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ぼっちの俺が孤高の天才に溺愛されてバドの相棒になった件

第2話 第2話

第2話

第2話

時間が、止まった。

正確には、止まったのは俺の呼吸の方だ。胸の奥で、息を吸い込みかけた肋骨が、途中でその動きを忘れた。

銀色のポニーテールが、ゆっくりとこちらへ振り返る。一本一本が、白い光を吸ってから青く跳ね返って、それが頬の輪郭の上で揺れた。瞳は、灰がかった青——いや、青と灰の中間のような色。長いまつ毛の影が、頬骨の上に小さな弧を落としている。化粧っ気はない。けれど、誰かに見られることに慣れている人間の、ほんの少し顎を上げた角度だった。

その顔を、俺は知っていた。

知っている、と気づいた瞬間、上履きの底が床板に貼りついた。

廊下で噂を聞いたことがある。一年三組——いや、二組だったか——に、誰とも群れず、誰とも昼を食べず、それでいて校内で一番目立っている女子がいる、と。「孤高の天才」と呼ばれているらしい、と。中学までで何かをやっていた、らしい、と。「らしい」しかないのは、その本人と話したことがある人間が、噂話のネットワークの中に一人もいなかったからだ。

その人だ、とわかった。

理由はうまく説明できない。ただ、教室の窓の外を一瞬だけ通り過ぎた銀色を、俺は半年のあいだに何度か目で追っていた。そのたびに視線を落として、見なかったことにしていた。波打ち際にも近づけない海の底にいる人間が、海面の上を泳ぐ鯨を見上げて、見なかったことにするのに似ていた。

その鯨が、今、扉の隙間の数センチ向こう側で、こちらをじっと見ている。

逃げなければ、と思った。逃げる、という動詞が、頭の中で点滅した。

それなのに、足が、動かない。床板に上履きの輪郭がきっちり収まったまま、踵が、敷石の隙間に落ちた釘みたいに動かなかった。掌の汗が、また指の腹にじわりと滲む。リュックの肩紐を握っている右手が、自分のものではないみたいに白くなっていた。

呼吸を、しなければ、と思った。

肺の底に、空気の入っていない袋がぺたりと貼りついている。それを膨らませようとするたびに、肋骨の内側で何かがつかえて、喉の奥にまで届かない。耳の奥では、自分の心臓が、誰かの叩く小さな鼓みたいに、ばらばらに鳴っていた。

その瞬間。

「あ、見つけた」

軽い、明るい声だった。

風船が破裂した直後の空気みたいに、ふわっと部屋の中の張りが緩んだ。緩んだ場所から、彼女の声がそのまま、こちらへ歩いてきた。

「ねえ、君、さっきから、そこ、いるよね」

「……え」

俺の喉から、ようやく出た音は、自分でも信じられないくらい掠れていた。半年ぶりに教室以外の人間に話しかけられた声帯は、最初の一音をどう発音したらいいかすら、忘れていた。舌の奥に、噛み残した飴玉のような小さな塊があって、それが言葉の輪郭を歪めていく。自分の声なのに、よその家の壁の向こうから漏れてくる声みたいに、遠かった。

白瀬——たぶん、そう呼ばれている彼女は、ラケットを片手にぶら下げたまま、こちらへ歩いてくる。上履きの底が、床を擦る、きゅ、という音。三歩、四歩。距離が、思ったよりずっと早く詰まった。汗の匂いと、ほのかな柑橘の香りが、もう鼻の先まで来ている。日に焼けた制服の襟元から、ほんのわずかに湿った熱が立ちのぼっていて、その熱に混ざるように、洗い立てのリネンと、誰かの台所で剥かれたばかりの夏みかんの皮の匂いがした。汗、なのに、嫌な匂いではなかった。むしろ、生きているものの匂いだ、と思った。半年間、教室の机に染み込んだ消しゴムの粉と昼食のパンの匂いしか嗅いでこなかった鼻の奥に、その匂いはひりつくような新しさで届いた。

扉の隙間から、体ひとつ分も離れていないところで、彼女は止まった。

近くで見ると、思ったより背が小さかった。俺の肩のあたりに、銀色の頭頂部がある。けれど、見上げてくる目の力は、身長とは無関係なところで、まっすぐにこちらの目を捉えている。瞬きの回数が少ない。瞳の奥に、観察する人間特有の、しんとした焦点があった。逸らそうとしても、視線が、磁石の鉄片みたいに、戻ってきてしまう。

「君、霧島くん。一年五組の」

「……知ってる、の」

「うん」

ラケットの先端で、彼女は自分の肩のあたりを軽く叩いた。それから、何かを思い出すみたいに、視線を一瞬だけ俺の右手の方に落とした。手首だ、と気づくのに半秒くらいかかった。

