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ぼっちの俺が孤高の天才に溺愛されてバドの相棒になった件

第1話 第1話

第1話

第1話

上履きのゴム底が、リノリウムの床にきゅっと鳴った。それだけが、四時四十五分の放課後の廊下に残っている、ただひとつの音だった。

下校時刻まであと十五分。教室の窓から差す光は、もう橙でもなく、薄い灰色に近い。俺は自分の足音の間隔を耳で測りながら歩いていた。一秒に一歩、ぴたりと等間隔で、リュックの底に入れた水筒が時々、こと、と鳴る。それだけが、霧島悠真というぼっち高校生の、今のところ唯一の存在証明らしかった。

転入してから半年が経つ。四月にこの高校へ来て、もう十月の終わりだ。机の周りだけ妙に空気が薄いのは、ずいぶん前から慣れた。誰かに何かをされたわけじゃない。最初の一週間で、会話の波に乗り損ねた、ただそれだけのことだ。けれど、一度はみ出した者は、教室という小さな海にはもう二度と浮かべない。それがこの半年で覚えた、たぶん一番役に立たない校則だった。

スマホのイヤホンから流れていた音楽は、六時間目の途中で電池が切れた。それからずっと、教室のざわめきも、誰かの笑い声も、窓ガラス一枚向こう側で起きている遠い出来事として聞いていた。終礼が終わって、皆が机の周りに寄って弁当箱の話とか週末の予定とかを始めた頃には、もう俺の鞄は閉じ終わっていた。誰よりも早く帰る、というのは半年で得た数少ない技術のひとつだ。

掌が、湿っていた。リュックの肩紐を握り直すたび、汗の薄い跡が指の腹に残る。なぜ手が湿っているのか、自分でもわからない。何かを恐れているわけでも、急いでいるわけでもなかった。ただ、十五分後にはバスに乗り、四十分かけて家まで帰り、誰もいない部屋でレンジに冷凍ご飯を温める——その流れが、今日に限って、どうしようもなく退屈に思えただけだ。あるいは、退屈という言葉では足りない、もっと薄くて長い、空白のようなものに。

校門までなら普通に歩いて十分とかからない。それなのに、今日はなぜか、いつも使っている渡り廊下を逸れて、誰も来ない方へ足が向いた。本館を抜けて、誰の声もしない中庭を渡って、立入禁止の札がかかっていない方の旧校舎の入口へ。「三年前より閉鎖中」と書かれた紙が、もう色褪せて壁紙みたいになっている。そこから抜けると、自転車置き場の裏に出るという近道があるらしい——と、一年の頃に誰かが話していたのを、俺は会話の輪の外で立ち聞きしていた。半年経って、ようやく試そうという気になった。それだけのことだ、と自分に言い聞かせる。

引き戸の取っ手は、思ったより冷たかった。鉄の感触が指先から肘の内側へ伝わって、それでようやく、自分の体温が下がっていることに気づく。十月の夕方は、もう秋だ。半袖のシャツの下で、肩甲骨のあたりが、ぴくり、と震えた。

旧校舎の廊下は、時間が止まっていた。

蛍光灯はついていない。窓から差す薄い夕日が、床板のささくれを長い影で引き伸ばしている。空気は冷えていて、鼻の奥に古い木と、埃と、それから乾いた紙の匂いがした。本館とは違う匂いだ。プリントが擦れた塵じゃなく、もっと厚みのある、誰にも触られなくなって久しい木そのものの匂い。喉の奥で、その匂いが薄く渋い味に変わる。唾を飲み込むと、音が、いやに大きく聞こえた。鼓膜の内側で、自分の心拍が、こつ、こつ、と低く打っているのまで拾えた。

一歩進むと、上履きの底が床板を踏む音が、本館とは違う深さで響いた。きゅっ、ではなく、こん、と。低い、空洞を含んだ音。誰もいない教室の前を一つ、二つ過ぎていく。黒板の隅に「卒業おめでとう」の文字が、チョークの白で残ったまま、机がいくつか壁際に積み上げられていた。たぶん何年も、誰の手も触れていない。窓辺には、誰かが置き忘れたまま枯れた小さな鉢植えがあって、土の表面が干からびて白く粉を吹いている。教卓の上にはチョークが一本、半分に折れて転がっていた。誰かが最後の授業を終えて、そのまま振り返らずに出て行ったみたいに。床に落ちた埃の層が、自分の上履きの輪郭をくっきりと型取って、それが俺以外の誰かの足跡を、ずいぶん前から待っていたみたいに見えた。

