第2話
第2話「六つの影とランタン」
天井のスピーカーから漏れたのは、ノイズだけだった。
砂嵐のような音が数秒続き、途切れた。全員が天井を見上げたまま動かない。ランタンの炎が小さく揺れ、六つの影が壁に縫い止められたように伸びていた。埃の匂いと、かすかな消毒液の残り香が鼻の奥に張りついている。廃病院の空気は冷たく、吐く息がうっすらと白かった。
「……今の、何だ」
最初に口を開いたのは桐生だった。桐生拓真。かつて教室の中心にいた男。岸谷が実行犯なら、桐生は設計者だった。誰を標的にするか、どこまでやるか、いつ止めるか。すべてを桐生が決めていた。あいつの一言で俺の机が廊下に出され、あいつの一言で弁当がゴミ箱に入った。
その桐生が、今は顔を強張らせてスピーカーを睨んでいる。七年前より痩せていた。頬骨が浮き出て、目だけが異様にぎらついている。営業職だろうか、安物のスーツが肩のあたりで皺を寄せていた。ネクタイの結び目が左にずれている。身だしなみに構う余裕もないのか、あるいは元からその程度の男だったのか。
「放送設備が生きてるってことか。電気、通ってんのかよ」
篠崎が呟いた。篠崎美月。唯一の女だ。あのグループで直接手を下すことは少なかったが、俺の持ち物を隠し、陰口を組織し、他の女子が俺に話しかけることを許さなかった。今は長い髪を一つに束ね、化粧気のない顔をしていた。唇が乾いて白くなっている。
「閉院して五年だぞ。電気なんか来てるわけ——」
三村の声が途切れた。三村遥斗。岸谷の腰巾着。いつも岸谷の隣にいて、岸谷が笑えば笑い、岸谷が蹴れば蹴った。今は丸い体をさらに丸めて、壁際に縮こまっている。視線が定まらない。怯えた犬のような目だった。額に浮いた汗が、ランタンの光を受けて鈍く光っていた。
もう一人、窓際に立っている男がいた。名前が出てこない。いや——出てくる。遠藤。遠藤圭吾。存在感の薄い男だった。いじめに加担していたのかすら曖昧だ。ただ、止めなかった。見ていた。それだけで十分な罪だと、少なくとも招待状の差出人はそう判断したらしい。
五人の元加害者。そして俺。
ランタンの灯りの中で、六人が互いの顔を見た。同窓会。招待状にはそう書かれていた。これほど陰惨な同窓会が、他にあるだろうか。
「全員、同じ招待状を受け取ったのか」
俺の声は思ったより平坦だった。感情が麻痺しているのかもしれない。恐怖が一定量を超えると、人は逆に静かになる。それを俺は七年前に学んでいた。毎日のように殴られ、物を壊され、存在を否定され続けたあの時間の中で、ある日突然、怒りも悲しみも消えた。残ったのは灰色の凪だけだった。今、その凪が再び俺を覆っている。
桐生がポケットから封筒を取り出した。俺と同じ白い封筒。同じ厚紙。同じ明朝体。
「裏を見せろ」
桐生は一瞬ためらい、裏返した。手書きの一行が見えた。俺のものとは違う文面だった。距離があって正確には読めないが、文字数が違う。
「お前らも、それぞれ違うことが書いてあるのか」
沈黙。誰も自分の招待状の裏面を見せようとしなかった。それぞれの弱みを、この一行が正確に突いている。そういうことだ。篠崎が封筒を胸の前で握りしめるようにして、視線を逸らした。三村は封筒をポケットの奥に押し込んだ。誰もが自分の一行を隠したがっている。その反応自体が、書かれた内容の重さを物語っていた。
「誰がこんなもん送りつけた」
岸谷が苛立たしげに言った。壁から背を離し、ランタンの近くまで来ていた。その動きに、三村が小さく身を引いた。七年経っても力関係は変わらない。岸谷が動けば周囲が退く。その構造が、俺の胃の底に冷たいものを落とした。
「決まってんだろ」
桐生の目が俺に向いた。五人の視線が集まる。空気が変わった。七年前と同じ構図だった。一人対五人。教室の隅と、教室の中央。被告人と陪審員。
「俺じゃない」
「じゃあ誰だよ。この中で恨みを持ってるのは——」
「俺は去年まで招待状に書いてある病院の名前すら知らなかった。お前たちの連絡先も。一人暮らしのコンビニ夜勤のバイトに、こんな手の込んだ真似ができると思うか」
