第1話
第1話
右の脛骨に、まだサンドバッグの感触が残っていた。 昨夜、千回目のミドルキックを蹴り終えたあと、革の継ぎ目が脛の同じ位置を擦った。今日もそこに、薄い熱が燻っている。机の下で右足を浅く揺らすと、内側広筋がじわりと張った。誰も気づかない。気づくはずがない。俺の脚の上には、五月号の現代文の問題集が、地味な装丁のまま伏せられている。 窓際から二列目、後ろから三番目。三崎涼介、十六歳、高校二年。眼鏡のフレームは黒、前髪は眉が隠れるくらい。シャツは襟元までボタンを留め、ネクタイは結び目が小さく寄っている。クラス名簿の中に俺がいることを、たぶん半分の生徒は思い出せない。 それでいい。 四月の教室には、まだ新学期特有の埃っぽさが漂っていた。掃除当番がサボった黒板消しの粉と、開けっ放しの窓から流れ込む花の匂い。誰かが机を引きずる音。新しい上靴の、ゴムが床を擦る軋み。昼休みの十分後、チャイムが鳴る前のこの空白が、俺はわりと好きだった。誰も俺を見ない。俺も誰も見ない。 左手で文庫本のページをめくる振りをしながら、頭の中ではジムまでのバスの本数を数えている。十六時十二分、十六時三十一分、十六時四十八分。最終下校が十六時半だから、教室を十六時十分に出れば一本目に乗れる。一本目に乗れば、ラウンドの一本目に間に合う。コーチは時計を一瞥するだけで何も言わないが、その一瞥の温度が違う。 夜の俺は、こっちじゃない。
「三崎、これ、後ろ回して」 前の席の女子が、振り向きもせず束のプリントを肩越しに突き出してきた。名前は知っている。名前を知られている自信は、ない。 「ああ」 声を低めに作って受け取り、束の上から一枚を抜き、残りを後ろの席に滑らせた。プリントは少し湿っていて、コピー機のインクの匂いがした。 女子の背中のシャツが、動くたびにかすかに衣擦れの音を立てた。髪をまとめたゴムの色までは、顔を上げずに受け取ったから確認できない。けれど、首筋のあたりから、甘い柔軟剤の匂いが一瞬だけ俺の机の上に落ちて、すぐに消えた。俺は息を一度止めた。意味はない。止めなくてもよかった。ただ、匂いに反応した自分の鼻を、ほんの少し、隠したかった。後ろの席から、プリントを受け取ったらしい気配の薄い礼が返ってきた。「ども」とも「サンキュー」ともつかない音。俺もそれに合わせて、浅く頷くふりをした。会話は、五秒と続かない。続かないほうが安全だった。プリントの束は、思ったより厚みを残したまま、後ろへ流れていく。俺の手の中には一枚だけが残って、机の木目の上に、かさりと小さく音を立てた。 〈第六十二回 文化祭実行委員 募集および割り当て要項〉 明朝のホームルームで、クラスから二名の実行委員をくじ引きで決めるという内容だった。割り当ては「模擬店班」「装飾班」「広報班」「警備班」のいずれか。下半分には、去年の写真が小さく載っている。中庭で誰かが両手を上げている。誰かは知らない。たぶん、知らないままで一年が終わる人だ。 俺は、知らないままで三年が終わる側だ。 一応、目を通した。模擬店班の準備期間は四月下旬から九月上旬。週に二日、放課後二時間の打ち合わせ、と書いてある。週二日。二時間。バスの本数を、頭の中で組み直す。十六時十二分には乗れない。十八時十二分なら間に合う。一本目のラウンドは消える。アップの時間を削れば、二本目から入れる。削れば、削った分だけ、夜の俺が薄くなる。 文庫本の角を指でなぞった。爪の根元のテーピングが、シャツの袖口から半センチだけはみ出していた。慌てて袖を引っ張る。隣の席は欠席だった。誰も見ていない。 「あー、文化祭ねぇ」 斜め後ろで、誰かが間延びした声を出した。 「またあの暑い体育館で出し物さぁ、勘弁してくんない?」 「やだ、私、装飾やりたい」 「装飾は人気だから無理じゃね」 会話は、頭上を通り過ぎる雲みたいに俺の机の上を流れて、誰の席にも着地しないで消えていった。地味枠は雲の向きに関係しない。雨にも風にも当たらない代わりに、太陽の光も、たぶん当たっていない。 日陰でいい。日陰のほうが、夜と地続きだ。
