第1話
第1話
スマホの画面が指紋で白く曇っているのに気づいて、私はパーカーの袖でそれを拭いた。
トーク履歴の一番上には、去年の七月に届いた一通だけのメッセージが浮かんでいる。
「おめでとう」
四文字。スタンプもなければ、絵文字もない。送信時刻は午前零時三分。日付が変わってから三分後に送ってきたくせに、それきり既読も返事もない。私の誕生日にだけ届く、年に一度の合図みたいなLINE。
通学電車の窓ガラスに、桜のつぼみが流れていく。三月の終わりの朝陽が、車内をぬるく満たしていた。私はイヤホンの片方を外して、ドア近くのつり革に右手を伸ばす。左手の中で、スマホがまだ熱を持っている。
二駅先から乗ってくる男子の姿を、向かいの窓に映る形で確認する。
幼馴染の凪。
中学までは同じクラスで、休み時間にはふたりで購買のメロンパンを半分こにして食べていた。背は私のほうが少しだけ高かった。それが高校に上がる前の春に、ぐん、と一夜で抜かされた。声も、ある日突然知らない男の声に変わった。私が名前を呼んでも、「ん」とだけ返してくる。視線は、絶対に合わない。
——もう昔みたいには戻れない。
そう自分に言い聞かせる癖がついたのは、いつからだろう。
電車が揺れて、つり革を握る指に力がこもる。窓越しに見える凪は、今日も黒いリュックを背負って、文庫本に視線を落としている。喉仏が動くたび、ネクタイが少しだけ揺れる。三年前にはなかった輪郭。伸びた前髪の隙間から、長い睫毛が見える。読んでいる本のタイトルまでは見えない。でも、ページをめくる指の関節だけは、昔のままだった。爪の形も、人差し指の付け根の小さな傷も、私はまだ、覚えている。
私はそれを、五分間だけ盗み見る。
降りる駅は同じなのに、私たちはいつも別々の改札を抜ける。彼は東口、私は西口。三年間、その距離をきっちり守ってきた。
スマホの中の「おめでとう」を、もう一度だけ親指でなぞる。
(これで充分なんだから)
そう思おうとして、思いきれない。それが私の片思いの、現在地だった。
***
家に帰ると、玄関に段ボールが積まれていた。
養生テープの匂いと、新品の段ボールの乾いた紙の匂い。三和土に脱ぎ捨てられたスニーカーの隣で、見覚えのない梱包材の山が天井近くまで届いている。リビングのほうから、ガムテープを引き出すじりじりした音が断続的に聞こえる。廊下の壁紙の角が、ところどころ剥がれかけている。十六年間、毎日帰ってきた家の輪郭が、急に他人のもののように、そらぞらしく見えた。私は段ボールの山を避けながら靴を脱ぐ。靴下の裏が、見慣れたフローリングを踏んでいるはずなのに、感触だけがやけに硬く、知らない床のように冷たく感じた。
「お母さん? なにこれ」
「ああ、おかえり。来週から建て替えだって言ったでしょ」
ダイニングからエプロン姿の母が顔を出す。鍋から立ちのぼる味噌汁の湯気で、眼鏡が白く曇っている。
「言ってたっけ」
「言ったわよ。三回くらい」
私は記憶を巻き戻す。確かに先月、リフォームだか建て替えだかの話を聞いた気がする。耐震基準がどうとか、屋根裏の雨漏りがどうとか、そういう大人の話を、私は片耳で聞き流していた。
「それで、住むとこは」
「ウィークリーマンション、二部屋取れなかったの。お父さんは現場の近くに泊まり込みで、私は伯母さんとこに行く」
「私は」
母はおたまを持ったまま、にっこり笑った。
「凪くんちにお世話になることにしたから」
世界の音が、一瞬だけ消えた。
換気扇の唸りも、味噌汁が煮立つ音も、外を走る車のエンジン音も、ぜんぶ。私の耳の奥で、何かが膜を張ったみたいに、外側の音だけが遠くなった。
「は?」
「半年だけ。秋には新しい家、できるから」
おたまから味噌汁がぽたぽた垂れているのに、母は気づいていない。私は床の木目を一点見つめたまま、口の中だけで「半年」と繰り返した。半年。二十四週。約百八十日。指の関節がいつのまにか、パーカーの裾を強く握りしめていた。布地に皺の寄っていく感触が、自分の身体の出来事ではなく、どこか遠い場所で起きている誰かの仕草のように、ひどく現実感を欠いていた。