桐生が唇を引き結んだ。反論できないのだ。俺が社会的に何も持っていないことは、見ればわかる。着ているのはくたびれたパーカーとジーンズ。この場で唯一スーツを着ていない人間。仕掛ける側には見えないだろう。
「だったら外部の人間か」篠崎が言った。「私たちのことを知ってる誰か」
「教師とか」三村が食いついた。「当時の担任とか、あの——」
「水島先生は三年前に死んだ」遠藤が初めて口を開いた。低く、抑揚のない声だった。「病気だ。葬式に出た」
空気が凍った。俺も知らなかった。あの担任が。見て見ぬふりをしていた、あの教師が。死んだ。その事実が妙に重く腹の底に沈んでいった。恨む相手が一人減った、という感覚ではなかった。むしろ——永遠に問い詰められなくなった、という喪失に近かった。
「とにかく出よう」岸谷が踵を返した。「こんなところに用はねえ。帰る」
誰も異を唱えなかった。岸谷が先頭に立ち、俺が来た廊下を戻っていく。ランタンを持った桐生が続き、残りがばらばらと後を追った。俺は最後尾についた。前を歩く五人の背中を見ながら、奇妙な既視感に襲われていた。この廊下を、この順番で歩いたことがある。いつ。なぜ。記憶の断崖が、また一瞬だけ光る。
正面玄関にたどり着いたとき、岸谷の足が止まった。
「おい」
声が裏返っていた。岸谷が押しているのは、俺が入ってきたガラス扉だ。片方が外れて倒れていたはずの扉。それが今、両方とも閉まっていた。しかも——押しても引いても動かない。
「嘘だろ」桐生がランタンを近づけた。光がガラスの向こうを照らす。
扉の外側に、鉄板が当てられていた。溶接の痕が、黒い蜈蚣のように扉の枠を這っている。つい二十分前までは存在しなかったものだ。俺が入ったときには、扉は開いていた。確実に開いていた。
「ふざけんな、ふざけんなよ!」
岸谷が扉を蹴った。鈍い金属音が廊下に反響し、壁の奥のどこかで残響が返ってきた。建物が唸っているように聞こえた。
「窓は」篠崎の声が震えていた。「窓から出れば——」
三村が最も近い窓に駆け寄り、カーテンの残骸を引き剥がした。窓の外側にも鉄板。溶接痕。同じだ。桐生が反対側の窓を確認する。同じ。遠藤が隣の部屋に入っていった。数秒後、「こっちも同じだ」と聞こえた。
一階のすべての窓と出入口が、外側から鉄板で塞がれていた。
「携帯」桐生がスマートフォンを取り出した。画面の光が顔を下から照らし、影が額まで伸びた。「——圏外だ」
全員が同時にポケットに手を伸ばした。俺も確認した。圏外。電波が一本も立っていない。さっきバスを降りたときにはまだ微弱ながら電波があった。今は完全に遮断されている。
「ジャマーだ」遠藤が言った。「電波妨害装置。どこかで動いてる」
篠崎の呼吸が速くなっていた。過呼吸の前兆だ。壁に手をついて、肩で息をしている。三村が石のように動かなくなった。岸谷はまだ扉を蹴り続けていたが、やがて力尽きたように膝をついた。拳の皮が剥けて、ガラスの表面に薄い血の跡がついていた。
俺たちは閉じ込められた。
六人全員が理解した。これは同窓会ではない。招待状は餌で、この建物は檻だ。主催者が誰であれ、全員をここに集め、出られなくする——それが最初から計画されていた。
静寂が降りた。誰も喋らなかった。ランタンの炎が空気の流れで傾ぐ。空気の流れ。どこかに隙間がある。換気口か、あるいは。だがそれを探す前に、もっと根本的な問いが頭を占めた。
なぜ俺も招待された。
被害者である俺が、加害者と同じ箱に入れられている。復讐劇なら俺は観客席にいるはずだ。だが俺は舞台の上にいる。同じ檻の中にいる。それは——俺にも「贖うべき何か」があるということなのか。空白の三日間に、俺が何かをしたということなのか。
こめかみの奥が、また疼いた。
そのとき、天井のスピーカーが再び鳴った。今度はノイズではなかった。
子どもの声だった。
高く、澄んで、抑揚のない声。録音特有のわずかな反響を伴って、廃病院の廊下に染み渡った。感情のない声だった。朗読するように、あるいは祈りを唱えるように、一語一語が等間隔で並んでいる。
「——皆さん、お揃いですね」
六人が凍りついた。
「それでは、第一の試練を始めます」