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廃棄品の整備士

第2話 第2話

第2話

第2話

カメラのコマ送りを三度繰り返しても、黒い物質の明滅パターンは変わらなかった。〇・三秒。機械的な周期。カイはモニターの前で、親指の腹をマルチツールのグリップに押し当てたまま、思考の順番を立て直した。

画面の中で動くものを、今すぐ解析する必要はない。まず、動かないもの——船の死に具合を、先に確定させる。

整備士の優先順位は変わらない。空気、動力、穴。この順で確認する。残りすべてはその後だ。

カイは赤い非常灯の下で機関室に戻り、壁面の旧式ゲージ類を一基ずつ読み上げた。声に出すのは、冷凍睡眠後の舌の動きを戻すためと、数値を脳に刻みつけるためだ。補助バッテリー残量四パーセント。酸素タンク残圧三十一気圧。二酸化炭素吸着剤は七割が死んでいる。水タンクは満量のまま凍結している形跡。排泄循環系は沈黙。

読み上げる自分の声が、喉の奥で軋んだ。三十年ぶんの沈黙が声帯に積もっている。ゲージの針はどれも、赤い帯のすぐ外で静止しているか、帯の内側に深く落ち込んでいた。補助バッテリーの針は、息を吹きかければそのまま零点に落ちそうな位置で震えていた。

指が震えないように、マルチツールを握り直す。計算は単純だった。この船に、あと七十二時間ぶんの生存資源しか残っていない。

カイはコックピットの壁に貼り付けられた旧式の油性ペン式白板に、数字を書き始めた。電子ログは信用しない。十七年間そうしてきた。主推進系、損傷率一〇〇%。姿勢制御スラスター、燃料凍結のため作動不能。船殻の気密、暫定維持中ただし右舷下部に物理的異物あり。通信系、送信機アンテナ折損、受信機のみ辛うじて生存。

油性ペンのインクはひび割れ、二文字に一度かすれた。白板の下端に、前の航海で自分が書いた計算式の消し残りが薄く浮いている。三十年前の自分の筆跡。右肩上がりの癖が、今の筆跡と寸分違わなかった。それだけのことが、妙に胸の奥を刺した。

推進系が死んでいる以上、この惑星から自力で離脱する手段はない。現状では救難信号すら出せない。送信機は地表で最も重い三〇〇キロ級の構成部品で、手作業での交換は不可能だ。

それでも七十二時間以内にやるべきことは決まっている。大気組成の精密測定、残存部品のカニバライズ、そして外部環境の実地確認。

部品取りの候補は、頭の中に並んでいた。第三区画の予備酸素吸着剤ユニット。船尾貨物室の非常用水素燃料電池。コックピット床下の旧式無線中継機。それらを統合すれば、二酸化炭素の再吸着と最低限の電力再生を九十六時間まで延長できる。だがどれもコックピットと機関室のあいだにある正規のアクセスパネルが電動ロックで封じられている。外周路を使って船外から切開するほうが早い。

つまり、船外に出る。

カイはエアロック手前の装備ロッカーを開いた。EVAスーツは三着。このうち二着は真空対応の長期作業用、一着は大気圏内の緊急脱出用の軽装型。覗き窓で確認した気圧〇・九三気圧という値が正しければ、軽装型で充分だ。外気の酸素分圧が人間の呼吸に耐えるかは、ヘルメットの携行ガスアナライザが判定する。

スーツを着る動作は身体が覚えていた。左腕、右腕、胴部シール、バイザー。三十年ぶりのはずの手順が、指の関節に刻まれていて止まらない。装着中、バイザーの内側に薄く曇りが走った。スーツ内気温と体温の差。微細な漏れがある。許容範囲だ。完全な気密が必要な環境ではない。

スーツの内張りに、自分の古い汗の匂いが残っていた。三十年前、最後にこの装備を脱いだ夜の、整備倉庫の空気ごと封じ込められたような匂い。首の後ろで襟のシール材がわずかに硬化し、乾いた粘着音を立てて閉じた。指先のグローブを噛み合わせると、金属のクリップが二段階で嵌まる旧式の感触が戻ってきた。身体のほうが先に三十年を飛び越えている、とカイは思った。

エアロックに入り、内側のハッチを閉じる。気圧平衡の自動プロセスが動かないので、手動のバルブを段階的に開いていく。外気と船内気が混ざる瞬間、バイザー下の鼻腔に、金属の錆びに似た匂いがわずかに届いた。錆ではない。酸素でも窒素でもない、別の何か。気道の奥に違和感が残る。舌の付け根がわずかにしびれた。味覚ではなく、粘膜が何かに反応している種類のしびれだった。

