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廃棄品の整備士

第1話 第1話

第1話

第1話

冷凍睡眠槽のガラスに、亀裂が走っていた。

カイの意識が浮上したのは、警報音のせいではなかった。槽内の温度が摂氏四度まで上昇し、生体維持システムが強制解凍プロトコルに切り替わった——その生理的な不快感が、三十年以上凍りついていた神経を叩き起こした。

視界が滲む。瞼を開くたびに水滴が睫毛から落ちる。解凍液の苦い匂いが鼻腔を刺した。舌の付け根にまでその薬品臭がのぼってきて、空の胃が痙攣するように収縮した。カイは槽の内壁に手をついて身体を起こそうとしたが、筋肉が命令を拒否した。指先に力を込めようとしても、まるで自分の手ではないかのように反応が遅れる。長期冷凍後の筋萎縮。マニュアルでは最低七十二時間のリハビリが推奨されている。だが解凍後の自動リハビリ装置は沈黙していた。船内の照明も、空調の低い唸りも、何もない。

静寂だけが、カイを迎えた。

歯を食いしばり、槽の縁を掴んで身体を引きずり出す。解凍液がスーツの隙間を伝って背中を流れ落ち、冷たい筋が皮膚の上を這った。膝が床に着いた衝撃で、ようやく痛覚が戻ってきた。鈍い痺れの奥に、鋭い一点の痛みが灯る。冷たい金属の床。その冷たさが膝頭から脛へ、足首へと伝播し、身体が生きていることを末端から思い出させた。《ヘルメス・ノヴァ》の機関室だ。旧式貨物船。登録番号HN-0447。カイが十七年間、背骨のように整備し続けた船。

最後の記憶が、解凍でぼやけた脳に浮かぶ。

『——当該船舶は経済耐用年数を超過。乗員の再配置先はなし。船体ごとスクラップ処分とする』

あの通告のあと、何が起きた。なぜ自分は冷凍睡眠に入っている。そしてなぜ、今、目覚めた。

カイは壁面の非常用パネルを手探りで開いた。パネルの留め具が錆びついていて、爪の間に金属片が食い込んだ。構わず引き開ける。機械式の気圧計と温度計。電力がなくても動く、前時代の遺物。気圧は0.93気圧。温度は摂氏十八度。船内環境としては正常範囲だが、これは船の空調が維持しているのではなく、外気がそのまま流入している値だった。

つまり、船殻のどこかに穴が開いている。

四つん這いのまま、カイは機関室から通路へ這い出た。非常灯すら点いていない暗闇の中、壁の配管を手で辿りながら進む。指の腹が配管の接合リングを一つずつ数える。左手が触れたバルブの並び順で現在位置を把握する。B-3区画。主電源室の手前。この船の配管配置なら目を閉じていても歩ける。十七年間、毎日触れてきた。

主電源室のドアは半開きで固まっていた。手動レバーを引いて隙間を広げ、身体をねじ込む。レバーのグリスが乾ききっていて、金属同士がこすれる嫌な振動が肘まで伝わった。補助バッテリーのスイッチを手探りで入れると、天井の非常灯がひとつだけ、赤く点った。

その薄い赤光の中で、カイは主電源の状態を読んだ。メインリアクターは停止。燃料電池は完全放電。補助バッテリー残量は四パーセント。AIコアへの給電ラインは断線。航法コンピューターは電力不足でスリープ状態——いや、ストレージ自体が物理破損している。

航法データは死んでいた。現在位置を知る手段がない。

カイは通路を伝い、船首のコックピットへ向かった。通路の途中で、壁面に指先が妙な凹凸を拾った。塗装の剥離ではない。金属そのものが外側から押されたように膨らんでいる。何かが船体に圧をかけている。カイは一瞬立ち止まり、その膨らみの輪郭を指でなぞったが、今は電力確保が先だと判断して先を急いだ。

