第2話
第2話
翌朝、八神は事務所の椅子で目を覚ました。上着を着たまま眠っていたらしい。首が痛い。壁掛け時計は午前九時を過ぎていた。
昨夜の電話の後、桐谷凛とは短い会話しかできなかった。声は落ち着いていたが、受話器の向こうでかすかに鼻をすする音が聞こえた。「明日、そちらに伺ってもいいですか」。八神は「どうぞ」とだけ答えた。
事務所を見回す。埃が溜まった本棚。積み上がったファイルボックス。来客用のパイプ椅子は錆びかけている。依頼人を迎えるにはあまりに貧相だが、今さら取り繕っても仕方がない。八神はせめてもの体裁として、デスクの上の請求書を引き出しに押し込み、コーヒーメーカーのフィルターを替えた。
十時ちょうどにインターホンが鳴った。
桐谷凛は二十代半ばに見えた。黒いワンピースに、化粧気の薄い顔。目元にうっすらと隈がある。だが背筋はまっすぐで、玄関先での一礼には乱れがなかった。泣き腫らした目ではない。泣き尽くした後の目だ、と八神は思った。
「八神遼です。お掛けください」
凛はパイプ椅子に腰を下ろし、膝の上でバッグを抱えた。コーヒーを出すと、小さく礼を言い、口をつけないまま話し始めた。
「昨日の夜は、突然すみませんでした。父が亡くなったのは三日前です。警察は自殺だと」
「聞いています」
「納得できないんです」
凛の声は平坦だった。感情を押し殺しているというより、何度も繰り返して磨り減った言葉のようだった。警察にも同じことを言ったのだろう。そして、取り合ってもらえなかったのだろう。
「根拠はありますか」
凛はバッグからスマートフォンを取り出した。画面を操作し、八神に差し出す。メッセージアプリの画面だった。送信者は「お父さん」。日付は四月六日——桐谷誠一が死亡した当日の午後五時十三分。
〈明日の会食が楽しみだ。例の店を予約した。凛も来るか?〉
八神はメッセージを二度読んだ。
「会食というのは」
「父が取引先と月に一度やっていた食事会です。翌日の四月七日に予定されていました。予約の記録も残っています。帝都ホテルの和食処で、十八時から四名。父が幹事でした」
八神は椅子の背もたれに体重を預けた。自殺する人間が、数時間後に死ぬつもりで、翌日の会食の予約を入れるだろうか。娘を誘うだろうか。
もちろん、自殺者の行動パターンは一様ではない。直前まで日常を装うケースもある。遺書がないことも珍しくはない。メッセージ一通では根拠として弱い。
だが——弱いからこそ、警察が動かない。そして警察が動かなければ、事件は自殺として処理される。桐谷誠一の右手首にあった不自然な痕跡は、報告書の片隅に埋もれたまま忘れ去られる。
「他に、気になる点は」
「父は先月から、帰宅が遅くなることが増えていました。理由は聞いても教えてくれませんでした。それから——」
凛は少し間を置いた。
「亡くなる一週間ほど前に、一度だけ、父が私に言ったことがあります。『大事な書類を会社の外に置いてある。何かあったら、波多野には渡すな』と」
「波多野、というのは」
「父の会社の共同経営者です。波多野隆之。創業時からの相棒で、父は信頼していたはずなのに、その言い方だけが妙に切迫していて」
八神はメモを取った。波多野隆之。共同経営者。桐谷が「渡すな」と言った相手。
「その書類の場所は聞いていますか」
「いいえ。それきり、父はその話をしませんでした。私も聞きそびれたまま——」
凛の声がわずかに揺れた。だがすぐに持ち直し、八神の目を正面から見た。
「八神さん。私は父が自殺したとは思っていません。でも警察は動いてくれない。私は素人です。自分では何も調べられません。だから、あなたに依頼したいんです」
八神は凛の視線を受け止めたまま、数秒の沈黙を置いた。引き受けるべきか。あの右手首の痕跡が脳裏にちらつく。利き手との矛盾。均一な圧迫痕。自分にしか見えていない違和感だ。それを追う理由はある。だが、追う資格があるのかは別の問題だった。
依頼ゼロの事務所。実績のない看板。もし引き受けて、結果が出なかったら——いや、結果が出なかった場合の心配をしている余裕はない。もっと根本的な問題がある。
