第2話
第2話
スーツケースの車輪が、舗装の継ぎ目を踏むたび、がたん、がたん、と肘の高さまで衝撃を返してきた。
三月最後の土曜の午後、住宅街は陽射しの白さと、どこかの庭から漂う沈丁花の匂いで膨らんでいる。坂の途中に、見覚えのある二階建てが見えてきた。藍色の門柱、その隣の表札に「橘」と彫られた字。中学の頃、何度もくぐった門。あの頃はスニーカーを脱ぎ捨てて勝手に冷蔵庫を開け、よく冷えた麦茶を勝手に飲んでいた。
(……あの頃の私、よくやってたな、いま思うと)
スーツケースの取っ手が、汗ばんだ掌の下でぬるく湿る。中身は、ゆうべ慌てて買い直した部屋着が三組と、押し花の缶。缶の蓋が、進むたびにこつ、こつ、と内側を叩く音を返してくる。私はその音に合わせて、坂をひとつぶん登った。
母は、伯母さんとの待ち合わせがあるからと、私だけを先に行かせた。つまり私は、ひとりで、あの家の門をくぐらなくてはいけない。三年ぶりの距離に、いきなり、ひとりで。
門の前で、立ち止まる。
呼吸をふたつ、整える。ひとつ目は浅くて失敗した。ふたつ目で、やっと腹の奥まで空気が降りた。インターホンに、人差し指を伸ばす。爪の先がボタンに触れる前に、私は無意識にパーカーの裾を引っ張っていた。皺が寄る。寄った皺を、もう一度撫でて、伸ばす。
(なに緊張してるの、たかが幼馴染でしょ)
たかが、で打ち消そうとして、たかがの位置がいちばん遠かった。
ピンポン、と、インターホンが間延びした音を返した。
***
「は〜い」
スピーカー越しに聞こえてきたのは、おばさんの——凪のお母さんの、昔と変わらない声だった。私は肩を落としかけて、すぐに反対側へ強張り直した。問題は、おばさんじゃない。問題は、その奥にいる。
玄関の鍵が回る音。木のドアが、ゆっくり外側に開く。
「あら、いらっしゃい。久しぶりねえ」
おばさんはエプロンに手を擦りつけて、私を三和土の中へ引き入れた。三和土の上に、見覚えのないスニーカーが二足、左右にきれいに揃って置いてある。男物の、サイズの大きいやつ。私はスーツケースの車輪を、つま先でそっと隅に押し込んだ。
「凪! ちょっと、出てきて挨拶しなさいって!」
おばさんが廊下の奥に向かって声を張った。返事はない。代わりに、二階から階段を踏む音が、ゆっくり、ひとつずつ降りてくる。
足音が、踊り場でいったん止まった。
私は顔を上げる。
凪が、階段の半ばに立っていた。
黒のロングTシャツに、灰色のスウェット。髪は乾かしたばかりみたいに、まだ少しだけ湿っている。学校のネクタイも、リュックも、教科書もない、剥き出しの彼。
目が、合わない。
凪は私のスーツケースを一瞥して、視線を玄関の框のあたりに落とした。
「邪魔すんなよ」
低い声だった。
四文字。挨拶でもなく、歓迎でもない、四文字。
私はその四文字を、耳の奥で二回再生して、二回とも同じ温度で受け取った。冷たい。冷たくて、けれど凪の声で、その温度が余計に、身体の真ん中の柔らかいところに、めり込んだ。
「凪! あんた、なんて挨拶の仕方なの!」
おばさんが大きな声で叱った。凪は、うるさい、というふうに首の後ろを掻いて、そのまま踵を返して、二階へ戻っていった。階段板を踏む音が、私のいる玄関の天井を、ぎし、ぎし、と鳴らした。
「ごめんねえ、あの子……ほんとごめんね、年頃で」
おばさんは慌てて私の荷物を持ち上げようとする。私は「あ、自分で大丈夫です」と取っ手を握り直した。指の関節がスーツケースのゴムの部分を、必要以上に強く挟んでいる。気づいて、ゆっくり緩めた。
「お部屋ね、二階の南側。凪の部屋の、ちょうど向かい」
向かい、という単語に、口の中の唾液がうまく飲み込めなくなった。三年間、窓越しに見てきた人の部屋と、廊下を挟んで、ドア一枚の距離。
階段を上がる。スーツケースの底が一段ごとに鈍い音を立てる。三段、四段、五段。途中、踊り場の壁に、額に入った写真が掛かっていた。中学の卒業式の写真。凪と、おじさんと、おばさん、それから——隣に並んで写っている、紺色の制服姿の私。
額の縁に、薄く埃が積もっている。三年。たぶん三年、誰も拭いていない。
