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雨夜の探偵・神崎蓮

第1話 第1話

第1話

第1話

雨が窓を叩いている。三日目の雨だ。冷たい四月の雨が、街の輪郭を溶かしている。

新宿三丁目の雑居ビル、三階。エレベーターは半年前から止まったままで、階段の蛍光灯は三本に一本しか点かない。点いている一本も微かに明滅していて、壁に染みついた黄ばみを断続的に照らしている。その薄暗い廊下の突き当たりに、擦れた文字で「神崎探偵事務所」と書かれたドアがある。

神崎蓮は事務机に足を投げ出し、火の消えた煙草を咥えていた。デスクの上には安い缶コーヒーの空き缶が三つ。灰皿には今朝からの吸い殻が山になっている。壁掛け時計は午後四時十二分を指していた。

外の雨音に混じって、階段を上がってくる足音。不規則なリズム。躊躇いながら歩いている。

神崎の右手の指が、無意識に動いた。親指が人差し指の上を滑る。かつてトリガーガードに添えていた癖だ。十年経っても抜けない。

ノックは弱かった。二回、間を置いて、もう一回。

「開いてる」

ドアが軋んで開いた。湿った空気と一緒に、かすかな香水の残り香が流れ込んだ。立っていたのは五十代半ばの女性だった。ベージュのコートは肩が濡れ、右手に握った傘からは水滴が落ちている。目の下に濃い隈。眠れていない顔だ。化粧で隠そうとした形跡はあるが、隠しきれていない。何日も、いや何週間も眠れていないのだろう。

「神崎、さん……ですか」

「そう書いてある」

神崎は足をデスクから下ろし、向かいの椅子を顎で示した。女性はおずおずと腰を下ろす。膝の上で両手を組んだが、指先が震えていた。

「何の依頼ですか」

単刀直入に訊く。慰めの言葉や世間話から入る探偵もいるが、神崎にはその手の技術がない。軍にいた八年間で、人との距離の取り方を忘れた。

女性は唇を湿らせた。

「夫が——消えたんです」

声が震えている。泣く直前の振動。だが涙は出ていない。枯れたのかもしれない。

「名前と期間」

「村瀬誠一。三週間前からです」

神崎は引き出しからノートを引っ張り出した。百均の安物だ。

「警察には」

「届けました。でも——大人の失踪は、自発的なものだろうって。捜してくれないんです」

よくある話だ。成人の家出は事件性がなければ後回しにされる。

「仕事は」

「機械メーカーの営業部にいました。でも半年前に退職して……。私、知らなかったんです。辞めていたこと」

半年間、毎朝スーツを着て家を出ていた男が、実は無職だった。珍しくはない。だが、三週間前に姿を消した。退職と失踪の間に半年の空白がある。

「退職の理由は」

「わかりません。会社に問い合わせたら、一身上の都合としか」

神崎は煙草に火を点けた。紫煙が天井の染みに向かって昇る。

村瀬容子。五十四歳。夫の失踪に怯え、警察に見放され、新宿の雑居ビルの三階まで登ってきた。この女性が嘘をついている可能性は低い。震えが演技なら大したものだが、隈の深さまでは偽れない。

「着手金十万。経費は別途。見つからなかった場合でも返金はしない」

「お願いします」

即答だった。迷いがない。それだけ追い詰められている。

容子は封筒から現金を出し、夫の写真と携帯番号のメモを置いた。写真の男は痩せた中年で、目に特徴がない。群衆に紛れたら二度と見つからないタイプの顔だ。

「何か心当たりは。借金、女、ギャンブル」

「ありません。本当に普通の人でした」

普通の人は消えない。消えるには理由がある。

「わかった。進展があれば連絡する」

容子が帰った後、神崎は写真を眺めた。村瀬誠一。五十七歳。機械メーカー営業部。半年前に退職。三週間前に失踪。

写真の中の男は、どこにでもいる疲れたサラリーマンの顔をしていた。目は小さく、口元にはうっすらと諦めのような皺が刻まれている。だがその奥に、何かを隠しているような翳りがある——気のせいかもしれない。神崎は写真をノートに挟んだ。

