第3話
第3話
カップ麺の三分が、きっかり過ぎた。
凪は箸の先で麺をひと混ぜして、背中を向けたまま、ずるずると啜り始めた。湯気が肩越しに揺れて、寝ぐせの茶色い毛先を、後ろから押し上げている。私は引き戸のところで、靴下のつま先のまま、立ち尽くしていた。
(あれ、私の好きなお茶のメーカー、なんでここに)
ダイニングテーブルの上のペットボトルから、視線を引き剥がせない。緑のラベルの、まだ未開封のほうじ茶。封のフィルムが、台所の電球の光を、ぬるく弾いている。母が手土産で持ってきたんだ、たぶん。そう自分に言い聞かせようとした。けれど母は、私の好きな銘柄をいまでも時々間違える。
「……寝ろよ」
凪が、肩越しに、ぼそりと言った。カップから顔を上げない。湯気が彼の輪郭を、ほんの少しだけ、ぼやかしていた。
「うん」
私は短く答えた。それ以上の言葉は、喉の奥で、ぐ、と詰まって出てこない。引き戸を、そっと閉める。閉めながら、最後の一センチ、隙間越しに、もう一度だけテーブルを盗み見た。
ペットボトルは、まだ未開封のままだった。
階段を上がる足が、来た時より重い。踊り場の写真の、紺色の制服の私と、目が合った気がして、私は反射的に顔を伏せた。部屋に戻ってベッドに潜り込んでも、目を閉じると瞼の裏に、緑のラベルが浮かんだ。封を切られていない、その不器用な未着手のかたちが、なぜか胸の真ん中の小さな一点に引っかかったまま、朝まで取れなかった。
***
翌日は、何事もなかった。
凪は朝早くに家を出ていて、私が下りた時には、シンクに洗ってあるマグカップが一つだけ伏せてあった。リビングのテーブルの上に、ほうじ茶のペットボトルは、もうなかった。冷蔵庫を開けると、扉の内側のポケットに、しれっと立てて入っている。封は、開いていない。
(私が開けて、いいやつ?)
聞ける相手は、家にいない。私はおばさんが作ってくれたサンドイッチを齧って、近所のカフェで春休みの課題を片付けてから、夕方、戻った。
玄関の戸を引いた瞬間、煮物の匂いがした。
醤油と、みりんと、それから——少しだけ、甘い。砂糖を多めに入れた、あの匂い。鼻の奥がつんと熱くなって、私はとっさに息を浅くした。この匂いを、私はこの三年間、どの台所でも嗅がなかった。下宿の電子レンジでも、おばさんの家でも、コンビニの惣菜でも、いちども。
「ただいま、です」
声が、廊下の途中で、変なところで途切れた。返事はない。けれど台所のほうで、菜箸が小皿に当たる、こ、という乾いた音だけが返ってきた。その音は、私の耳には、ノックのように聞こえた。入っていいよ、とも、入ってくるな、とも書かれていない、ただのノック。
リビングを覗くと、凪が、コンロの前に立っていた。スウェットの裾を片手でめくって、もう片手で鍋の中をのぞき込んでいる。眉間に、薄く、皺。湯気で前髪が湿って、額に貼りついていた。
「飯、作りすぎたから食え」
ふり向きもせずに、彼は言った。
「……え」
「鍋、二人ぶん作っちまった。俺、明日早いから、半分置いとく」
説明は、それだけだった。凪は小皿に肉じゃがを盛って、私の前のテーブルに、ことん、と置いた。じゃがいもの角が、きれいに面取りされている。にんじんは花型じゃなくて、ただの輪切りだったけれど、厚さは、全部、同じだった。包丁を握り慣れていない指が、たぶん、何度もまな板の上で測り直したのだ。そう思うと、輪切りの一枚一枚が、急に重く見えた。
私は箸を持つ手を、しばらく動かせなかった。
凪は対面に座らず、流しの前にもたれかかって、自分のぶんを立ったまま食べ始めた。背の高い人が立ったまま食事をすると、こちらから見ると、肩のラインだけが、やけに静かだった。
「いただきます」
「おう」
ひと口、口に運んだ。
舌の上で、じゃがいもがほろりと崩れた。甘い。母の味付けより、少しだけ甘い。中学の頃、母にいつも「もう少し甘くして」とお願いしていた、あの甘さ。砂糖の角がとれて、出汁の奥に溶け込んでいる、子どもじみた甘さ。喉を通る瞬間、胸の奥のずっと閉じていた抽斗が、こと、と一段だけ開いた気がした。
ふと、視線が、彼の傍らのスマホに落ちた。
充電ケーブルがコンロの近くまで伸びていて、画面が、まだ点いたまま。立てかけられた角度のせいで、私のいる場所から、ブラウザのタブが、はっきり、見えた。