私は写真から目を逸らして、最後の段を登り切った。
通された六畳の部屋には、勉強机と、シングルベッドと、空のクローゼット。窓を開けると、隣家の壁が、白く近かった。お向かいのドア——凪の部屋のドアは、廊下を挟んで斜め向かいに、ぴったり閉まっている。
私はスーツケースを部屋の真ん中に置いて、ベッドの端に腰を下ろした。スプリングが、きい、と一度だけ鳴った。
(やっぱり、来るんじゃなかった)
口には出さず、心の真ん中だけで、はっきりと呟いた。
***
その夜、夕食はおばさんと二人だった。
凪は「腹減ってない」と、部屋から下りてこなかった。おばさんは申し訳なさそうに何度も「ごめんねえ」と繰り返して、私は「気にしないでください」と笑顔を作って、肉じゃがをよく噛んで飲み込んだ。じゃがいもの角がきれいに残っていて、たぶんおばさんが面取りをしてくれたんだろうと思った。母が作るやつより、少しだけ甘めの味付けだった。
部屋に戻って、シャワーを浴びて、ベッドに入った。十時。十一時。十二時。寝つけない。
枕の匂いが、自分のじゃない。それだけのことが、こんなに眠れないのかと、自分で驚いた。新しい洗剤の匂い。柔軟剤の匂い。どれも知らない香りで、それが鼻の奥で薄く膜を張った。寝返りを打つたび、シーツの折り目が肩甲骨の下で硬かった。
時計の針が一時を回った頃、階下で、かすかに物音がした。
冷蔵庫を開ける、ぼ、という音。それから、ガスコンロのつまみを回す、ぱちっという、乾いた音。
私はかけ布団の中で、ゆっくり身体を起こした。
(……あの人、お腹空いてるんだ)
夕食を食べなかった凪が、こんな時間に何かを口に入れようとしている。私はスマホで時刻を確認した。一時十七分。深夜にコンロを使うのは家としては少し心配で、だからほんの少し様子を見るだけ——という言い訳を、自分の中で組み立て直した。本当はただ、彼の顔を、もう一度見たかっただけだった。あの仏頂面の続きを、自分の目で確かめるのが怖くて、それでも確かめずにはいられなかった。
廊下に出る。靴下のかかとが床を擦らないよう、つま先からゆっくり進んだ。階段を一段ずつ、息を止めるみたいに降りる。リビングの引き戸の隙間から、薄い黄色の光が、廊下に細く伸びていた。
指一本ぶん、戸を、そっと開ける。
凪が、台所に立っていた。
寝ぐせのついた茶色のパーカー。フードの紐が、ふぞろいに垂れている。下は灰色のスウェット。胸元には、コーヒーらしき染み。冷蔵庫の前にしゃがみこんで、何かを物色していた。
私の気配に気づいて、彼はゆっくり振り返った。
目が、合った。
三年ぶりだった。窓越しじゃない、同じ部屋の空気の中で、同じ高さで合った、目線。
凪の肩が、一瞬だけ強張るのを、私は見た。
「……起きてたのか」
言葉は仏頂面のままだった。けれど玄関で聞いた「邪魔すんなよ」より、声の終わりが、わずかに、わずかに、丸かった。
「物音、して」
私はようやく声を絞り出す。喉の奥が乾いて、最初の音だけが、すこしだけかすれた。凪はカップ麺を片手に持ったまま、視線を私から外して、電気ケトルのスイッチを入れた。湯が沸き始める、ごう、という低い音。
「うるさかったか。悪い」
「ううん、ちが、」
ちがう、と最後まで言えなかった。凪はそれ以上待たずに、戸棚から箸を取って、カップ麺の蓋を開けた。三分。砂時計はないけれど、彼の手首にある電子時計が、薄い緑色の数字で時間を刻み始めた。
***
私は引き戸の前で、靴下のつま先のまま、立ち尽くしていた。
戻るべきか、座るべきか、決められない。
そのとき、視界の端に、ダイニングテーブルの角が入った。
鍋敷きと、塩の小瓶と、それから——まだ封を切っていない、ペットボトル。私の好きなメーカーの、ほうじ茶。
ラベルの色だけで、私は息が止まった。
凪は背中を向けたまま、湯気の立ち始めたカップを、片手で押さえている。寝ぐせのうしろ髪が、冷蔵庫の上の小さな電球の光で、ぼうっと茶色く透けていた。
(……これ、いつから、ここに)
口の中だけで、その一文を転がす。指がまた勝手に、パーカーの裾を、皺になるくらい握りしめていた。
凪は振り返らない。三分が、長かった。