第2話
第2話
朝の教室に、夕べのサンドバッグの残響はもう届いていない。 代わりに、脛の同じ場所に、昨日より一段深くなった熱だけが残っていた。右の脛骨の内側、爪の幅二本分。朝のシャワーで湯をかけたら、他の肌より温度を先に受け取って、赤く染まった。眼鏡をかけると、洗面台の鏡の中で、その赤だけが、シャツの裾の下に沈んでいった。 八時二十分、ホームルーム前の教室。窓は開いていて、校庭の反対側から、吹奏楽部の朝練の音が、途切れ途切れに流れてきていた。トランペットのロングトーン、クラリネットの半音のスケール、チューバの低い揺れ。音が揃っていないのに、揃っていないまま束になって、五月の風に押されて、二階の窓から入ってくる。俺は机の上に置いたプリントの折り目を、指の爪で二度、三度と撫でた。紙は、印刷室で刷られたばかりの匂いを、まだ薄く残していた。 〈第六十二回 文化祭実行委員 募集および割り当て要項〉 昨日よりも、ずっと軽く感じた。軽いから、不安だった。重いものは両手で支えれば済むが、軽いものは、気を抜くと風で飛ばされる。 「みんなー、席着いてー」 担任の声が、廊下の向こうから先に届いた。
「で、例の、くじ引きやるから。二名ね」 担任は、黒板の前にしゃがんで、教壇の下から空き缶を引き出した。ミルクティーの銀色の缶の口に、マジックで丸く穴が空けてある。中で紙が転がる音。俺の席からでも聞こえるほど、缶は満タンだった。 「出席番号順に、前に来てねー。引いた紙、開かないで置いてって」 「当たりはー?」 「十三と、二十四ね」 最前列から、生徒が教壇へ向かう。スリッパが床を擦る音、缶の中で紙が揉まれる音。誰かが「引くの怖いわー」と笑い、誰かが「装飾、装飾、私に装飾来い」と祈るような声を重ねた。笑う声は、誰の当たりにも落ちないまま、教室の天井で散っていく。 俺の出席番号は二十一番。 十三と、二十四。二十四、が、引っかかった。俺の番号、二十一。近い。近いことに意味はないと、頭ではわかっている。わかっているのに、缶の中で紙が擦れる音が、脛の熱と同じリズムで揺れている気がした。舌の奥が、わずかに乾いていた。夕べ飲んだ水の味が、まだ喉の奥に残っている気がして、俺は一度だけ、浅く唾を飲んだ。 前の席のあの子が立ち上がった。髪を結ぶゴムの色は、今日は黄色だった。缶に手を突っ込んで、一枚、引いた。開かずに、教壇の上に置いた。担任が頷く。席に戻ってきたとき、「手、汗かいた」と、誰にともなくぼやいた。 「次、三崎」 自分の名前は、他人の口から呼ばれると、いつも半拍遅れて自分のものになる。椅子を引いた音が、想像より大きく鳴った。教壇まで、七歩。缶の口に右手を差し込むと、指先が、折り畳まれた紙の束の中で、一瞬、迷った。一番上の紙は、誰かの汗でほんの少し湿っていた。底のほうが、湿っていない気がした。底だ、と決めて、親指と人差し指で一枚を挟む。 抜く。教壇に置く。番号は、見ない。 席に戻る途中、廊下側の窓から、吹奏楽のチューバの低音が、建物ごと小さく揺らした。 全員が引き終わるまで、三分もかからなかった。担任が教壇の上で、紙を一枚ずつ開いていく。 「十三はー、はい吉野」 「……はい」 斜め前、三列向こうから、短い返事が上がった。吉野悠人。名前だけは、出席番号で俺の三つ前だから覚えている。顔を、たぶん今日で二度目にちゃんと見た。前髪が俺より長くて、銀縁の眼鏡の上に、光を受けずに重く落ちている。猫背というより、机の上で背骨を折り畳む癖がついている、という感じの座り方をする男子だ。クラス名簿の中で、俺の隣の「地味枠」と呼べる一人。 「で、もう一枚が、二十四番……」 担任が紙を開き、出席簿で番号を確認し、もう一度俺のほうを見た。 「二十四、三崎ね」 秒で、世界の端が鋭くなった。 視線は、感じない。クラスの半分は、自分の番号を見比べて安心しているだけで、残りの半分は、誰が当たったのか、もう覚えていない。それでいい。 「じゃあ、吉野と三崎な。模擬店、装飾、広報、警備、どれやるかは、二人で決めて、来週までに出してー」 「はい」と吉野が答えた。 「はい」と、俺も答えた。 自分の「はい」の音が、彼の「はい」と半拍だけずれて、教室の天井で止まった。
