第1話
第1話「七年前の三日の空白」
三日分の記憶が、ない。
七年間、そのことについて考えないようにしてきた。高校二年の冬、屋上から落ちた。目が覚めたら病院のベッドで、頭に包帯が巻かれていて、母親が泣いていた。それだけだ。落ちる前の三日間がごっそり抜けている。担当医は「外傷性の健忘です、珍しいことではありません」と言った。珍しくないなら、それでいい。思い出さなくていい記憶なら、ないままでいい。そう決めて、俺は七年を生きてきた。
アパートの郵便受けに、それは入っていた。
白い封筒。差出人の名前はない。宛名だけが几帳面な明朝体で印字されている。柊真白様。封を切ると、一枚の厚紙が出てきた。厚紙の表面はかすかにざらついていて、指の腹にその質感が残った。安物ではない。わざわざ選んだ紙だった。
「同窓会のご案内。会場:旧・聖慈園病院。四月十二日、午後九時」
聖慈園。その名前を読んだ瞬間、こめかみの奥が疼いた。知っている。どこかで聞いたことがある。だが思い出せない。記憶の断崖の向こうに、その名前だけが霧の中で光っているような感覚だった。
裏返すと、一行だけ手書きの文字があった。
「あの日、屋上で何が起きたか知りたくないか?」
指先が震えた。封筒を握り潰そうとした。捨てればいい。無視すればいい。七年間そうしてきたように。俺はあの高校の人間と二度と関わらないと決めた。卒業式にも出なかった。同窓会の連絡先も全部変えた。SNSのアカウントは持っていない。それで正しかった。それで——。
封筒を握る手が、震えたまま止まらなかった。
知りたくないか。
知りたいに決まっている。三日分の空白は、七年かけても埋まらなかった。夢の中で何度も屋上のフェンスが見える。錆びた金属の手触りまで覚えているのに、そのあとが何もない。落ちたのか。落とされたのか。自分で飛んだのか。その答えひとつで、俺の七年間の意味が変わる。
午後十時。俺は電車に乗っていた。
窓の外は真っ暗だった。四月の夜はまだ冷える。コートのポケットに招待状を入れたまま、何度も出しては文字を確認した。旧・聖慈園病院。調べると、五年前に閉院した精神科の単科病院だった。市の外れ、丘陵地の奥。地図アプリで見ると、最寄りのバス停から徒歩二十分と出た。
罠だと思わなかったのかと聞かれれば、思った。だが俺には失うものがなかった。仕事はコンビニの夜勤。友人はいない。家族とは疎遠。七年間かけて構築した、誰にも踏み込まれない生活。それは安全だったが、空洞だった。空白の三日間という穴が、生活の土台そのものを腐らせていた。
電車の中は空いていた。向かいの座席に酔った中年男が一人、頭を垂れて眠っている。蛍光灯の青白い光が車内を均一に照らし、窓ガラスには俺自身の顔が映っていた。目の下の隈。そぎ落とされたように薄い頬。七年前の俺を知る人間がこの顔を見たら、誰だかわからないかもしれない。あのころの俺は、まだ少しだけ丸みのある顔をしていた。誰かに怯えながらも、まだ何かを期待する目をしていた。窓の中の俺には、その光がない。
終点で降りた。改札を出ると、ロータリーにバスが一台だけ停まっていた。運転手は眠そうな目で俺を見た。乗客は俺だけだった。エンジンの振動が座席を通して尾骶骨に伝わる。バスは街灯の並ぶ通りを抜け、やがて灯りのない山道に入った。窓に映る景色が、住宅街から雑木林に変わる。その境目は驚くほど唐突だった。まるで世界の端に来たような感覚だった。
バスを降りると、街灯がなかった。スマートフォンのライトだけを頼りに、舗装の剥げた坂道を登る。四月なのに、冷たい風が首筋を舐めた。土と、かすかに錆びた匂い。虫の声すらしない。木々の枝が頭上で絡み合い、空を塞いでいた。足元の砂利が一歩ごとに乾いた音を立てる。その音だけが自分が現実にいる証拠のように思えた。
十五分ほど歩いたところで、建物が見えた。
三階建ての鉄筋コンクリート。窓はすべて黒く、一枚だけ割れたガラスが風に揺れて、不規則な音を立てていた。きぃ、きぃ、と。まるで誰かが中でブランコを漕いでいるような。正面玄関の庇は半分崩れ、壁面のタイルが剥落して、下地のコンクリートが月明かりにぬらりと光っていた。
「聖慈園病院」の看板は外されていた。跡だけが、長方形の影として壁に残っている。
引き返せ、と本能が言った。
