Novelis
← 目次

告白病棟

第3話 第3話「上か下かの消去法」

第3話

第3話「上か下かの消去法」

三階に上がると決めたのは、消去法だった。

 一階の出口は塞がれている。二階は車椅子の一件で全員の神経が削れた。残る選択肢は上に行くか、下に行くか。地下には行きたくない——その一点だけは、口に出さなくても六人の総意だった。誰かが「下は?」と口にしかけて、飲み込んだ。飲み込んだこと自体が、答えだった。

 階段を上る足取りが重い。二階から三階へのコンクリートの段差は、一階から二階よりも一段ぶん高いように感じた。実際にはそんなはずはない。建築基準法で決まっている。けれど太腿に溜まる負荷が嘘をつくとも思えなかった。手すりを握る指が、錆の粉でざらついている。赤茶けた粉が指紋の溝に入り込み、爪の間に挟まる感触が妙に生々しかった。手を離すと、手のひらに錆の跡が残った。まるで手すりが、ここを通った人間の痕跡を刻印しているようだった。

 梓はあれ以来、何も言わなくなった。二枚の学生証——古い方を私がポケットに入れ、新しい方を梓が財布に戻した。それだけのやり取りの間、梓の目は車椅子が来た方角を見つめていた。探しものをする目のまま、けれどその奥に、見つけてはいけないものを見つけた人間の怯えが滲んでいた。

 三階の踊り場に出た。空気が変わった。

 二階までの埃と鉄の匂いが薄れて、代わりに甘い匂いが鼻を刺した。一階の玄関で嗅いだのと同じ——腐った花のような、重たい甘さ。ただし濃度が違う。喉の粘膜に貼りつくほど濃密で、思わず口元を手で覆った。指の隙間からでも匂いが入り込む。甘さの底に、かすかに薬品が混じっている。ホルマリンか、あるいはもっと古い時代の消毒液か。甘さと化学物質が混ざって、吐き気に似た感覚が胃の底から這い上がった。

「くさ——なにこれ」真帆が顔をしかめた。

 三階の廊下は二階よりも広かった。天井も高い。懐中電灯の光が奥まで届かない。闇が光を吸い込んでいるのではなく、廊下そのものが光の届かない長さを持っているように感じた。壁に沿って歩くと、病室のドアには「301」「302」と錆びたプレートが残っていた。ここは一般病棟ではない。プレートの下に小さく「隔離観察室」と刻印されている。集団感染の患者が収容された階だ。

 黒田の足が止まった。

 最初は誰も気づかなかった。先頭の私と梓が五歩ほど進んだところで、背後の足音が一つ減っていることに気づいた。振り返ると、黒田が廊下の入り口に立ちすくんでいた。懐中電灯を持つ手が下がり、光が床を照らしている。顔が見えない。

「黒田さん?」

 返事がなかった。

 私は数歩戻った。懐中電灯で黒田の顔を照らすと、彼は目を見開いていた。瞳孔が極端に開いて、虹彩がほとんど見えない。口が半開きになり、下唇が痙攣するように震えている。額には脂汗が浮いて、こめかみを伝って顎に落ちた。

「ここは——」

 黒田の声は擦り切れたテープのようだった。

「ここは、知っている」

 四十代の男の声が、子供のように震えていた。知識としての「知っている」ではなかった。身体が覚えている場所に戻ってきた人間の、本能的な硬直だった。膝が微かに笑っている。立っているのがやっとだという姿勢で、それでも廊下の奥に目を向けることができずにいた。

「来たことあるんですか」藤堂が横から聞いた。

 黒田は答えなかった。壁に手をつき、呼吸を整えようとしていた。吐く息が白い。三階だけ、気温が下がっている。肌が粟立つ冷気が、廊下の奥から押し寄せるように流れてきていた。手をつく壁の位置を変えた瞬間、指先のすぐ横にあるタイルの表面が、じわりと変色した。

 白いタイルの上に、茶褐色の文字が浮かび上がっていた。

「——見て。壁」

 梓が懐中電灯を向けた。三階の廊下の壁、腰の高さあたり。タイルの表面に、水滴が結露するように文字が滲み出していた。リアルタイムで。目の前で。乾いたタイルの上に、どこからともなく浮かんでくる茶色い液体が、筆で書くように文字を形成していく。液体がタイルの目地に溜まり、そこからまた次の画へと枝分かれする。生き物のように。意思を持っているかのように。

