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ぼっちの俺が孤高の天才に溺愛されてバドの相棒になった件

第3話 第3話

第3話

第3話

リュックの底で、ラケットがことりと鳴った。

寝返りを打つたび、机の隅に立てかけたグリップの黒いテープが、暗がりの中で薄く光を返しているのが見えた。眠れない、という言葉を、たぶん半年ぶりに思い出した。半年前は、明日が来るのが怖くて眠れなかった。今夜は、明日が来るのが、なんだか早すぎて眠れなかった。違いがあるのかどうか、自分でもよくわからない。布団の中で右手だけが冴えている。掌の中央に、昨日のラケットの重心がまだ一点で残っている気がして、何度も指を開いて、また握り直した。

朝、洗面所の鏡で前髪を直そうとして、自分でぎょっとした。半年間、鏡なんて、歯磨きの時に下を向いたまま通り過ぎる場所だった。蛇口を一度止めて、もう一度開いて、結局分け目をいつもと反対にしてしまって、慌てて元に戻した。

学校では、いつも通りの机の周りの空気の薄さの中で、時計の長針だけを盗み見ていた。授業が一つ終わるたび、リュックの底でラケットが少しだけ動く感触を、椅子の背越しに探す。誰にも見えていない、はずだった。それなのに五時間目の途中で、後ろの席の女子が「霧島くん、今日、姿勢よくない?」と、小声で隣に囁いたのを、俺の耳は拾ってしまった。姿勢、なんて、自分でも忘れていた語だった。机の下で、右手の親指の腹が、勝手にラケットのグリップの形を、空中でなぞっていた。

四時四十五分の、十分前に、俺は旧校舎の引き戸の前に立っていた。

引き戸の取っ手は、昨日より少しだけ温かかった。鉄の温度ではなく、たぶん俺の指の方が温度を持ってきてしまったのだ。深く息を吸って、戸を、引いた。

ぱしっ。

中ではもう、音が、始まっていた。

「あ、来た」

白瀬は、コートの真ん中に立って、ラケットの先端でこちらをくるりと指した。今日のポニーテールも、銀色だった。蛍光灯ではなく、古い体育館の高窓から差し込む夕日の橙が、彼女の髪の上で屈折して、それでもなお銀の芯を失わない。袖をひとつ折り返しただけのジャージから、細い手首が真っ直ぐ伸びていて、その先のグリップが、身体の延長みたいに自然に握られていた。

「ラケット、ちゃんと、持ってきた?」

「……はい」

リュックから取り出して差し出すと、白瀬は受け取らなかった。代わりに、自分のラケットの先端で、こちらの足元の床を、こん、と一度叩いた。

「持ってて。これから、ちょっとだけ、打ってみて」

体育館の中の空気が、ひとつ、固くなった。

「いや、俺、バドミントンとか、やったこと——」

「知ってる」

「……知ってるんですか」

「うん。だから、いいの」

白瀬は、ラケットを下ろして、こちらに数歩近づいてきた。昨日と同じ柑橘の匂いが、今日は少しだけ汗の方が濃い。彼女は、俺の右手のそばで止まって、ためらいなく、自分の左手の人差し指で、俺の右手首の内側を、ほんの少しだけ持ち上げた。

「ここ」

「ひっ」

「びくっとしないで。観察してるだけ」

人差し指の腹は、思ったより冷たかった。皮膚と皮膚が一点だけで接していて、その一点から、心拍がそのまま向こう側へ筒抜けになっていくみたいだった。半年間、誰にも触れられなかった手首の皮膚が、彼女の指先のたった一箇所の温度に過剰に反応して、産毛の根元まで一斉に逆立つ。喉の奥で唾を飲み込む音が、また、いやに大きく聞こえた。

「君の手首の角度、ずっと、観察してた」

「……は」

「四月から、ずっと。廊下を歩く時の、リュックの肩紐をつかむ角度。購買でパンを取る時、棚に伸ばす角度。机に肘をついてる時の、たたみ方。全部、同じ角度なの」

「……えっと」

「ねえ、霧島くん。たぶん、君は知らないと思うんだけど」

灰青色の瞳が、こちらの手首から、ゆっくりと顔まで上ってきた。

「君のその角度、すごく、いい」

「……いい、って」

「ラケットを振るのに、いい」

意味が、わからなかった。

それなのに、頬の内側がじん、と熱くなる。半年間、誰の物差しの上にも乗っていなかった俺の身体の、こんな小さな関節の角度が、誰かの目の中で、勝手に意味を持っていた。その事実を、どう処理したらいいのか、十六年生きてきた頭の引き出しに、一つも当てはまるラベルが見つからない。