「肉じゃが レシピ 甘め」
検索バーに、その文字列が、残っていた。履歴のすぐ下には、「人参 飾り切り 簡単」という、もう一行。
心臓が、一度だけ、大きく跳ねた。
跳ねた後、おかしいくらい静かになった。耳の奥で、自分の呼吸の音だけが、いやに近い。「甘め」の二文字を、私は何度も目で撫でた。彼は誰の好みを思い出して、その三文字をキーボードに打ち込んだのだろう。中学の頃、私が母の隣で「もうちょっと甘く」とねだるのを、隣の席で、ノートに視線を落としたまま聞いていた、あの男の子の横顔が、急に瞼の裏に立ち上がった。
それきり、私は、箸を、止めた。
***
「うまいか」
凪が、ふいに、言った。
いつもの低い声に、ほんの少し、語尾の終わりが、丸い。学校の廊下で背中越しにすれ違う時の、あの硬い「ん」とは、違う温度だった。私は俯いて、肉じゃがの汁の中で、にんじんの輪切りを、いったり来たりさせた。
「うまい、です」
語尾が、敬語になる。中学の頃、こんな喋り方、絶対、していなかったのに。
「敬語、やめろよ」
「……うん」
「気色悪い」
ぶっきらぼうな四文字。私は箸を握る指先が、汁にひたって温かくなっているのを、そこで初めて、はっきり意識した。耳のうしろのあたりが、ちりちり、と熱を持つ。私はそれを誤魔化すために、にんじんを噛んだ。歯の下で、輪切りが、こりりと音を立てた。
凪は、自分のぶんを食べ終えると、シンクで皿をすすぎ始めた。水音の中で、彼の背中が、こちらに少しだけ向き直る。
「明日から、朝飯は各自な」
水を止めずに、彼は言った。
「あ、うん。そうだよね」
「俺、一限ない日でも、早く出る。あんたも、自分の時間で食え」
「うん。あの、ありがと、ね、今日の」
「礼、いい」
凪は、皿を伏せ、布巾で手を拭いた。布巾を引き出しに戻す動作の、ひとつひとつが、ゆっくりだった。それから振り返らずに、リビングを横切り、廊下のほうへ歩いていく。スウェットの裾が、足首のところで、ふぞろいに揺れていた。
「おやすみ」
階段の手前で、彼は背中越しに、それだけ、言った。
「おやすみなさい」
私の声に、彼は、振り向かなかった。階段を上がる足音が、ひとつずつ、天井を踏んで、最後の一段で、ぱた、と消えた。
私は、テーブルの上の、空になった小皿を、しばらく見つめていた。
じゃがいもの煮汁が、皿の縁に、薄い輪を作って残っている。指でなぞると、まだ少し、温かい。私はその皿を持って、シンクへ運んだ。蛇口をひねる。さっき凪が触ったのと、同じレバー。彼の指がいた場所に、私の指の腹を、そっと、重ねた。金属はもう冷えていて、でも芯のほうに、かすかに、人肌の名残のような鈍い温みが残っている気がした。気のせいかもしれない。気のせいだと思いたくない、と思っている自分がいて、私は唇を噛んだ。
水音の中で、私はやっと、息を、吐いた。
(明日から、朝飯は、各自)
うん、そうだよね、当たり前だよね。同居だって、なし崩しの居候だ。三食ぜんぶ世話を焼かれるなんて、あるわけがない。
でも。
胸の奥のいちばん柔らかいところが、ぐ、と一度だけ絞られた。期待しちゃだめだ、と私は自分に言い聞かせた。三年間ずっと、そう言い聞かせてきたじゃないか。「作りすぎた」は、たまたまだ。たまたま、私の好物を、たまたま、検索しただけ。
——たまたまが、そんなに、揃うわけ、ある?
私は皿を伏せて、布巾で手を拭いた。さっき凪が使った、同じ布巾。湿り気が、まだ、残っていた。
***
翌朝、目を覚ますと、家のどこかで、味噌汁の匂いがしていた。
寝ぼけた頭で、これは夢だ、と思った。
「朝飯は各自」と、昨日、たしかに言われた。だから台所には誰もいないはずで、私はシリアルでも適当に済ませて出るはずだった。
階段を降りる。匂いは、強くなる。
リビングの引き戸を引くと、ダイニングテーブルの上に、お椀が、二つ、並んでいた。
ひとつは、すでに空になっている。もうひとつには、まだ手のつけられていない、湯気の立つ味噌汁。豆腐と、わかめと、油揚げ。私の、いちばん好きな組み合わせ。
凪の姿は、もう、家のどこにもなかった。
玄関のスニーカーが、片方、消えていた。