第3話
第3話「第一の試練という言葉」
子どもの声が消えたあと、スピーカーからかすかなハム音だけが残った。
誰も動かなかった。動けなかったのだ。「第一の試練」という言葉が空気中に溶け残って、六人の肺を内側から冷やしていた。試練。その単語の選び方が異様だった。テストでも課題でもなく、試練。宗教的な響き。贖罪を前提とした言葉だ。
「子どもの声……」篠崎が自分の腕を抱くようにして呟いた。「録音、だよね。録音だよね?」
誰も答えなかった。録音であることは明らかだった。問題はそこではない。この廃病院の放送設備を復旧させ、あの音声を流す仕組みを用意した人間がいる。計画的に。周到に。俺たちが全員揃うのを待ってから。
「地下」
遠藤が短く言った。全員の視線が集まる。
「今の放送、最後に何か聞こえなかったか。声が切れる直前——『地下へ』と」
俺は聞き逃していた。だが遠藤の耳は正確だったのだろう。窓際に立って沈黙を守り続けていた男が、最も重要な情報を拾っていた。
桐生がランタンを持ち上げた。炎が揺れ、天井の染みが一瞬だけ人の顔に見えた。
「行くわけねえだろ。罠に決まってる」
岸谷の声は荒かったが、底に震えが混じっていた。拳の皮が剥けたまま、血を拭おうともしていない。
「じゃあどうする」桐生が岸谷を見た。「ここにいるか? 窓も扉も塞がれて、携帯も使えない。水も食料もない。黙って座ってれば朝になって誰かが助けに来るとでも?」
「少なくとも罠に自分から突っ込むよりはマシだ」
「出口があるとしたら、主催者が用意したルートしかない」
俺の言葉に、全員が振り向いた。口を開くつもりはなかった。だが思考が勝手に声になっていた。
「建物の外側は鉄板で塞がれてる。一階は全滅だ。だが主催者は俺たちを殺すためだけにここに集めたわけじゃない。殺すなら、もっと簡単な方法がある。わざわざ試練と言った。つまりクリアする道がある。少なくとも、主催者はそう設計してる」
桐生が目を細めた。俺を値踏みするような目だった。
「……お前、随分冷静だな」
「慣れてるんだ。追い詰められるのは」
桐生は何も言わなかった。ランタンの光の中で、かすかに顎を引いた。それが合図だった。
地下への階段は、正面玄関から廊下を奥に進み、突き当たりを左に折れた先にあった。ステンレスの防火扉が半開きになっていて、その向こうに下りの階段が闇に沈んでいた。扉の表面に「B1F」のプレートが錆びついている。壁に埋め込まれた案内図は大半が剥落していたが、かろうじて読める一語があった。霊安室。
階段を降りる。ランタンの光が壁を舐めるたびに、影が後ろへ後ろへと逃げていく。地下の空気は一階とは質が違った。冷たさの中に湿気が混じり、皮膚の表面に目に見えない膜を張るような重さがあった。壁のコンクリートが汗をかいている。配管から水が滴り、不規則なリズムで床に落ちる音が、心臓の拍動とずれるたびに不安を煽った。
階段を降りきると、短い廊下の先に両開きの扉があった。木製。上半分がすりガラスで、その向こうにぼんやりと光が漏れている。誰かが灯りを点けている。
桐生がランタンを掲げ、扉を押した。蝶番が悲鳴のような音を立てた。
霊安室だった。
ステンレスの解剖台が部屋の中央に鎮座し、壁面には遺体を収容する冷蔵庫の引き出しが六段、二列に並んでいる。すべて閉じられていた。天井の蛍光灯が一本だけ生きていて、青白い光を痙攣するように明滅させている。その光が室内を断続的に照らすたびに、影が踊り、壁が呼吸しているように見えた。
だが、俺たちの視線を釘付けにしたのは解剖台でも冷蔵庫でもなかった。
壁だ。
三方の壁一面に、写真が貼られていた。
A4サイズに引き伸ばされた写真。数十枚。テープで無造作に、だが隙間なく壁を埋め尽くしている。蛍光灯が明滅するたびに、その一枚一枚が暗闇から浮かび上がった。
便器に押し込まれた体操着。
床に散乱した弁当の中身。
廊下に出された机。椅子が逆さに載せられている。