「ちょっと、そこ、立って」

白瀬は、何でもないことのように、コートの一番後ろのラインの内側に俺を押し出した。それから自分は反対側へ下がって、ラケットの面で、シャトルをひとつ、軽く宙に浮かせた。

「打ち返さなくていい。当てるだけでいい」

「いや、無理ですって」

「大丈夫。当たる場所に、私が出すから」

ぽん、と、シャトルが、白瀬のラケットの面から離れた。

宙を、白い羽根が、ゆっくりと、こちらへ向かって落ちてくる。

時間の刻みが、また、ひと粒ずつ重くなった。

考える時間は、ない。考える資格も、本当はない。バドミントンなんて、小学校の体育で網も張らずに数回振り回した、それきりだった。それなのに、右手のグリップの中の重心が、勝手に向きを変える。前腕の内側の見えない筋が、昨日彼女が立てた一本の道筋を、もう一度なぞって、肩から肘、肘から手首、手首から指先へと、力の波がすうっと、流れた。

息を、吐いた。

ラケットの面が、シャトルの白い羽根の真ん中に、当たった。

ぱしっ。

その瞬間、俺は、自分の打った音じゃない、と思った。

昨日、扉の隙間から聞いた白瀬の打球音と、まったく同じ音が、自分の右手から鳴った。乾いていて、軽くて、それでいて芯のある音。腕を振った覚えは、ほとんどない。手首を返した記憶も、ない。ただ、面が、シャトルに「触れた」だけだった。

それなのに。

シャトルは、体育館の高窓の方へ、ふわりと、信じられない弧を描いて、上がっていった。

高窓の縁に、夕日の最後の橙が、一本の線になって残っていた。その線をかすめるように、白い羽根が、ゆっくり、ゆっくり、放物線の頂点まで昇っていく。誰かが見えない糸でそっと吊り上げているみたいに、空気が、その軌道だけ、抵抗をやめていた。頂点で、シャトルは一瞬だけ止まった——本当に止まったように見えた——それから、糸が切れたみたいに、白瀬の方へ、まっすぐ落ちていった。

白瀬は、それを、打ち返さなかった。

ラケットをだらりと下げたまま、宙の一点を、見ていた。

シャトルが、彼女の上履きの爪先のすぐそばに、こと、と落ちる。

体育館の中の音が、全部、消えた。

俺の心臓だけが、こめかみのあたりで、鈍く、打っている。

「……あの」

声が、出ない。

「やっぱり」

白瀬の唇が、薄く、動いた。

「やっぱり、運命」

灰青色の瞳が、夕日の橙を含んで、わずかに、揺れていた。瞬きをした時、その瞳の縁に、薄い水の膜が一筋、走ったのが見えた。涙、というほど形になっていない、けれど確かに液体である何かが、まつ毛の根元の影を、ほんの少しだけ濡らしていた。

「うん。やっぱり、運命」

二度目は、自分自身に言い聞かせるみたいに、低い声だった。

「あの、白瀬さん、運命って」

「ごめん。今のは、聞かなかったことにして」

「聞かなかった、って」

「でも、撤回は、しない」

白瀬は、足元のシャトルを拾って、掌の上で一度くるりと回した。羽根の一本一本を確かめるみたいに。それから、こちらを見て、薄く、本当に薄く、笑った。昨日、扉の隙間で見た、誰かに見られることに慣れている人間の角度ではない笑い方だった。誰にも見せたことのない方の角度の、まだ整っていない笑い方だった。

「霧島くん」

「……はい」

「明日、教室、行くから」

「教室、って」

「君の、隣の席、空いてるよね」

返事をする前に、下校時刻の最初のチャイムが、また旧校舎の薄い壁を抜けて、こちらへ届いてきた。

白瀬は、それを合図にしたみたいに、自分のラケットをくるりと肩に担いで、こちらへ背を向けた。

「ラケット、今日も、持って帰っていいよ」

「あの——運命って、どういう意味ですか」

「明日、教えてあげる」

ポニーテールが、揺れた。歩き出した彼女の上履きが、こん、こん、と古い床板を踏んでいく。その音が扉の向こうへ消えるまで、俺はコートの真ん中で、右手の中のグリップを、ぎゅう、と握りしめたまま、動けなかった。

掌の中で、ラケットの黒いテープが、湿っていた。

俺の汗じゃない方の温度が、もう一度、混ざっていた。

意味のわからない言葉が、耳の奥で、何度も、何度も、こだましていた。

——やっぱり、運命。

明日、隣の席に、銀色のポニーテールが、座る。

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