足は止まらなかった。正面の入口に近づくと、両開きのガラス扉は片方が外れて地面に倒れていた。中は暗い。ライトを向けると、受付カウンターの残骸と、散乱した書類が見えた。埃の匂いが鼻を突く。何年分もの埃だ。湿気を含んで重く、肺の底に沈むような空気だった。
「——来たのかよ」
声がした。
暗闇の奥から。低く、掠れた声。記憶の底で錆びついていた声だった。
ライトを向ける。待合室だったらしい空間の、壁に寄りかかるようにして男が立っていた。革靴。スーツのジャケット。だらしなく緩めたネクタイ。片手にスマートフォンを持ち、もう片方の手はポケットに突っ込んでいる。
顔を見た瞬間、体が硬直した。
岸谷蓮。
七年前、俺の上履きをゴミ箱に捨てた男。弁当を床にぶちまけた男。教科書を破り、体操着を便器に沈め、俺の存在そのものを教室から消そうとした男。そしておそらく、屋上の記憶が消える直前、最後に見た顔。
「久しぶりだな、柊」
岸谷は笑っていた。だが目が笑っていなかった。口元だけが歪んで持ち上がり、頬の筋肉がこわばっている。恐怖を虚勢で塗り固めた顔だった。見覚えがある。中学のとき、教師に呼び出されたときの岸谷がこんな顔をしていた。
「お前も招待状か」
俺は答えなかった。声が出なかった。全身の血が、心臓に向かって逆流しているような感覚だった。逃げろ。帰れ。こいつの前に立つな。七年分の恐怖が一瞬で蘇り、喉を締め上げた。
だが、同時に気づいた。
岸谷も怖がっている。
スマートフォンを持つ手が小刻みに揺れていた。革靴の爪先が落ち着きなく床を叩いている。壁に寄りかかっているのは余裕ではない、立っていられないからだ。あの岸谷が。教室の王だった岸谷が。七年という時間は、人間をここまで変えるのか。頬はこけ、目の下に深い影が刻まれていた。高校時代、あれほど堂々としていた肩幅が、スーツの中で縮んで見えた。
「他にも来てる」
岸谷が顎で奥を示した。暗い廊下の先に、かすかに光が見える。複数の人間の気配。小さな話し声。
「全員だよ。——全員来てやがる」
全員。その一語が、腹の底に冷たい石を落とした。
俺は招待状を握り直した。ポケットの中で紙がくしゃりと鳴った。引き返すなら今だ。まだ入口は開いている。この暗い道を戻れば、四十分後には駅に着く。明日はまたコンビニの夜勤がある。空白の三日間は空白のままでいい。そう生きてきたじゃないか。
奥の廊下から、風が吹いた。
冷たく、湿って、かすかに薬品の匂いがした。消毒液——いや、ホルマリンに近い、甘く重い匂い。それを嗅いだ瞬間、こめかみの奥で何かが弾けた。この匂いを知っている。どこで。いつ。記憶の断崖の縁が、ほんの一瞬だけ光った。
白い壁。白い天井。白い床。鼻腔を灼くこの甘さの中で、誰かが泣いていた——気がする。映像にならない。音にもならない。ただ感覚だけが、内臓の奥で疼いた。七年間封じてきたものの端が、ほつれるように綻びかけていた。
気がつくと、俺は廊下に足を踏み入れていた。
背後で、ガラス扉が風に押されて動いた。がたん、と音がして——閉じた。振り返る。閉じてはいない。片方の扉が少しだけ揺れただけだ。だが心臓が一拍、止まった。
廊下の蛍光灯は全て消えている。天井から配線が垂れ、壁の塗装は黒い染みを広げていた。水漏れの跡だろう。だがその染みの形が、人の手のように見えた。
奥の光に向かって歩く。一歩ごとに、床がぎしりと鳴る。リノリウムの下の木材が腐っているのだ。いつ踏み抜いてもおかしくない。左右の病室のドアは半開きのまま放置されていた。ライトを向けるたびに、パイプベッドの骨組みや、ひっくり返った車椅子の影が浮かび上がる。ここにかつて人がいた。壁に何かを引っ掻いた跡があった。文字のようにも見えるが、読めない。読みたくなかった。
そして——光の元にたどり着いたとき、俺は立ち尽くした。
五人。
ランタンの灯りの中に、五つの顔が浮かんでいた。岸谷を含めて、全員。あの教室の全員が、ここにいた。
誰も笑っていなかった。
ランタンの炎が揺れるたびに、五つの影が壁の上で伸び縮みした。誰かの喉が小さく鳴った。唾を飲む音。沈黙が、埃の匂いと一緒に部屋を満たしていた。
俺を見る目は、七年前と同じだった。怯えと敵意が入り混じった、あの目。ただし一つだけ違うことがある。
七年前、追い詰められていたのは俺だった。
だが今、この廃病院に閉じ込められているのは——全員だ。
そのとき、天井のスピーカーが、ぶつん、と音を立てた。