「落ち着いて。非常口は別にあるはず」  自分に言い聞かせるように言った。声が玄関ホールに吸い込まれる。こんなに広かっただろうか。天井を見上げると、懐中電灯の光が届かない闇が広がっていた。懐中電灯の光を正面に向ける。受付カウンターが見えた。ガラスの仕切りは割れて、破片が床に散らばっている。踏まないように足元を照らすと、破片の一つ一つに懐中電灯の光が反射して、小さな星が床に散らばっているように見えた。その奥の壁——白いタイルの壁に、何かが書いてあった。  黒ずんだ、茶褐色の痕跡。飛沫のような模様。最初は汚れだと思った。近づくにつれて、それが文字だと気づいた。  六行。六つの名前。  上から順に、懐中電灯で照らした。  黒田、真帆、藤堂、梓、凛——。 「なんですか、これ」真帆の声から笑いが消えていた。背後で誰かが息を呑む音がした。  五つ目まではわかる。悪質ないたずらだと思えばいい。事前に参加者リストが漏れたのだと、そういうことにすればいい。応募フォームの管理画面はパスワードをかけていた。でも、ハッキングなんて今どき珍しくない。そう思えばいい。思えるはずだった。  六番目の名前に、光を当てた。

 宮瀬、ではなかった。  そこに刻まれていたのは、配信者名でも、応募フォームに書いた名前でもなかった。戸籍から変えた、誰にも——本当に誰にも明かしていない、十七歳の時に捨てた本名だった。

 息が止まった。懐中電灯を持つ手が震えて、光の輪が壁の上で痙攣した。胃の底から酸っぱいものがせり上がってきた。膝が笑っている。壁に手をつかなければ立っていられなかった。タイルは氷のように冷たく、指先から体温が奪われていくのを感じた。 「宮瀬さん? どうかしました?」  藤堂の声が遠かった。水の底から聞こえてくるようだった。壁の文字を見つめたまま、私の頭の中では一つの問いだけがぐるぐると回っていた。  なぜ。  この名前を知っている人間は、この世にいない。母の旧姓に変えた記録は封印されている。ネット上のどこにも存在しない。家庭裁判所の許可書は実家の金庫にある。父は三年前に死んだ。母とは音信不通だ。 「——なんでもない。先に進もう」  声が裏返らなかったのは奇跡だった。  六人が受付を通り過ぎ、薄暗い廊下に足を踏み入れる。天井の蛍光灯は当然消えていて、六本の懐中電灯だけが頼りだった。光の輪が壁や床を這い、互いの影が伸びたり縮んだりした。私は最後尾を歩きながら、胸元のカメラの録画データを確認した。ここまでの映像を巻き戻す。正面玄関を入る場面。六人が次々と中に入っていく。  画面の中の私が最後に玄関を跨いだ瞬間——音声の波形が跳ねた。  誰の声でもない。男でも女でもない。子供のような、老人のような、判別のつかない囁き。  イヤホンを片耳に突っ込んで、再生した。

「——また会えたね」

 私は足を止めた。血の気が引くのを感じた。指先が痺れている。六人の中で、この言葉を発した者はいない。歩きながら全員の顔を確認した。誰も口を動かしていなかった。  廊下の奥から、冷たい風が吹いた。消毒液でも腐った花でもない、もっと古い匂い——土の下の、湿った暗闇の匂いがした。何年も何十年も光の届かなかった場所の、醗酵した沈黙の匂いだった。  マイクだけが拾った声。  それが誰に向けられたものなのか、私にはまだわからなかった。

この話はいかがでしたか?

次の話を読む →

第2話「第2話「鼓膜に貼りつく声」」

↓ スクロールで次の話へ