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廃棄品の整備士

第3話 第3話

第3話

第3話

ガスアナライザの警告音が、バイザー内で二度鳴った。未知成分〇・二パーセントの増加。数値としては微小だが、基準線を定める前の環境で変動を許すわけにはいかない。カイは素手を船体の黒い物質から離し、グローブを装着し直した。指先の皮膚にはまだ、あの〇・三秒周期の脈が、残像のようにしびれている。

船内への帰還手順は、外出時と逆に踏む。エアロックの外ハッチを閉じ、バルブを段階的に絞る。バイザー下に戻ってきた船内の空気は、解凍液の苦い薬品臭と、三十年間誰も拭かなかった金属の埃の匂いが、きちんと元通り混じっていた。船内の空気を「懐かしい」と感じたこと自体が、外がそれほど異質だったという証明だった。

機関室の壁面ゲージを順に確認する。酸素タンク残圧、補助バッテリー残量、船殻気密。数値はさっきと変わらない。変わっていないということが、今は最大の安心材料だった。カイはEVAスーツの胸部シールを外さず、ヘルメットだけ脱いだ。次の外出がいつ必要になるかわからない。手順を省けるところは省く。

白板の前に立ち、油性ペンのキャップを歯で咥えた。

「黒い物質。船底と亀裂部を占有。振動周期〇・三秒。表層物質未定義」

書きながら、頭の中で順番を組み直した。異物は船の外から侵入したのではない。亀裂は内側から外側へ開いていた。ならば、物質は亀裂のあとから流入したはずだ。ならば——どこから。

冷凍睡眠室のドアは半開きのまま固着していた。解凍プロトコルの強制切り替えで、電動ロックが途中で止まったのだろう。手動レバーを引いて隙間を広げ、身体を入れる。

中は狭い。三畳ほどの円筒状空間に、冷凍睡眠槽が一基だけ据えられている。ガラス槽の内壁には、カイ自身が漏らした解凍液の痕跡がまだ湿って残っていた。槽の背面、配管と制御ユニットが集中する区画——そこに、外で見たのと同じ黒い物質が、配管を巻き込むように絡みついていた。

カイはマルチツールのスペクトル検知プローブを当て、物質が生体維持制御ユニットのどこまで侵入しているかを追跡した。光学センサーが物質の厚みをミリメートル単位で読み上げていく。〇・四、〇・八、一・二。物質は冷凍槽の生命維持制御ライン、すなわち冷却剤循環と解凍プロトコルを管理する基幹系に、完全に癒着していた。プローブを数ミリずらすと、物質の表面が鏡のように光を返した。しかしその光は、プローブ自体が発した微光ではなく、もっと奥の層から漏れ出したもののようにも見えた。整備士の経験則で言えば、これは反射ではなく、微発光だった。厚みの計測値に一切の誤差ゆらぎが乗っていないことにも、カイは気づいた。自然物は、ここまで均一に積層しない。

ツールのログ表示を切り替え、生命維持ログの履歴にアクセスする。主電源は三十年前に尽きているはずだった。だが生命維持ログは、三十年間ずっと記録を続けていた。〇・三秒ごとにタイムスタンプが打刻され、槽内温度、冷却剤圧力、解凍液濃度が、休みなく更新されている。記録装置を動かしていた電源は、船のどこにも存在しなかった。

ログの電源系列を辿ると、給電線が冷凍槽の制御ユニットから、あの黒い物質へ直接つながっていた。電圧は微弱で、しかし不気味なほど安定していた。変動幅は一般的な太陽光パネル出力の百分の一にも満たない。波形の縁が、定規で引いたように真っ直ぐだった。自然界のエネルギー源は、ここまで行儀良く流れない。船内の配電盤が一度でも経験した負荷のどれとも、似ていなかった。

カイは白板の隅に、数式を走り書きした。三十年前の右肩上がりの筆跡と、今の自分の筆跡が、同じペンの先から並んで流れた。

三十年間、電力は、船ではなく、黒い物質から供給されていた。

つまりこの物質は、船が停止したあと、冷凍槽に後から接続し、三十年以上にわたってカイの代謝を維持していた。スクラップ通告を受けた旧式貨物船の、誰にも必要とされなかった整備士を、未知の装置が独自の判断で、生かし続けた。