フロントビューポートのシャッターは電動式で、当然開かない。だが右舷の小型覗き窓なら手動ラッチで開く。整備士はすべての手動バイパスを知っている。

ラッチを回した。

覗き窓の向こうに広がっていたのは、カイが知るどの宇宙港の風景でもなかった。

赤紫の空。太陽に似た恒星がふたつ、低い角度で地平線に並んでいる。二つの光源が作る影は交差し、地表に奇妙な二重の陰影を落としていた。地表は暗い灰色の岩盤で、その上に——幾何学的な構造物が、林立していた。三角錐、正八面体、人類の建築にはない多面体。高さは数十メートルから数百メートルまで様々で、表面には継ぎ目がない。単一素材から削り出されたか、あるいは成長したかのような均質さ。構造物の間を赤紫の大気がゆるやかに流れ、地表近くで薄い靄を作っている。音は聞こえない。風の音すら。それが逆に、この風景が覗き窓という厚いガラス一枚の向こうに実在していることを、不気味に強調していた。

人類の星図にある、どの惑星とも一致しない光景だった。

カイの手が小さく震えた。恐怖ではなかった。冷凍睡眠後の筋弛緩がまだ残っている。そう自分に言い聞かせながら、覗き窓から目を離した。

状況を整理する。船は未知の惑星に着陸——あるいは墜落している。AIは応答しない。航法データは失われた。ここがどこかもわからない。なぜ自分が生きているのかもわからない。

だが、わかることもある。

カイは通路に戻り、機関室のロッカーから整備用のマルチツールを取り出した。グリップに刻まれた傷の位置を親指で確認する。七年目に落としてついた傷。手に馴染んだ重さ。このツールだけが、三十年前と変わらない感触をカイの掌に返した。

損傷チェックを始める。

まず船体の気密性。穴の位置と大きさ。次に残存システムの一覧。使えるものと使えないもの。それから外部環境の精密確認。大気組成、重力、放射線量。

順番がある。手順がある。整備士にはそれしかない。理論も戦術もない。ただ、壊れたものの前に立ったとき、最初に何を確認し、次に何を触るか。その判断だけが、カイという人間に残された技能だった。

『——乗員の再配置先はなし』

誰にも必要とされなかった。船ごとスクラップ。部品取りの価値すらないと判定された旧式貨物船と、その整備士。

カイはマルチツールのビットを交換し、主電源室の断線した給電ラインの被覆を剥いた。手が覚えている。考えるより先に指が動く。被覆の下の導線は酸化が進んでいたが、芯線は生きていた。酸化膜をビットの先端で慎重に削る。銅の地金が赤光に鈍く光った。応急接続で補助バッテリーからAIコアへの給電を試みる。

反応なし。AIコアそのものが物理的に損傷している可能性が高い。

次。船外カメラ。こちらは補助バッテリーの残量で起動できるかもしれない。カイはコックピットに戻り、カメラ制御の手動スイッチを入れた。モニターがノイズを吐き、数秒後に像を結んだ。

船外カメラが捉えた光景に、カイの手が止まった。

船体の右舷下部。着陸脚——いや、《ヘルメス・ノヴァ》には着陸脚はない。宇宙港のドッキングクレーンで固定する設計だ。にもかかわらず、船は地表に直立していた。船底から岩盤に向かって、船の素材ではない黒い物質が根のように伸び、船体を支えている。

それだけではなかった。

カメラのアングルを変える。船体の右舷中央部、第二貨物区画の外壁に、亀裂が走っている。そこから侵入するように、あの黒い物質が船殻に融合していた。金属とも鉱物とも有機物ともつかない質感。表面に微細な紋様が浮かんでおり、それは地表の幾何学構造物の表面パターンと同じだった。

カイはモニターに顔を近づけた。赤い非常灯がモニターのガラスに反射し、自分の顔が画面の中に透けて映った。三十年以上歳を取っていないはずの顔。その目が、画面の中の異質な黒い物質を凝視していた。

カメラの解像度が低い。だが、見間違いではないことを確認するために、録画モードに切り替えて同じ箇所を三十秒間記録した。再生。コマ送り。

黒い物質の表面紋様が、変化していた。

〇・三秒ごとに明滅するパターン。機械的な規則性。ランダムノイズではない。

カイは視線をモニターから外し、覗き窓の向こうに並ぶ構造物群を見た。赤紫の大気の下で、幾何学的な多面体のひとつが——ほんの微かに、だが確かに——脈動していた。

この惑星は、動いている。

カイはマルチツールを握り直した。グリップの傷に親指が嵌まる。いつもと同じ位置。損傷チェックの手順は、まだ始まったばかりだった。

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