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雨夜の探偵・神崎蓮

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、神崎は村瀬容子のマンションに向かった。

世田谷区の閑静な住宅街。最寄り駅から徒歩八分。四階建ての分譲マンションで、築十五年ほど。外壁のタイルは薄いベージュで、植え込みは手入れが行き届いている。つつじの新芽が赤く膨らみかけていた。管理組合がしっかり機能している証拠だ。この辺りの相場なら五千万前後。機械メーカーの営業部長なら無理のない物件だ。

昨夜から三回電話をかけた。すべて留守番電話。画面が割れたと言っていたが、それなら修理に出すか代替機を手配するはずだ。丸一日連絡がつかないのは、別の理由がある。

エントランスはオートロック。だが配達業者用のインターホンで「探偵の神崎です」と名乗っても応答がない。しばらく待つと、買い物袋を提げた住人が出てきた。六十代くらいの女性で、不審そうな目を一瞬向けたが、何も言わなかった。すれ違いざまに中に入る。エレベーターで四階へ。

四〇三号室。ドアの前に立つ。インターホンを押す。反応なし。もう一度。沈黙。廊下の蛍光灯がかすかに唸っている。隣の部屋からテレビの音が薄く漏れている。生活の気配はある。この部屋だけが、沈んでいた。

ドアノブに手をかけた。

回った。

施錠されていない。神崎の背筋を冷たいものが走った。昨日の自分の鍵穴と同じだ。だがこちらは開いている。

ドアを押し開ける。玄関の靴棚が倒れていた。女性用のパンプスとスニーカーが散乱している。廊下の壁に掛かっていたらしい額縁が床に落ち、ガラスが砕けている。額の中の写真は家族写真だった。夫婦で並んで笑っている。村瀬誠一と容子。どこかの観光地。幸福な日の記録が、割れたガラスの下で歪んでいた。

「村瀬さん」

声をかける。返事はない。

靴を脱がずに踏み込んだ。ガラスの破片を踏む感触が靴底に伝わる。リビングへ続く短い廊下。右手にキッチン。流しに洗いかけの食器が残っている。水は止まっている。マグカップが一つ。中にコーヒーの乾いた輪染みが残っていた。昨日の朝か、一昨日の夜か。日常の途中で、すべてが止まっている。

リビングのドアは半開き。肩で押し開けた。

匂いが来た。

甘く、重い。金属的な、しかし腐敗の始まった有機物の匂い。この匂いを知っている。戦場で何度も嗅いだ。鼻腔の奥にへばりつき、何日も消えない種類の匂いだ。

村瀬容子は、リビングの中央で仰向けに倒れていた。

目は半開き。白目が濁っている。口はわずかに開き、舌の先が覗いている。顔は鬱血して暗い紫色に変色していた。首に——深い圧迫痕。右手の爪が数本折れていた。抵抗した証だ。

死後十二時間から十八時間。昨夜の電話が繋がらなかった時には、もう。

神崎は膝をついた。感情を切り離す。今は観察する時間だ。軍の訓練が身体を動かしている。

室内を見回す。本棚が倒され、引き出しが引き抜かれている。クッションが裂かれ、中綿が散乱。テレビ台の扉が開き、DVDケースが床に散らばっている。

荒らされている——が、荒らし方が雑だ。

本棚は倒してあるが、本の中身は確認されていない。引き出しは引き抜かれているが、裏面を調べた形跡がない。クッションは裂いてあるが、ソファの背面パネルは外されていない。フローリングの剥がれやすい箇所にも手をつけていない。

本気で何かを探した荒らし方ではない。「強盗が入りました」という絵面を作るための荒らし方だ。

偽装。

神崎の視線が容子の首に戻る。圧迫痕。両手ではない。片腕による絞殺。横から回し、肘の内側で気管を潰す。いわゆるリアネイキッドチョーク。だがこの痕跡には特徴がある。

喉仏の右斜め上、胸鎖乳突筋に沿った位置に、深く食い込んだ線状の痕。同時に後頭部寄りに浅い擦過傷。これは前腕で頸部を圧迫しながら、もう片方の手で後頭部を押さえ込む技術だ。相手の抵抗を封じ、確実に意識を奪う。

この絞め方を、神崎は知っている。

教わった。叩き込まれた。何百回と反復させられた。自分も同じ部隊の仲間に同じ技術を使い、仲間もまた自分に使った。意識が落ちる寸前の、視界が狭まる感覚まで身体が覚えている。