八神が断れば、この事件を追う人間はいなくなる。凛は一人で行き詰まり、桐谷誠一の死は自殺として確定し、あの密室の中で起きたかもしれない犯罪は闇に沈む。
自分が断ればそうなるという事実が、選択肢を一つに絞っていた。
「報酬の話をさせてください」
凛が目を見開いた。八神が値段の話を切り出すとは思っていなかったのかもしれない。
「経費は実費で請求します。日当は要りません。ただし、もし事件として立件された場合——つまり自殺ではなかったと証明できた場合に限り、成功報酬をいただきます」
「……いいんですか。それでは、結果が出なければ」
「出なければ、私の勉強代です」
八神の口から出た言葉は、半分は本音で、半分は強がりだった。成功報酬制を選んだのは凛への配慮ではない。自分自身に退路を断つためだった。金がかかっていなければ、途中で投げ出す誘惑に負ける。成功しなければ一銭も入らないという条件が、八神を現場に縛りつける鎖になる。
凛は深く頭を下げた。「よろしくお願いします」
八神は契約書の雛形を引き出しから出した。大学時代の先輩の弁護士に作ってもらったもので、使うのは初めてだった。凛が署名する間、八神はメッセージアプリの画面をもう一度見た。
〈明日の会食が楽しみだ〉
楽しみだ、と書いた男は、その数時間後に服を着たまま浴槽に沈んでいた。内側から施錠された密室の中で。
帰り際、凛は玄関先でもう一度振り返った。
「八神さんは、なぜ引き受けてくれたんですか。会ったばかりなのに」
「気になることがあったからです。まだ形にはなっていませんが」
凛は小さく頷いて去った。その背中を見送りながら、八神は自分が「気になること」の中身を凛に伝えなかったことに気づいた。右手首の痕跡。利き手の矛盾。まだ仮説にすらなっていない段階で依頼人に話すべきではない。期待させて裏切るのは、何も言わないより残酷だ。
事務所に戻ると、急に静けさが重くなった。パイプ椅子には凛が座っていた微かな温もりが残っているような気がしたが、触れてみれば冷たい金属だった。
八神はデスクの前に座り、しばらく動かなかった。桐谷誠一。密室。右手首。波多野隆之。会食の予約。渡すなと言われた書類。情報の断片が散らばっている。だが、どこから手をつけるべきか。
無意識に、視線がデスクの下段の引き出しに向かった。
ここに事務所を継いだとき、父の私物の大半は処分した。だが一つだけ、捨てられなかったものがある。八神は引き出しを開け、奥から茶色い革表紙のノートを取り出した。
父——八神大介の捜査ノートだ。現職時代に個人的につけていた記録で、公式の書類ではない。だから手元に残った。八神はこのノートを通して読んだことはなかった。父の字は癖が強く、略語と記号が多く、他人には読みにくい。それでも何度か拾い読みはしていた。
ページをめくると、ある事件の記録で手が止まった。日付は十五年前。父が四十代だった頃の案件だ。父の字で、赤いボールペンの下線とともにこう書かれていた。
〈四人全員のアリバイ——完璧すぎる。全員が動かないということは、全員が動いているのと同じだ。なぜそう見えるのか。誰が絵を描いたのか〉
八神はその一節を、二度、三度と読み返した。完璧すぎるアリバイ。父もまた、同じ壁にぶつかっていた。結末のページを探したが、その事件の記述はそこで途切れていた。解決したのかどうかも分からない。
だが、父の問いかけは残っている。
——全員が動かないということは、全員が動いているのと同じだ。
八神はノートを開いたままデスクに置き、新しいページを破り取った。白い紙の上部に日付を書き、その下に四つの名前を並べた。波多野隆之。園田——秘書。桐谷美鶴——元妻。福原——管理人。凛の話と戸塚から聞いた断片から、まず調べるべき人物の輪郭が浮かんでいた。
父のノートの言葉が、まるで今の自分に向けられたかのように響いている。
蛍光灯が一度だけ明滅した。八神はそれに気づかないまま、四つの名前を見つめ続けていた。