放課後。 教室に残っているのは、日直の二人と、吉野と、俺だけだった。他のクラスメイトは、チャイムと同時に、部活に、コンビニに、それぞれの夕方へ散っていった。窓の外で、吹奏楽部がまたチューニングを始めていた。朝と同じ、ばらばらのまま束になる、あの音。 吉野は、自分の席に着いたまま、机の角を指の第二関節で、こつ、こつ、と鳴らしていた。拍は一定じゃなかった。緊張の拍だ、と、勝手に読んだ。 「三崎、ちょっといい?」 彼が最初に、こっちに声を渡してきた。俺は椅子ごと身体の向きを、三十度だけ、回した。椅子の脚が、床の油で磨かれたリノリウムの上を、短く、低く鳴いた。 「四つのうち、どこ希望?」 「……決めてない」 「俺、模擬店がいいんだ」 言い方が、思ったより、はっきりしていた。猫背の内側に、もう一本、別の背骨が通っているような、そういう音の張り方だった。 「準備期間、一番長いし、当日も一番動けるから」 吉野は、机の上にノートを広げた。Campusの黄色い表紙。角が、何度も鞄の底で擦れたらしく、白い芯が少しだけ覗いている。開いたページに、青いボールペンで、すでに何かが書き込まれていた。縦軸に時期、横軸にタスク、マス目の中に文字。マス目は定規で引いたらしく、線の端が少しだけ紙の繊維を引きずっていた。素人目にも、去年の内に下書きを始めていたのだと分かる密度だった。
じゃあ断ろう、と、頭の半分が先に結論を置いた。 模擬店班は準備期間が一番長い。週二日、二時間、四月下旬から九月上旬。夜のラウンドを、毎週、半分ずつ削り続ける五か月。秋のアマチュア大会は、九月の終わりか、十月の頭。削ったら、間に合わない。 口の中で、「ごめん、装飾のほうがいいかな」の音を、舌が一度組み立てかけた。「ご」の子音が、上顎の裏側で、風をつくる寸前まで来ていた。 組み立てた、はずだった。 「いいよ」 口が、先に動いた。 三文字。自分の声じゃないみたいに、低く、短く、落ちた。机の上の、吉野のノートの、四月の欄のマス目の真ん中に、俺の声の着地点があった。喉の奥で、まだ「ご」の音の形が、置き忘れた靴のように残っていた。 吉野が、眼鏡を、二ミリだけ上に押し上げた。レンズの縁が、蛍光灯の白を一度だけ跳ね返した。 「……いいの?」 「うん。模擬店で、いい」 ふたつめの「いい」は、もっと短かった。脛の熱が、急に一度、引いた。引いて、すぐ、戻ってきた。戻ってきた熱は、昨日より、一段、浅い。浅いのに、芯のあたりだけが、鋭く、とがっていた。 「助かる」 吉野は、そう言った。 言葉の温度は、思ったより低かった。感謝というより、予定が動いたことの確認。彼の机の上のノートの青い線が、俺の目の中で、一瞬だけ輪郭を鋭くした。 断れなかった、じゃない。断らなかった。 断らなかった自分に、俺は、この時点ではまだ、説明の言葉を持たなかった。持たないまま、頷いていた。頷く首の付け根で、昨夜のサンドバッグの手応えが、遠い他人の記憶みたいに、一度だけ、鈍く震えた。
吉野は、ノートの四月の欄に、鉛筆で何か小さく書き足した。覗き込まなかったから、何を書いたかはわからない。 「じゃあ、明日の放課後、空き教室で最初の打ち合わせ、していい?」 「うん」 「三十分で終わる。多分」 「多分、ね」 彼は、笑った。笑った顔を、俺は、初めてちゃんと見た気がした。笑うと、猫背の男子じゃない誰かが、前髪の奥から一瞬だけ覗いた。 教室を出て、下駄箱で靴を履き替えるとき、俺はスマホを取り出して、バスの時刻表を開いた。十六時十二分、十六時三十一分、十六時四十八分、十八時十二分。 明日の、「三十分で終わる、多分」を、俺はまだ信じていた。信じていたから、親指は、十八時十二分の列を、まだタップしていなかった。 窓の外で、チューバの低音が、もう一度、建物の骨を揺らした。