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密室の先にある赤いバツ印

第3話 第3話

第3話

第3話

翌日の朝から、八神は動いた。

 まず戸塚に電話をかけた。依頼を受けたことは伏せ、「勉強のために関係者の情報を教えてほしい」と頼んだ。戸塚は少し間を置いてから「もう終わった事件だぞ」と言ったが、結局は教えてくれた。自殺で処理済みの案件に、情報を出し渋る理由もないのだろう。

 八神はデスクに広げた白紙に、四つの名前と基本情報を書き出した。

 波多野隆之、五十五歳。桐谷の共同経営者で、不動産会社クリアステートの取締役。創業時から二人三脚で会社を築いてきた人物。園田沙織、三十一歳。桐谷の個人秘書。勤続五年。桐谷美鶴、五十三歳。桐谷の元妻。三年前に離婚。慰謝料をめぐる争いが続いていた。福原正人、六十二歳。タワーマンションの管理人。桐谷の住む三二〇一号室を含むフロアの夜間巡回を担当。

 四人。桐谷誠一の死に関わり得る位置にいた人間は、この四人に絞られる。マンションのセキュリティシステムは厳重で、住人か関係者以外の出入りは記録に残る。当夜の来訪者記録に不審な人物はなかった。戸塚が確認済みだという。

 ならば、内部の人間だ。八神はペンを握り直し、四人それぞれの犯行時刻における行動を調べ始めた。

 死亡推定時刻は四月六日の午後九時から十一時の間だと、戸塚は言っていた。

 最初に当たったのは波多野だった。

 クリアステートのオフィスは新宿の高層ビルに入っている。八神が訪ねると、波多野は応接室で待っていた。大柄な男で、スーツの肩幅が広い。白髪交じりの髪を撫でつけ、表情は沈痛だったが、目の奥には警戒の色があった。革張りのソファに深く座り、組んだ足の先が微かに揺れている。

「桐谷の件で話を聞きたいと。あなたは探偵だそうですね」

「ご遺族からの依頼です。念のため、関係者の方にお話を伺っています」

「構いませんよ。やましいことはありませんから」

 波多野は事件当夜の行動を淀みなく語った。午後六時に退社し、午後七時から新橋の料亭で取引先の接待。出席者は三名。二次会はなく、午後十時に店を出てタクシーで帰宅。料亭の予約記録、タクシーの配車アプリの履歴、取引先の担当者の証言——すべてが揃っている。

「お役に立てましたか」

 波多野は丁寧に微笑んだ。八神は礼を言って辞去した。

 次は秘書の園田だった。オフィスの別室で話を聞いた。小柄な女性で、髪をきっちりと束ねている。声は低く、落ち着いていた。

「事件当夜は残業でした。桐谷社長が翌日の会食で使う資料を作成していたんです。皮肉ですよね……社長はその会食に出られなかったわけですから」

 園田は午後五時半から午後十一時半までオフィスにいたと証言した。入退室カードの記録が裏付けている。カードキーは個人認証式で、他人が代わりに使うことはできない。六時間の残業。長いが、月末の業務処理としては不自然ではない。

 三人目、元妻の桐谷美鶴。電話で話を聞いた。声には棘があった。

「あの人が死んだことは気の毒に思いますよ。でも、私はもう関係ない人間です。当日ですか? 実家にいました。母と一緒に夕食を食べて、十時には寝ました。母に聞いてもらえれば分かります」

 美鶴の母親にも確認を取った。証言は一致していた。美鶴は午後六時に実家に到着し、翌朝まで外出していない。実家は神奈川の郊外で、桐谷のマンションまでは電車で一時間以上かかる。

 最後に管理人の福原。マンションの管理室で話を聞いた。白髪の痩せた男で、制服の襟元がくたびれていた。管理室には防犯モニターの青白い光が並び、消毒液に似た無機質な匂いが漂っていた。

「巡回は通常通りやりましたよ。午後十時に三十二階を回って、異常なしでした。三二〇一号室のドアの前も通りましたが、物音はなかった。翌朝の九時に、新聞が溜まっていたのが気になって管理室からインターホンを鳴らしました。応答がなかったので、マスターキーで入りました」