窓の外では雨が強くなっていた。歌舞伎町のネオンが水たまりに滲んでいる。

神崎はデスクの二段目の引き出しを開けた。奥に押し込んだ鎮痛剤の瓶。その隣に、小さな金属片。軍の認識票——ドッグタグ。もう名前は擦れて読めない。

毎晩、同じ夢を見る。砂埃の中を走っている。銃声。叫び声。振り返ると、誰かが倒れている。顔が見えない。いつも見えない。目が覚めると、背中の傷が疼いている。左の肩甲骨の下、抉るような傷痕。あの任務で負ったものだ。

辞めた理由は誰にも話していない。話す必要もない。過去は過去だ。そう自分に言い聞かせてきた。

鎮痛剤を二錠飲み、煙草を揉み消した。明日から調査に入る。ただの失踪調査だ。

——そのはずだった。

翌朝、六時半。雨は上がっていた。空気が湿っている。アスファルトから立ち昇る水蒸気が、街を薄い霧で包んでいた。雨上がり特有の土と排気ガスが混じった匂いが鼻をつく。

神崎は事務所を出て、村瀬誠一が最後に目撃された新宿駅西口へ向かった。防犯カメラの映像は警察が押さえている。だが人間の記憶は押さえられない。駅前の売店、タクシー乗り場、常連の立ち飲み屋。三週間前の顔を覚えている人間がいるかもしれない。

大ガード下を抜けて、西口ロータリーに出た。朝の通勤客が流れていく。スーツの群れ、イヤホンをした若者、キャリーケースを引く観光客。誰もが前だけを見て歩いている。その人波の向こう——。

神崎の足が止まった。

黒いセダン。ロータリーの端に停まっている。エンジンはかかっている。フロントガラスの反射で中は見えないが、運転席に人影がある。排気管から白い煙が細く立ち昇っている。客を待つタクシーでも、人を降ろした一般車でもない。あの停め方は「待機」だ。

視線を動かさず、歩き続ける。横断歩道を渡り、駅ビルの角を曲がる。ガラスの反射を使って背後を確認。

もう一台。シルバーのセダン。百メートル後方、片側二車線の左車線を低速で流している。

二台。前方に一台、後方に一台。挟み込む配置。アマチュアの尾行じゃない。訓練を受けた人間の動きだ。

神崎は歩調を変えなかった。心拍が上がるのを感じたが、呼吸は意識して平静を保つ。背筋に走る緊張感が、懐かしくすらあった。地下街への階段を下り、人混みに紛れる。地下通路を西に進み、途中で方向を変えて丸ノ内線の改札へ。ホームで電車を一本見送り、次の電車に乗る直前で降りるふりをして乗り込んだ。

基本的な尾行確認と回避。身体が覚えている。

車内のガラスに映る乗客を確認。追ってきた人間はいない。振り切った。

だが、問題はそこではなかった。

依頼を受けたのは昨日の午後だ。まだ調査を始めてすらいない。村瀬誠一の名前を検索したわけでも、関係先に連絡を取ったわけでもない。それなのに、もう監視がついている。

つまり——監視対象は村瀬誠一ではない。この依頼そのものだ。

誰かが、村瀬容子が探偵に依頼することを知っていた。あるいは、村瀬容子自身を監視していた。夫の失踪を嗅ぎ回る人間が現れることを、想定していた。

神崎は吊り革を握る手に力を込めた。右手の指が、またあの動きをしている。トリガーを引く動作。

嫌な予感がする。

ただの失踪調査じゃない。この案件の裏には、素人が触れてはいけない何かがある。プロの配置、プロの車両、プロの判断。民間にこれができる組織は限られる。

降車駅で電車を降りた神崎は、空を見上げた。雲の切れ間から薄い日差しが覗いている。湿った風が頬を撫でた。穏やかな朝の光景だ。だがその穏やかさが、かえって不気味だった。

携帯を取り出し、村瀬容子の番号を呼び出す。コール音が四回。五回。六回。

出ない。

七回目で留守番電話に切り替わった。

「神崎です。至急、連絡をください」

短く残して切る。胸の奥で、錆びた警報が鳴っていた。軍にいた頃、作戦が崩れる直前にいつも感じた、あの感覚。空気の温度が一度だけ下がるような。

神崎は携帯をポケットに戻し、歩き出した。

もう一度かけ直す。今度は一回目で留守電に繋がった。電源が切られている。

——まずい。

足が速まる。それから、走り出していた。

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