「四月から、ずっと見てた」

「……は?」

頭の奥で、何かが、こん、と低く鳴った。

四月。俺がこの学校に来た最初の月だ。机の周りの空気が薄くなる前の、まだ自分が誰とも話せるかもしれないと薄く期待していた、あのほんの一週間。それから半年間、俺は誰の視線の中にも入っていないつもりだった。誰にも見られていない、ということを、いつのまにか自分の輪郭の代わりにしていた。透明であることが、唯一の安全の形だった。それが今、たった一言で、後ろから服の襟をつかまれたみたいに、ぐいと現実の方へ引き戻されていく。

「ずっと、って」

「廊下で、何回かすれ違った。あと、購買のとこで」

「……あの、人違いだと、思います」

「ううん。霧島悠真くんで合ってる」

フルネームを呼ばれて、上履きの中で爪先が縮こまった。掌の汗が、肩紐を伝って、リュックの布地に薄い染みを作っているのが、自分でわかった。耳の縁が、じわっと熱を持つ。誰にも呼ばれないように丸めて隠していた自分の名前を、知らない人間の口から、こんなに正確な発音で投げ返されるとは思っていなかった。

「えっと、その、なんで」

「うーん」

白瀬は、ラケットの柄を口元にあてて、ほんの少しだけ目を細めた。考えるというより、すでに用意してある答えを、どう出すか選んでいる仕草だった。

「それは、あとで話す。とりあえず、ね」

その語尾が、ふっと上がった。

「これ、受けて」

え、と思う暇もなかった。

彼女の右腕が、軽く、本当に軽く、こちらへ振られた。手首が、夕日でも蛍光灯でもない白い光の中で、しなる。指先が、ラケットのグリップから離れる。

ラケットが、放物線を描いて、こちらへ飛んでくる。

空気を切る、わずかな唸り。シャフトの軸が、白い光をひと筋、横に引いていくのが見えた。時間の刻みが、急にひと粒ずつ重くなる。

頭で考える前に、リュックを肩から滑り落としていた。床に置く前に、もう右手を前に出していた。グリップの黒いテープが、掌に吸い込まれる。指が、勝手に閉じた。半年ぶりに、何かを掴んだ、と思った。

ラケットは、思ったよりずっと軽かった。

掌に伝わってくるのは、シャフトの中を一本通った細い芯の感触だった。ガットの張り具合が、グリップを握っているだけで、振動になって肘の内側まで伝わってくる。ぱん、と張られた薄い太鼓の皮の上を、見えない指がそっとなぞっているような、奇妙な感覚。汗の滲んだ掌が、テープの細かい凹凸を、ひと粒ずつ拾っていく。指の付け根の皮膚が、テープの編み目に押されて、小さな格子の跡を作っていくのが、見なくてもわかった。前腕の内側に、もう一本、見えない筋が通ったみたいに、力の道筋がすっと立ち上がる。掌の中央に、ラケットの重心が、ぴたりと一点で吸いついて止まっていた。

「やっぱり」

白瀬が、こちらを見て、目だけで笑った。

「ね、その持ち方、自然」

「……は」

「初めて握ったラケットを、そう持てる人、あんまりいないよ」

何のことだか、わからなかった。

ただ、彼女の灰青色の瞳が、俺の右手の——たぶん手首のあたりを、じっと見ているのだけは、わかった。それは、男が女を見るときの目でも、上級生が下級生を見るときの目でもなくて、たぶん、職人が、長年探していた一本の道具を、ようやく見つけた時に向ける目だった。

居心地が悪い、というのとも、違う。

なんだろう。

半年間、誰の視界にも入らないように歩いてきた俺の右手首が、たった今、初めて、誰かの目の中で、輪郭を持ってしまった。背中の真ん中に、汗とは別の、湿り気のある熱が、すっと走る。その熱は、首の付け根を越えて、耳のうしろの薄い皮膚の下にまで上ってきた。見られている、という事実が、こんなに体温を変えるものだとは知らなかった。逃げ出したいのに、逃げ出したくない。その矛盾だけが、胸の真ん中で、灯りかけの蛍光灯みたいに、ちかちかと点滅していた。

「霧島くん」

「……はい」

「明日も、ここに来て」

「えっ」

「四時四十五分。今日と同じ時間で、いいから」

返事をする前に、廊下の遠くから、下校時刻を告げるチャイムの最初の一音が、薄い壁を抜けて、こちらへ届いてきた。空気が、ふっと現実の温度に戻る。白瀬は、それを合図にしたみたいに、半歩だけ後ろへ下がった。

「ラケット、持って帰っていいよ」

「いや、これ——」

「明日、返してくれれば」

「あの」

「君の手首の角度、もうちょっと、ちゃんと見たいから」

その一言が、夕方の冷たい廊下の方ではなく、扉の内側の温い空気の中に、ぽとり、と落ちた。

俺は、自分の右手の中にあるラケットを、もう一度、見た。

グリップの黒いテープに、彼女の体温が、まだ薄く残っていた。指の腹で軽くなぞると、その温度は、自分の汗とまじって、もうどちらが誰のものなのか、区別がつかなくなっていた。

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