第2話
第2話
走った先は村瀬容子の自宅ではない。自分の事務所だ。
尾行は振り切った。だが二台のセダンが張りついていた以上、事務所の所在地は割れている。留守の間に何をされたかわからない。盗聴器、監視カメラ、あるいはもっと直接的な——。
雑居ビルの前で足を止める。外観に変化はない。一階のラーメン屋は仕込みの煙を出し、豚骨の匂いが湿った空気に混じって鼻をついた。二階の中国語教室は看板が傾いたまま。三階の窓、自分の事務所。カーテンの位置を確認する。出るとき左端を三センチ開けておいた。今も三センチ。触られていない。
階段を上がる。足音を殺す。蛍光灯の明滅が目に障る。廊下の突き当たり、事務所のドア。ドアノブに貼っておいた髪の毛。残っている。入室の痕跡なし。
中に入り、手早く室内を調べた。机の裏、電話の受話器、コンセントプレートの内側。盗聴器なし。窓枠にも異常なし。
ひとまず安全か。
村瀬容子への連絡はつかない。だが、電話に出ないことと危険が迫っていることは同義ではない。充電切れかもしれないし、地下にいるのかもしれない。焦るな。まず調査を進める。
神崎はノートを開き、村瀬誠一の情報を整理した。五十七歳。機械メーカー営業部。半年前に退職。三週間前に失踪。写真の顔を改めて見る。特徴のない中年男。だが半年間、妻に退職を隠して毎朝家を出ていた男だ。隠し事には慣れている。
まず勤務先を当たる。
村瀬が勤めていた東洋精機の本社は品川にあった。受付で名刺を出し、人事部を呼んでもらう。待っている間、ロビーの壁に掛かった社是が目に入った。「誠実と技術」。応対に出た若い男は、村瀬の名前を聞いた瞬間に表情を固くした。
「退職された方の件には、お答えしかねます」
「退職理由だけでいい」
「個人情報ですので」
マニュアル通りの対応。だが、表情が硬すぎる。単なる自己都合退職なら、ここまで警戒しない。
「村瀬さんが失踪しているのはご存知ですか」
男の目が泳いだ。知っている。
「申し訳ありませんが——」
「わかった」
これ以上押しても出てこない。だが反応は拾えた。東洋精機は何かを知っている。あるいは、何かを知らされている。口止めされている人間の反応だ。
次。携帯電話。容子から聞いた番号に改めてかける。「この番号は現在使われておりません」。半年前の退職とほぼ同時期に解約されている可能性が高い。計画的だ。
午後。神崎は朝の尾行車のナンバーを手帳から引っ張り出した。黒いセダン、品川ナンバー。シルバーのセダン、練馬ナンバー。二台とも普通の国産セダン。目立たない車種。だからこそ怪しい。
知り合いの中古車ディーラーに電話をかける。宮本という男で、車両のナンバーから持ち主を辿れるルートを持っている。合法ではないが、この業界では日常だ。
三十分後、宮本から折り返し。
「両方ともレンタカーだ。法人契約。契約者は——えーと、『アジア太平洋コンサルティング』って会社。登記は港区。ただな、神崎」
「何だ」
「この会社、調べたけど実体がねえ。登記簿は出るが、オフィスはバーチャル。従業員ゼロ。電話番号はあるが繋がらない。ペーパーカンパニーだよ」
受話器を持つ手に力が入る。「アジア太平洋コンサルティング」。名前の響きに既視感がある。防衛関連の外郭団体がよく使う命名パターン。アジア何々機構、太平洋何々研究所。実体のない看板だけの法人。
「宮本、もう一つ頼みがある。その法人の登記簿、代表者名と設立年月日を送ってくれ」
「金かかるぞ」
「払う」
電話を切った。
実在しない会社がレンタカーを二台借り、プロの尾行を仕掛けてきた。相手は身元を隠す術を持ち、金と人員がある。民間のトラブル——浮気調査の妨害や、借金絡みの脅し——で、ここまでやる人間はいない。
煙草に火を点ける。紫煙を吐き出しながら、断片を並べる。
退職を隠していた夫。訓練された尾行。ペーパーカンパニー。
まだ線は繋がらない。だが匂いはする。軍にいた頃に何度も嗅いだ、組織の匂いだ。個人の犯罪は雑で衝動的だが、組織の犯罪は静かで整然としている。痕跡を消し、証人を黙らせ、調べる者を排除する。一つひとつの動作に手順がある。