教科書のページが破り取られ、黒板に画鋲で留められている。表紙には俺の名前が書いてあった。
上履きがゴミ箱に突き刺さっている写真。
体育倉庫の隅で膝を抱えてうずくまっている人間の背中。痩せた肩。俯いた頭。——俺だ。
息が止まった。写真の中の俺は、顔が見えない角度で撮られていた。だが間違えようがない。あのパーカー。あの姿勢。あの場所。体育倉庫の跳び箱の陰に隠れて、昼休みが終わるのを待っていたときの俺だ。
誰が撮った。
こんな角度から。こんな近くから。気づかなかった。気づけなかった。あのころの俺は、自分の足元しか見ていなかった。
「なん、だよ……これ……」
三村が後ずさった。背中が扉にぶつかり、扉が閉まった。三村の顔は蛍光灯の青い光の中で土気色に変わっていた。額の汗が顎から滴っている。
篠崎が口元を手で覆った。壁の写真を見つめたまま、小さく首を振っている。岸谷は壁に近づき、一枚の写真を凝視していた。俺の上履きをゴミ箱に押し込んでいる手。その手の主が誰なのか、本人にはわかるだろう。
「記録されてたってことかよ」桐生の声が掠れていた。「全部——見られてたのか」
全部ではないだろう。だがこれだけの枚数を、これだけの場面を、長期にわたって撮影していた人間がいる。俺たちの誰にも気づかれずに。
壁の写真を見つめながら、俺の目は自然と部屋の奥に引き寄せられた。
冷蔵庫の引き出しの前に、祭壇があった。
祭壇、としか呼びようのないものだった。ステンレスの台の上に白い布が敷かれ、その上に三つのものが置かれている。
一つ目は仮面だった。獣の頭蓋骨を加工したもの。鹿か、山羊か。角の部分が欠けていて、眼窩の奥が黒い空洞になっている。骨の表面は黄ばみ、こめかみのあたりに細いひび割れが走っていた。
二つ目は鈴だった。錆びた鉄の鈴。振れば音が出るのかすら怪しいほど腐食が進んでいる。紐の部分は朽ちて千切れかけていた。
三つ目は——文字だった。
白い布の上に、暗褐色の液体で文字が書かれていた。乾いて変色した、血のような色。指で書いたのだろう、画の太さが不均一で、ところどころ液が垂れた跡がある。
「贖罪の順番」
その下に六つの名前が縦に並んでいた。
一、岸谷蓮 二、三村遥斗 三、篠崎美月 四、桐生拓真 五、遠藤圭吾 六、柊真白
俺の名前が、最後にあった。
「順番って……何の順番だよ」三村の声が裏返った。「何をさせられるんだ」
答えたのは、スピーカーだった。
天井から、再びあの子どもの声が降ってきた。先ほどと同じ、感情のない朗読。だが今度は、内容が具体的だった。
「第一の試練。制限時間は九十分。時間内に条件を満たせなかった場合——」
声が一拍、止まった。蛍光灯が消えた。闇が落ちた。誰かが悲鳴を上げた。一秒。二秒。蛍光灯が再び点く。
「——順番に、消えていただきます」
消える。その動詞の曖昧さが、明確な「殺す」よりもはるかに深く臓腑に刺さった。消える。どこへ。どうやって。消えた人間はどうなる。
蛍光灯の明滅が速くなった。壁の写真が点滅する光の中でぱらぱらと動いて見えた。映写機のように。七年前の記録が、今この瞬間に再生されているかのように。
岸谷の顔から血の気が引いていた。順番の筆頭。最初に消えるのは岸谷だ。その事実が、かつて教室の王だった男の膝を震わせていた。
篠崎がしゃがみ込んだ。三村が壁に額を押しつけて何かを呟いている。祈りか、呪詛か。桐生だけが祭壇の前に立ち、仮面と鈴と血文字を交互に見つめていた。
「九十分」桐生が言った。「条件ってのは何だ。何をすればいい。それを言えよ」
スピーカーは沈黙していた。
俺は壁の写真に目を戻した。これが証拠だ。七年前の記録。これを見せることが、試練の入口なのだとしたら。この写真が問いかけているのは——お前たちは何をしたのか、という一点だ。
贖罪の順番。消える。九十分。
パズルのピースが、まだ足りない。だが輪郭は見えかけていた。
祭壇の仮面の眼窩が、蛍光灯の光を受けて、じっとこちらを見ていた。