近道のはずが、足が遅くなる。古い木造の床は、本館のリノリウムと違って、自分の体重を一歩ごとに飲み込むみたいに沈み、きしんだ。背筋に、薄く鳥肌が立つ。歩くたび、自分の影が床に伸びて、それから縮んで、また伸びる。誰もいない廊下で、自分の影とだけ歩幅を合わせている。それが妙に、俺らしい行為のような気がした。

——その時、奥から、聞こえた。

最初は、虫の羽音かと思った。

規則正しい、軽い、ぱしっ、ぱしっ、という音。一定のリズムで繰り返されている。三秒に一度、いや、もう少し短い間隔。何かを打っている音。糸を張った面と、軽い何かが、ぶつかっている音。

足が止まった。

旧校舎は閉鎖中だ。三年前から。色褪せた紙には、はっきりそう書いてあった。だから今、奥にあるはずがないのだ。誰も、いないはずだった。

それなのに、音は止まらない。

ぱしっ。ぱしっ。

俺は、リュックの肩紐をもう一度握り直した。掌の汗が、いつの間にか乾いていた。代わりに、心臓だけが、少しだけ早く動き始めている。引き返すなら、今だ。誰もいないことを確かめる必要なんて、本当はどこにもなかった。明日の自分のためにも、ここで踵を返して、いつもの渡り廊下に戻る方がずっと利口だ。半年間、俺はそうやって生きてきた。波風を立てず、はみ出した側の海の底で、ただ一人で泳ぐ。それでよかったはずだ。

それなのに、足が、勝手に前へ出た。

一歩。床板が、こん、と鳴る。 もう一歩。今度は、み、と低くきしむ。 自分の意思とは別の何かが、足首のあたりを掴んで、奥へ引いている気がした。あるいは、半年ぶんの沈黙の底に溜まっていた何かが、今この瞬間、ようやく俺の背中を押したのかもしれなかった。喉が、自分でも気づかないうちに、こくり、と鳴る。乾いた口の中に、さっき嗅いだ古い木の匂いが、味として残っていた。

ぱしっ。

廊下の突き当たりに、薄く光が漏れている扉が見えた。隙間から差している光は、夕日の橙ではなかった。もっと白くて、揺れていない。たぶん、誰かが、内側で電気をつけているのだ。三年前から閉鎖中の校舎で。

息を、止めた。

近づくにつれ、音はもっとはっきりした。ラケットの面が、シャトルの羽根を捉える瞬間の、あの乾いた、弾けるような音。テレビでしか聞いたことがない音。けれど一度聞けば忘れない、独特の、軽くて鋭い、ぱしっ、という音。打球と打球のあいだに、ほんの一瞬、上履きが床を擦る、きゅ、という小さな音が混じっている。誰かが、確かに、そこに立っている。

扉の前で、俺は立ち止まった。

取っ手に手を伸ばす指が、少しだけ震えていた。指先で押すと、引き戸は思ったより簡単に、内側へすっと数センチ開いた。鍵は、かかっていなかった。隙間から、ふわっと、外より少しだけ温かい空気が、頬を撫でた。汗と、汗にまだなりきっていない誰かの体温と、それから、ほのかに甘い柑橘みたいな何かが、混じって流れてきた。

ぱしっ。

その隙間の向こうで、誰かが、ひとりで、シャトルを打ち続けていた。

夕日でも、蛍光灯でもない、白くて柔らかい光。その中で、ポニーテールがひとつ、揺れた。

銀色だった。

蛍光灯の白さでもなく、夕日に染まった金色でもない。月の裏側の光をそのまま糸にして束ねたような、ありえない色。一本一本が、白い光を吸ってから、わずかに青く反射している。染めた色じゃない、と直感でわかった。あんなに自然に光を返す髪を、俺は今まで見たことがなかった。瞬きを忘れた目の奥が、じわりと熱くなる。

——なんで。

こんな、誰もいないはずの場所に。

俺の喉から、音にならない息が漏れる。

その瞬間、ぱしっ、と、一際鋭い打球音が、ふっと止んだ。

宙に弾かれたシャトルが、ゆっくりとコートの上に落ちていく。

その小さな羽根が、床に触れる前に。

銀色のポニーテールが、こちらへ向かって、ほんの少しだけ揺れた。

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