マニュアルがあるのだ。
夕方。宮本から登記情報が届いた。代表者名は「佐伯隆」。設立は四年前。佐伯隆という名前に心当たりはない。おそらく偽名かダミーの人物だ。だが四年前という設立時期は引っかかる。村瀬が東洋精機に在籍していた時期と重なる。
村瀬容子に再度電話をかける。今度はコールが鳴った。五回。六回。七回目で、出た。
「もしもし——」
声がかすれている。泣いた後の声だ。
「神崎です。朝から連絡がつかなかった」
「すみません。携帯を、落としてしまって……画面が割れて」
嘘か本当か、今は問わない。
「ご主人の件で確認したいことがある。退職前に、仕事の内容が変わったとか、出張が増えたとか、そういったことは」
しばらく沈黙。受話器の向こうで、容子が息を整える気配がした。
「——出張は、増えました。月に二回くらい、横浜に行くと言っていました。泊まりで」
横浜。覚えておく。
「もう一つ。『アジア太平洋コンサルティング』という会社名に聞き覚えは」
「いいえ。聞いたことありません」
「わかった。何かあったらすぐ連絡してください。それと——」
言いかけて、やめた。「気をつけてください」と言おうとした。だが依頼人を不必要に怯えさせるのは、プロのやることじゃない。
「また連絡します」
電話を切った。
日が暮れていた。事務所の窓から見える歌舞伎町のネオンが、一つずつ灯り始めている。赤、青、緑。雑多な光が湿った路面に反射して、街全体がぼんやりと発光している。
神崎は事務所を出た。階段を降り、ビルの裏口から路地に出る。癖で周囲を確認。尾行なし。表通りに回り、自宅のあるマンションへ向かう。築四十年の1K。事務所から歩いて十二分。
マンションのエントランスを抜け、三階まで階段を上がる。廊下の蛍光灯が白々と灯っている。部屋のドアの前で、足が止まった。
鍵穴。
肉眼ではほとんどわからない。だが神崎の指先は、鍵穴の周囲に微かな金属痕を捉えた。ピッキングの痕跡。鍵穴の縁に、工具が滑った時にできる細い傷が二本。新しい傷だ。今朝出たときにはなかった。
ドアは施錠されたまま。つまり侵入には成功していないか、入って出た後に施錠し直したか。
神崎は鍵を開けず、ドアから一歩退いた。耳を澄ます。室内の物音。エアコンの室外機の音。隣室のテレビ。自室からは——何も聞こえない。
腰の後ろに手を回す。何もない。当たり前だ。武器は持っていない。もう軍人じゃない。
靴紐を結び直すふりをして、ドアの下の隙間から光を確認する。暗い。出るとき消灯したまま。変化なし。
鍵を開ける。ドアを薄く開き、手を差し込んで壁のスイッチを入れた。蛍光灯がちらついて点く。
室内を一瞥する。変わっていない——ように見える。
靴を脱がずに上がり、部屋の隅々を確認していく。クローゼット、浴室、トイレ。人はいない。引き出しの中身、本棚の並び。出る前と同じだ。
だが、ピッキングの痕跡は本物だ。誰かがこの部屋に入ろうとした。入れなかったのか、入って何も動かさずに出たのか。どちらにしても、意味は一つ。
相手は神崎の住所も把握している。事務所だけではなく、自宅まで。
尾行を振り切ったのは今朝だ。たった半日で、もう自宅に手を伸ばしてきた。探りではない。メッセージだ。「お前のことは全部わかっている」と。
神崎は窓際に立ち、カーテンの隙間から通りを見下ろした。人通りはまばら。不審な車両はない。だが、いないことと見えないことは違う。
携帯を取り出す。村瀬容子の電話番号を見つめ、画面を消した。
明日、もう一段深く潜る。
ペーパーカンパニーの登記住所。横浜の出張。村瀬誠一が消える前に、何に足を踏み入れたのか。
鍵穴の傷を指先でなぞる。冷たい金属の感触。軍を辞めてから五年、こういう夜があるとは思わなかった。
だが身体は覚えている。緊張と集中。呼吸の浅さ。指先の過敏さ。
嫌いじゃない——と思った自分に、背筋が冷えた。