ヘルメットのガスアナライザが最初の読みを吐き出した。

酸素二十二パーセント。窒素六十三パーセント。残りの十五パーセント——検出不可。地球大気にも人類の既知惑星大気にも存在しない組成比だった。毒性の表示はない。だが「既知の成分ではない気体」が一五%を占める空気を、長時間吸うことの意味は、誰にもわからない。

カイは手動でアナライザのログを固定した。数値は、のちに考える。今は、呼吸はできる。それだけで充分だった。

外側のハッチを開く。

地表に降り立った瞬間、重力の異和感が踝にきた。〇・八八G前後。計器の読みを待つまでもなく、身体のほうが先に気づいた。十七年間貨物船の人工重力場で過ごした足裏が、その微妙な軽さに戸惑っていた。

靴底が踏みしめたのは、岩盤ではなかった。岩盤に見えた暗灰色の地表は、実際には緻密な結晶構造で、踏圧に対して微かに弾性を返した。ほんの数ミリ。だが確かに沈み、戻った。天然の岩ではない。人工物、あるいはそれに準ずる何か。

一歩踏み出すたびに、靴底から返ってくる反発が微妙に揃っていた。間隔の違う複数の足音が、どこか遠くで同期する感覚。耳ではなく、骨の中で聞こえる種類の共鳴だった。バイザー越しに見上げた空は、薄い菫色と鈍い黄土色の層が、風もないのに緩やかに動いていた。雲ではない。大気そのものの密度が、層ごとに別々の速度で漂っている。

カイは地表に膝をつき、マルチツールのスペクトル検知機能を起動した。表層物質の化学分析。結果は「未定義物質」。分析器のライブラリに一致する元素配列がない。

立ち上がり、船体の右舷下部へ回り込む。

コックピットのモニターで見た黒い物質が、今度は生身の視界の中にあった。地表から伸びる根状の構造が、船底を掴んでいる。根は船の着陸時の熱で溶けた合金と融合し、船体を地面に縫い止めていた。どの方向から見ても、離陸は物理的に不可能だった。

根の表面は湿っていないのに、光だけが水に濡れたように滑っていた。角度を変えるたびに、根の内側で細い脈のような筋が走り、消えた。植物の導管にも、金属の電路にも似て、そのどちらでもない。カイはバイザーを近づけ、息を浅く抑えた。

カイは船体の亀裂部分まで視線を上げた。

亀裂は予想より大きかった。コックピットの解像度では表示されなかった微細な枝分かれが、右舷外壁の三メートル四方に渡って走っている。そしてその亀裂のすべての断面に、あの黒い物質が流し込まれ、凝固していた。金属を割ったのではない。亀裂を塞ぐように、内側から充填している。

カイはグローブを外した。大気の未知成分を承知のうえで、素手で黒い物質に触れた。

指先に、振動が返ってきた。

可聴域ではない。皮膚の下、骨を通じて脳に直接届く種類の、微弱で持続的な脈動。船体の亀裂を埋めている黒い物質は、生きていた——あるいは、動作していた。そしてその振動の周期は、コックピットのモニターで記録した〇・三秒の明滅と、同じだった。

指の腹から手首の内側へ、その脈が遡っていくのをカイははっきりと感じた。温度はない。冷たくも温かくもない。ただ、リズムだけが、皮膚の下で自分の心拍とは別の時間を刻んでいる。触れている時間が五秒を超えたあたりで、カイの心拍のほうが、わずかにその周期に引き寄せられた。〇・三秒。自分の鼓動が、機械的な間隔に整えられていく錯覚。カイは慌てて指を離した。

カイはその場でしゃがみ込み、船体側面に背を預けた。未知の組成比の空気を、バイザー越しに浅く吸う。

この物質は、船の外側から侵入してきたのではない。亀裂の形状を逆算すれば、衝撃は内側から外側へ向かっていた。つまり船内の何かが破裂し、その破裂口を塞ぐために、この黒い物質が後から流入してきた。

亀裂の位置は、第二貨物区画の外壁ではなく、その奥——冷凍睡眠室の壁の延長線上だった。

カイはバイザーの内側で、自分の心拍が一拍ごとに重くなるのを聞いた。

三十年以上、誰も必要としなかった旧式の整備士を、凍結したまま生かし続けていたのは、船のシステムではなかった可能性がある。

ヘルメットの内側から、ガスアナライザの短い警告音が鳴った。外気の未知成分が、三十秒前より〇・二%増加していた。

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