 医療記録の断片だった。

 患者番号、入院日、病棟、担当医——判読できる部分はわずかだが、書式は間違いなく医療カルテのそれだった。数十年前の。紙ではなく壁に、インクではなく血のような色で。

 黒田の名前があった。

「黒田義彦」——患者としてではない。記録の末尾に小さく記された名前。職員としての署名欄。事務担当者の名前。

「黒田さん、これ」

 私が指さすと、黒田は壁を見ようとしなかった。目を逸らし、後ずさった。壁から距離を取る動きは反射的で、そこにあるものを知っているから目を背けた——そういう反応だった。

「何も見えない」

 嘘だった。彼の瞳は、壁の文字の位置を正確に避けて動いていた。見えていないのではない。見たくないのだ。その横で凛が黒田の顔と壁の文字を交互に見ていた。何かを計算する目だった。

 私が口を開きかけた時、音がした。

 天井。頭上のスピーカー。七年間沈黙していたはずの館内放送設備から、ノイズが漏れた。ザー、というホワイトノイズ。砂嵐のような音が三階全体に響き、全員が天井を見上げた。スピーカーの金属カバーが微かに振動し、その振動が天井のコンクリートに伝わって、頭蓋骨の奥まで震わせるような低い共鳴を生んだ。

 ノイズが途切れ、声が流れた。

 子供の声だった。

 五歳か六歳か、まだ舌足らずな発音で——けれど一字一句を丁寧に、名前を読み上げていた。

「くろだ、よしひこ」

 黒田の背中が跳ねた。

「まほ」

 真帆が口を両手で塞いだ。

「とうどう、しゅうじ」

 藤堂の顔から表情が消えた。

「さえき、あずさ」

 梓が一歩後退した。

「りん」

 凛だけが動かなかった。暗闘の中で、表情すら変えなかった。

 そして、六番目。声が一拍置いた。まるで名前を確認するように、息継ぎの間が長かった。その数秒が引き伸ばされて、永遠のように感じた。心臓が喉元まで競り上がっていた。読み上げられたのは——やはり、十七歳の時に捨てた、私の本名だった。

 スピーカーが沈黙した。ノイズすら消えた。天井から降りてきた声の残響が、廊下の壁に吸い込まれるように消えていく。六人は誰も動けなかった。館内放送を動かすには電力がいる。音声を録音した誰かがいる。子供の声で、六人の名前を——私の本名を含めて——記録した誰かが、この病院のどこかにいる。

 あるいは、いた。七年前に。

「出ましょう」

 藤堂が初めて強い声を出した。「どこでもいい、窓を割って——」

「二階の窓、叩いたの見てたでしょ」真帆の声は震えていたが正確だった。「びくともしなかった。あれ、ガラスじゃないですよ。叩いた感触が、石みたいだった」

 閉じた箱の中にいる。その認識が、六人の間に静かに共有された。

 私は壁にもう一度懐中電灯を向けた。医療記録の文字は、まだそこにあった。黒田の名前。職員としての署名。その横に、さっきはなかった文字が増えている。

「隠蔽」——その二文字が、血の色で壁に浮かんでいた。

 黒田が壁に背を向けた。肩が震えていた。唇が何かを呟いていたが、声にはならなかった。

 六人がもう一度固まって歩き出した時、私はふと振り返った。

 理由はなかった。ただ——気配がした。視線を感じた。後頭部ではなく、もっと近い場所。すぐ隣にいる誰かの背後に、もう一人いるような。

 懐中電灯を後方に向ける。梓が私の二歩後ろを歩いていた。その梓の背中の向こう——暗い廊下の、懐中電灯の光がぎりぎり届く境界線のあたりに、人影が立っていた。

 長い髪。黒いシルエット。梓と同じくらいの背丈。同じような肩幅。懐中電灯の光の縁で、輪郭だけが浮かんでいた。

 梓が振り返った。

 人影は——梓とまったく同じ動きで、同時に振り返った。鏡を見ているようだった。ただし鏡はない。廊下の奥に、梓と瓜二つの長い髪の人物が、こちらを向いて立っている。

 光を当てた。懐中電灯の円が、暗闇を裂いて奥に伸びる。

 誰もいなかった。

 壁と床とドアしかない廊下に、六人以外の影はなかった。しかし懐中電灯を下ろした瞬間、光の届かない暗がりの中で——長い髪が揺れるのが、見えた気がした。

 梓は何も言わなかった。振り返ったまま、数秒間、暗闇を見つめていた。その横顔に浮かんでいたのは恐怖ではなかった。

 知っている人間に再会した時の、息を呑むような——懐かしさだった。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!