「凪のお母さんが二つ返事でいいって。家もちょうど一部屋空いてるし、お父さん同士、昨日もう決めちゃったわよ」
「あの、ちょっと、待って」
「凪くんも、いいよって言ってたって」
そんなはずがない。
私は壁にもたれかかって、心臓のあたりに右手を当てた。指先がパーカーの布地越しに、自分の鼓動を拾う。早い。速すぎる。三年間、向かいの窓ガラス越しにしか見ていなかった人と、同じ屋根の下で寝起きする。朝、洗面所の鏡に並ぶ。冷蔵庫の前で鉢合わせる。お風呂の順番を譲り合う。彼が脱ぎ捨てたタオルの湿り気を、洗濯機の中で見ることになる。彼が使ったあとのシャンプーの匂いが、私の髪にも移る。
想像しただけで、首の後ろがちりちりした。喉が渇いて、唾を飲み込む音が自分の耳の中でやけに大きく響く。胸の奥で何かがゆっくり膨らんで、すぐにしぼんだ。期待してはいけないと、私はもう三年も自分に言い聞かせてきたのに、その戒めの輪郭が、母の一言だけで、いとも簡単にぐらついた。
耳の縁が熱くて、たぶん赤くなっている。母にだけは見られたくなくて、私はパーカーのフードを引き上げた。
「無理。絶対、無理」
「なに言ってるの。小さい頃はあんなに仲よかったじゃない」
「小さい頃の話でしょ」
「あらそう? 凪くん、あなたの好きなお茶のメーカー、まだ覚えてたわよ」
おたまが鍋に戻される。鈍い金属音。私はその音を、耳の奥で何度も反芻した。覚えてた。あの仏頂面が、私の好きなお茶のメーカーを。
「お母さん、ねえ」
「は〜い」
「私の引っ越し、いつ」
「三日後」
***
その夜、私はベッドの上であぐらをかいて、引き出しの一番下の缶を引っ張り出した。
中には、中学の卒業式に凪からもらった押し花がしおりに挟まったまま、そっと収まっている。色はもう茶色く褪せて、いつの花だったかも思い出せない。隣には、彼の家から借りたまま返しそびれた漫画の三巻と、誕生日にだけ届く「おめでとう」を時系列で並べたスクショ。三年分。たった三通。それでも私は、月ごとにフォルダを切って、日付の順に並べ替えていた。
我ながら気持ち悪い、と思う。
でも捨てられなかった。三年間、ずっと。
スマホを開いて、最後のスクショを見る。「おめでとう」の四文字。私はその下に、自分が打った返信のドラフトを思い出す。送れなかった文字列が、頭の中にだけ残っている。
(ありがとう。元気にしてる?)
たった、これだけ。
これだけが、三年間ずっと、送れなかった。
打っては消し、打っては消し、夜中に何十回もやった。送信ボタンの上で親指が止まる、あの一秒。喉の奥に何かがつかえて、結局はアプリを閉じる、あの音。私はそれを三回の誕生日ぶん、繰り返してきた。
明後日、その人の家の玄関を、自分のスーツケースで踏むことになる。
押し花の指先がぱさついて、爪の間に細かい欠片が入り込む。私はそれを払って、缶の蓋を、ぱちん、と閉めた。掌に残る金属の冷たさを、ぎゅっと握りしめる。
——三日後、私は、あの仏頂面の前に立っている。
***
旅行用のスーツケースを、押し入れの奥から引きずり出した。埃を払うと、車輪のあたりからからからと乾いた音がする。
クローゼットを開ける。何を持っていけばいい。あの男の前で着られる部屋着なんて、私は一枚も持っていない。Tシャツの首元はみんな伸びきっているし、スウェットには高校のロゴが入っている。
「……どうしよう」
呟いた声が、自分の部屋でやけに大きく響いた。
スマホが震えた。
母からのメッセージ。「凪くん、ちょうど明日帰ってくるから、挨拶しときなさいって」というスタンプ付きの一文。
私はベッドに突っ伏した。枕に顔を埋めて、声にならない悲鳴を上げる。
明日。
会う。
向かいの窓ガラス越しじゃなくて、同じ部屋の空気の中で。
その空気が、これから半年間、私の呼吸する空気になる。
私は枕から顔を上げて、暗い天井を睨んだ。手の中のスーツケースの取っ手は、まだ握りしめたままだ。指の付け根が白くなっている。
押し花の缶も、送れなかったLINEのドラフトも、五分間の盗み見も、たぶん明日で全部、終わる。
——終わって、何が始まるのかは、まだ誰も教えてくれない。