陸上自衛隊特殊作戦群。近接格闘術の標準教程。素手による無力化技術、セクションC。対象の意識を三秒から五秒で奪う絞め技。正確な角度と圧力を知らなければ、この痕跡にはならない。

一般の犯罪者がたまたま同じ絞め方をする可能性はゼロではない。だがこの精度は違う。訓練された人間の手だ。しかも、神崎と同じ訓練を受けた人間の。

立ち上がる。呼吸を整える。部屋を出る前に、もう一度室内を確認した。容子のバッグは玄関脇に置かれたまま。財布も入っている。カードも現金も抜かれていない。強盗の偽装なのに金品に手をつけていない。杜撰だ。あるいは、杜撰さを気にする必要がない相手——警察の捜査を気にしない相手が、最低限の体裁だけ整えたということだ。

玄関を出て、エレベーターホールの角で携帯を取り出した。一一〇番に通報する。

「世田谷区——のマンションで、女性が亡くなっています。殺されています。発見者は神崎蓮。探偵です。依頼人でした」

住所と部屋番号を告げ、電話を切った。

マンションを出る。表通りに出ず、裏手の駐車場を抜けて一本奥の路地に入った。警察が来るまで現場にいるのが筋だが、今の自分が捜査に巻き込まれるわけにはいかない。ピッキングの痕跡がある自宅。ペーパーカンパニーによる尾行。そして依頼人の殺害。状況証拠だけ見れば、神崎自身が容疑者にされかねない。

歩きながら、頭の中で断片を繋いでいく。

村瀬誠一は半年前に退職し、三週間前に消えた。妻の容子が探偵に依頼した翌日には尾行がつき、その二日後に容子は殺された。殺害の手口は軍の格闘術。室内の偽装は雑だが、目的は明確——口封じと、捜査の矮小化。強盗殺人として処理させれば、村瀬誠一の失踪との関連は埋もれる。

すべてが組織の動きだ。迅速で、合理的で、冷徹。個人の恨みや衝動ではない。手順書に従って、障害を排除している。

そして、その組織は神崎と同じ訓練を受けた人間を擁している。

足が止まった。路地の突き当たり。ブロック塀の向こうに桜の古木が見える。花はもう散り、葉桜に変わっていた。風が吹いて、残った花弁が数枚舞った。穏やかな住宅街の昼下がり。サイレンの音が遠くから近づいてくる。

神崎は塀に背を預けた。右手の指が動いている。親指が人差し指の上を滑る。トリガーを引く動作。もう七年も銃に触れていないのに、指だけが忘れていなかった。

確信がある。希望的観測の入る余地はない。

「これは強盗じゃない」

声に出した。自分に言い聞かせるためではなく、事実を確定させるために。

「俺の古巣だ」

特殊作戦群。あるいは、その流れを汲む組織。現役か元隊員かはわからない。だが技術は本物だ。神崎が八年間身を置いた世界の人間が、この依頼の背後にいる。

サイレンが近い。二台分。パトカーと、おそらく救急車。

神崎は塀から背を離し、駅に向かって歩き出した。歩調は速い。だが走らない。走れば目立つ。監視カメラに映る。今の自分は発見者であり、同時に最有力の容疑者候補だ。

次に何をすべきか。村瀬容子は死んだ。依頼人はもういない。金を返す相手もいない。引く理由は十分にある。探偵としては、ここで手を引くのが正解だ。

だが首の圧迫痕が、網膜に焼きついて消えない。あの技術で殺された女性の、鬱血した紫色の顔。半開きの目。怯えたまま固まった表情。折れた爪。必死に抵抗して、届かなかった指先。

容子は何も知らなかった。夫の退職も、その背後の組織も。ただ夫を探してほしかっただけだ。それだけのことで、殺された。

ペーパーカンパニー。横浜の出張。軍仕込みの殺害技術。まだ点でしかない。だが点と点の間に、形が見え始めている。

駅の改札を通りながら、神崎は頭の中でリストを組み立てていた。「アジア太平洋コンサルティング」の登記住所。村瀬誠一の横浜出張先。東洋精機の内部事情。そして——特殊作戦群の、今の人員構成。

調べることは増えた。だが一つだけ、はっきりしたこともある。

相手は躊躇しない。邪魔な人間は、消す。

次に消されるのは、神崎自身だ。

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