昼休みの終わりが近づいて、窓の外のグラウンドから、サッカー部が予鈴前のシュート練習を切り上げる声が聞こえた。スパイクが芝を蹴る音。あの音は、嫌いじゃない。地面が軽く凹む感じが、サンドバッグを蹴ったときの返りに少しだけ似ているからだ。 明日のくじ引き。 〈二名〉という数字を、俺はもう一度プリントの上で確認した。クラスは三十八人。確率は二十分の一弱。低い、と思う。低いから、当たらない、と思いたい。けれど、こういう時の確率って、なぜか俺の側に寄ってくる気がしてならなかった。中学の遠足の班分けでも、修学旅行の部屋割りでも、最後の一人は俺だった。最後の一人は、誰の班でも引き受けられなくて、結局先生の調整枠に回される。 遠足のバスの、いちばん後ろの座席の、窓とは反対側の、通路側の、最も目立たない端。修学旅行で割り振られた部屋の、いちばん奥の、押入れに近いほうの布団。記憶の中で、いつも俺は端にいる。端にいることを、嫌がってはいけない気がして、嫌がらないふりが上手くなった。上手くなりすぎて、本当に嫌がっていないのか、それとも嫌がらない技術だけが先に仕上がったのか、自分でもわからなくなっている。ただ、端からは全体がよく見える。賑やかな中心と、その中心に加われなかった側の、両方が等距離に並んでいる。どちらに混ざってもよかったはずなのに、いつの間にか、どちらにも混ざらない椅子を、自分で磨いていた。磨くのは得意だった。目立たないことを磨くのは、脛を鍛えるより簡単で、誰にも褒められない代わりに、誰にも壊されなかった。 「面倒な誰か」と組まされる予感は、たぶんもう、予感じゃない。 窓ガラスにうっすらと自分の顔が映っていた。眼鏡のレンズの奥で、目の下にうっすらクマが沈んでいる。昨夜は二十二時にジムを出て、家でプロテインを溶かして、シャワーを浴びて、零時過ぎに英単語を二十個入れて寝た。睡眠時間五時間半。鏡の中のこいつは、ぱっと見、優等生でもなければ不良でもない。何でもない。何でもないように見えるように、毎朝、前髪を眉の上で切らないように整えている。 何でもないように見えるための努力は、たぶん、何でもあるように見える努力より骨が折れる。昨日の自分と今日の自分で、髪の分け目が一ミリずれていないか。昨日と同じ角度で眼鏡がかかっているか。朝の洗面台の鏡の前で、俺は自分のシルエットを毎日上書きし直す。テーピングの端が袖口から覗かないように、リストバンドを買おうか迷って、迷っているうちに半年が過ぎた。買えば、買った理由を誰かに聞かれるかもしれない。聞かれないのなら、要らない。要らないのなら、今のままでいい。今のままでいる、というのは、何かを手に入れないことではなく、何かを積み上げないために毎日掃除をすることだった。積み上げれば、崩れる音がする。音がすれば、誰かが振り向く。 もしも明日、俺が当たって、誰かと組まされて、その誰かが俺の前髪の長さや袖口のテーピングや、放課後すぐ消える俺の理由を、ちょっとでも気にする人だったら。 指の関節が、机の天板に触れた。冷たい木の感触の下に、昨夜の革の感触がまだ眠っていた。
予鈴が鳴った。 俺はプリントを二つに折って、ノートの最後のページに挟んだ。折り目を爪で押し潰すとき、シャツの袖が手首を擦って、テーピングのざらりとした端が、皮膚の上を一瞬だけ走った。 「起立、礼」 午後の授業が始まる。教師の声は半分も入ってこない。頭の中ではもう、明日のくじ引きの番号札が、二十枚と少し、カラカラと回っていた。 大丈夫だ、と一度、自分に言い聞かせた。 当たらない。当たっても、三日で抜ける口実なんて、いくらでも作れる。家庭の事情、と言えばいい。バイト、でもいい。地味な男の言い訳は、地味なほど通る。 言い訳のカードは、手札の一番下に、ずっと伏せてある。誰にも見せたことがないから、角が折れていないまま、いつでも出せる。出せる、と思いながら出したことがない、というのは、たぶん、持っていないのと同じことだった。それでも、持っていると思い込めるうちは、まだ息ができた。 大丈夫だ、と二度目を言いかけて、やめた。 頭の中のバスの本数が、いつの間にか一本ずれていた。 十八時十二分発。一本目のラウンドは、もう削るつもりで数えていた。