 福原の巡回記録はマンションの管理会社に報告されている。午後十時に巡回開始、三十二階から順に下りて、午後十時四十分に管理室に戻ったと記録されていた。

 事務所に戻った八神は、デスクに向かって時系列表を作り始めた。

 模造紙は持っていないので、コピー用紙を四枚つなぎ合わせた。横軸に午後六時から午前零時までを三十分刻みで取り、縦軸に四人の名前を並べる。各人の行動を色分けして書き込んでいく。

 波多野——午後七時から十時まで料亭。移動時間を加味しても、犯行時刻帯に現場に行くことは不可能。

 園田——午後五時半から十一時半までオフィス。カード記録あり。途切れることなく在室。

 美鶴——午後六時から翌朝まで実家。母親の証言あり。物理的距離が遠すぎる。

 福原——午後十時に三十二階を巡回。その前後も管理室にいたことが記録で裏付けられている。

 四本の横棒が、犯行時刻帯を隙間なく埋めていた。

 八神はペンを置き、紙面を見下ろした。完璧だった。四人全員に、犯行時刻のアリバイがある。しかもそのいずれもが、第三者の証言か客観的な記録で裏付けられている。口裏を合わせた程度では作れない、堅固な壁だ。

 だからこそ警察は自殺と判断した。密室で、関係者全員にアリバイがある。他殺を疑う余地がない——少なくとも表面上は。

 八神は椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。蛍光灯は今日は点滅していない。昨日替えたばかりだ。白い光が時系列表を均等に照らしている。

 何かが引っかかっていた。

 胸の奥に、小骨のような違和感がある。論理ではまだ言語化できない。ただ、長年の現場仕事で培った勘が、この整いすぎた構図に対して微かな警報を鳴らしていた。

 八神は身を起こし、もう一度時系列表を眺めた。四本の横棒。午後六時から深夜零時まで、四人の行動が分刻みで記録されている。波多野の料亭滞在、園田のオフィス残業、美鶴の実家滞在、福原の巡回。すべてが整然と並んでいる。

 ——整然としすぎている。

 八神はペンを取り直し、各人のアリバイの「開始時刻」と「終了時刻」に赤丸をつけていった。波多野の接待開始が午後七時。園田の残業開始が午後五時半。美鶴の実家到着が午後六時。福原の巡回開始が午後十時。

 犯行推定時刻は午後九時から十一時だ。その二時間を中心に前後一時間ずつの余裕を持たせても、四人全員がきれいに「埋まっている」。空白がない。誰一人として、ほんの三十分の隙間すらない。

 日常生活において、四人の人間の行動がこれほど完全に記録されていることが、果たして自然だろうか。

 普通の夜なら、誰しも説明のつかない三十分や一時間を持っている。コンビニに寄った、散歩した、ぼんやりしていた——曖昧で、記録に残らない時間だ。だが桐谷が死んだ夜に限って、四人全員の行動が分刻みで裏付け可能になっている。

 父のノートの言葉が蘇った。

 ——全員が動かないということは、全員が動いているのと同じだ。

 八神は時系列表の余白に、小さく書き込んだ。

〈全員のアリバイが完璧——偶然か、設計か〉

 まだ答えは出ない。だが、問いの形は見えた。四人の誰かのアリバイに穴があるのではない。四人のアリバイが揃いすぎていること自体が、異常なのだ。

 八神は時系列表をデスクの壁に画鋲で留め、四本の横棒を見つめた。この中のどこかに、必ず綻びがある。完璧に設計されたものには、完璧であるがゆえの脆さがあるはずだ。

 問題は、どこから崩すかだった。

 スマートフォンが鳴った。戸塚からのメッセージだった。

〈マンションの管理会社に知り合いがいる。エレベーターの稼働ログが欲しければ紹介してやる〉

 八神は画面を見つめた。エレベーターの稼働ログ。各階への停止時刻と乗降記録。それがあれば、少なくとも福原の巡回時刻を客観的に検証できる。管理人が自己申告した「午後十時」という時刻が、機械の記録と一致するかどうか。

 八神は返信を打った。

〈お願いします〉

 時系列表の四本の横棒が、蛍光灯の光の下で静かに並んでいた。この完璧な壁のどこかに、最初の亀裂を見つけなければならない。

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