「……なぜだ」

自分の声が、解凍でまだ粘ついた喉の奥で、不格好に割れた。整備士は通常、なぜ動いているかより先に、どう動いているかを問う。だが今、カイは順番を間違えた。間違えたことに気づいた瞬間、グローブの中で指先が冷たくなった。感情ではない。皮膚の下の毛細血管が、反射的に収縮している。整備士は物体の振る舞いに感情を読み取らない訓練を受けている。ポンプが止まれば配管を替え、基板が焼ければ交換する。善意も悪意も挟まない。だが今、カイは自分の代謝を三十年維持したものに対して、善悪以前の判断を一瞬でも怠ったことを、鋭く認識した。整備士の思考順序が崩れたのは、入社以来、これが初めてだった。

マルチツールのグリップに、親指が自然と嵌まった。七年目の傷。手に馴染んだ角度。カイはプローブ先端を、配管を取り巻く黒い層の、もっとも薄く滑らかな一点に、意識的に押し当てた。

ツールが表面に触れた瞬間、手応えが変わった。機械的な接触抵抗ではない。ツールの金属そのものが、微細に吸い寄せられる感覚。磁力ではなかった。磁力なら、グリップの慣性に沿って引かれる方向が一定のはずだった。だがこの吸引は、プローブの先端にだけ偏って働き、根元に向かって段階的に弱まっていた。引かれているのは金属ではなく、金属が帯びている何か別の属性だった。プローブ先端から、グリップを握るカイの手のひらに向けて、小さな電流に似た刺激が走った。整備士の手は、電流が針路を持ったときの感触を知っている。だが、これは電流ではなかった。

視界の右下に、見えないはずの四角いフレームが浮かんだ。

最初、カイはバイザーの結露を疑った。だがヘルメットはすでに脱いであった。次に、冷凍睡眠後の一過性の網膜症状を疑った。だがそれにしては、フレームの輪郭が鋭すぎた。四角形の中には、カイの既知のどの言語体系にも一致しない記号列が、縦横斜めに組み合わされて展開している。

記号は動いていた。〇・三秒ごとに、配置が組み替わる。

フレームが増えた。二枚、四枚、八枚。視界の周縁部から中央に向けて、半透明のレイヤーが折り重なっていく。記号の中に、ところどころ数式の断片が混ざり始めた。テンソル表記に似た構造。ただし演算子の数が、人類の数学より二つ多い。余分な二つは、既知の対称性を崩すのではなく、むしろ新しい種類の対称性を成立させているように見えた。数学者なら泣いて喜ぶだろう。整備士にとっては、見えてはいけないものが、見えているという事実の方が、はるかに重かった。

カイはマルチツールを離そうとした。

離せなかった。

手のひらの筋肉が命令を拒否したのではない。ツールの側が、離れることを許さなかった。配管の黒い物質が、プローブの先端を飲み込むように伸び、グリップにまで這い上がってきていた。カイのグローブの素材を滑り、手首の内側で止まる。

〇・三秒の脈が、手首から肘へ、肘から肩へ、肩から首の後ろへ、順に駆け上がった。身体の内側のいくつかの時計が、同じ時刻に合わされていく感覚。

視界のレイヤーが密度を増した。記号、数式、見知らぬ幾何学図形、そして——自分自身の生体情報らしき数値列。心拍、血中酸素、皮膚電位。三十年間の冷凍睡眠期間中のログが、時系列で高速再生されているのだと、カイは最後の理性で理解した。整備士としての観察癖が、自分が解析対象になっていることを、遅れて認識した。

耳鳴りが始まった。周波数が一定ではない。〇・三秒ごとに、可聴域のどこかに一瞬だけ山が立つ。その山が、視界のレイヤー更新と完全に同期している。

カイは膝をついた。倒れたのではない。意識が先に倒れ、身体が遅れて床に降りた、という順序だった。

床の冷たさが、頬に触れた。その冷たさが、冷凍槽の内壁の温度と同じだったことに、カイは気づいた。膝の下の金属が、指先の黒い物質と、首筋を走る脈動と、すべて同じ〇・三秒の周期で、かすかに振動していた。船が振動しているのではない。この惑星そのものが、カイの神経系を一つの端末として、数え始めていた。

視界が白く潰れる直前、最後のレイヤーが一枚だけ、中央に残った。未知の記号列の中に、一行だけ、カイが読めるものが混じっていた。

〈——記録ID:HN-0447、再接続成功〉

三十年前、カイ自身がこの手で船体側面に刻印した、ただの識別符号だった。親指はまだ、マルチツールの七年目の傷に、嵌まったままだった。

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