第3話
第3話
翌日の放課後、空き教室の窓から入ってくる五月の風には、朝と同じ吹奏楽部のチューニングが混ざっていた。 三階の北側、使われていない化学準備室の隣。机が四列だけ残っていて、他の机は隅に寄せて畳まれている。黒板の端に、誰かが消し忘れた元素記号が、薄く残っていた。Na、Mg、Al。横に並んだ三文字の、最後の一文字のところで、チョークが折れたらしい、白い粉が黒板受けの溝に落ちていた。天井の蛍光灯は、四本のうち二本だけが点いていて、そのうちの一本が、数秒に一度、じじっ、と弱く鳴った。床の隅には、使い古されたモップの柄が、壁に斜めに立てかけられたまま忘れられていて、先端のゴムカバーが、片側だけ剥がれていた。薬品の匂いは、もうほとんど抜けていたが、窓枠の木の溝に、古い塩素の残り香のようなものが、かすかに、張り付いていた。 俺は窓際の列、前から二番目の席に座った。吉野は俺の斜め前、窓から一つ内側の席に、鞄を置いた。昨日の教室より、机と机の距離が近かった。距離が近いのに、昨日の座席の順番のまま座ろうとしている自分に、着席してから気づいた。近づく、という選択肢は、身体が選ばなかった。椅子の脚が、床のリノリウムに、一度だけ短く擦れて、きゅ、と鳴いた。その音で、吉野の肩が、気づかないくらい小さく、動いた。 「三十分で、終わる?」 「終わる。多分」 「多分って、昨日も言ってたよ」 「多分って言っとくと、延びても怒られないから」 吉野は、Campusノートの黄色い表紙を開いた。ページの端に、昨日はなかった付箋が三枚、色違いで並んでいた。ピンク、緑、青。色の割り当てに意味があるのかどうか、訊く前に、彼のほうが先に説明を始めた。紙の束の擦れる音の合間に、廊下のほうから、掃除当番のスリッパが、きゅっ、きゅっ、と、二度だけ鳴って、すぐに止んだ。付箋のそれぞれには、極細のペンで、小さな数字が一つずつ、書き込まれていた。ピンクに「1」、緑に「2」、青に「3」。優先順位、と、言葉にされる前に、俺の目が、勝手にそう読んでいた。
「模擬店、やるなら、まず何売るかだよな」 「……焼きそばとか、たこ焼きとか」 「定番はダメ」 即答だった。 「ダメ?」 「ダメ。去年の売上データ、貼ってある」 彼はノートのページをめくった。次の見開きに、去年の文化祭の、各クラスの模擬店売上の一覧表が、手書きで写されていた。数字の横に、店名と、使った材料原価と、人件費換算の時間数まで書き込まれている。右端に、粗利率の列があって、蛍光ペンで黄色く塗られていた。文字の太さが、一行ごとにわずかに違っていて、写した日が一日ではないことが、俺にも分かった。 「焼きそば、去年三クラスが被ってる。粗利率、四割切ってる」 「……その数字、どこで手に入れた」 「去年の実行委員会の資料室。鍵、職員室で借りれる。誰も借りない」 借りない、と言うときの、彼の目の動きが、わずかに速くなった。まばたきが、半拍だけ、早かった。 「俺が借りたのは、三月の下旬。春休みの、三日目」 「三月」 「うん」 声が、ひらべったく落ちた。春休みの三日目、と、昨日のミルクティーの缶の中の紙の湿り気が、俺の頭の中で、一度だけ重なった。俺が夜のサンドバッグを蹴っていた、同じ春休みの、同じ三日目。同じ時間の中で、彼は、職員室のドアをノックしていた。ノックの拍は、たぶん、今、ノートの余白を叩いている指の拍と、同じだった。俺の脛の内側で、古いアザが、その記憶に合わせて、一瞬、疼いた気がした。疼いたというより、疼いたつもりになった、のほうが近い。同じ時刻に、同じ街の、違う場所で、違う方向を向いて、二人で息を吐いていた、ということの重さが、胸の、喉に近いあたりに、静かに、澱んだ。 「で、俺の案はこれ」 ノートの、空きページいっぱいに、走り書きの余白が広がっていた。〈冷やし甘酒(ジンジャー入り)〉〈塩キャラメルのポップコーン(米粒より小さめの粒)〉〈春雨の冷製スープ、紙コップで提供〉。どれも、定番じゃない、という以上に、具体的すぎた。具体的なのに、どれも、学校の模擬店の予算の範囲で、たぶん、作れる。スプーンじゃなくて紙コップにしろ、という注釈まで、小さく、横に添えられていた。注釈の横に、さらに小さく、〈返却不要・ゴミ箱動線は西階段前〉と、鉛筆で、もう一段階薄く、書き足されていた。 「甘酒?」 「夏場、熱中症対策って打ち出せる。保健室との抱き合わせで、許可降りやすい」 「抱き合わせ」 「保健の先生、話通してある。四月の頭に。断られたら甘酒は諦める」 断られたら、の話をするときの、彼の指が、ノートの余白を軽く叩いた。こつ、こつ、こつ。昨日、教室で鳴っていた、机の角の同じ音だった。緊張の拍だ、と昨日の俺は読んだ。今日の俺は、それを訂正した。あれは、緊張じゃない。拍を数える癖だ。段取りの先を、指で先に刻んでいる音だ。拍の間隔は、ほぼ一定で、ほんの時折、半拍だけ詰まった。詰まるのは、たぶん、まだ未決の項目を通過するときだった。
俺は、自分の鞄の底を、一度、意識した。中には、体操服と、英単語帳と、プロテインのシェーカーと、テーピングの予備。今日の夜、十八時十二分のバスに乗れば、一本目のラウンドは削るけれど、二本目からは間に合う。コーチの一瞥は、「集中切れてんぞ」くらいでは、たぶん、済む。 時計を、教室の後ろの壁で見た。十五時四十二分。 「三崎、どう思う?」 吉野が、視線を上げた。銀縁の眼鏡の奥で、目の焦点が、俺の顔の、眉の上のあたりに、静かに合っていた。目そのものを見ない、という距離の取り方だった。遠慮か、癖か、俺には、まだ判別がつかなかった。 「どう、って」 「甘酒と、ポップコーンと、スープ。一つに絞るなら、どれ」 答えなくてよかった。意見を求められている、と、思わなければよかった。思わなければ、俺は、まだ、二時間の外にいられた。喉の奥に、一度、小さく空気が引っかかった。飲み込めば、通り過ぎる。飲み込まなければ、言葉になる。飲み込む前に、唇のほうが、先に動いていた。 「……ポップコーンは、粒が小さいって、何」 「小さいと、一袋の単価、下げられる。百円で売れる。試算した」 ノートの、次のページ。試算表。原価、仕入先、一袋当たりのグラム、想定来客数、損益分岐点。分岐点の横に、赤いペンで「×1.3」と書かれていた。一・三倍、売らないと、利益が出ない。赤い数字の下に、さらに細い字で、雨天時係数〇・七、と添えられていた。天気まで、彼の計算の中には、もう入っていた。 「一・三倍って、どうやって」 「呼び込み。声、一番出せる奴を、当日、一番前に立たせる」 声、一番出せる奴。 俺のほうを、吉野は見ていなかった。ノートの試算表を、自分で指で追っていた。追いながら、彼は、俺に、話している。俺に向けた話じゃない、独り言みたいな勢いで、話している。それが、俺の、胸のどこかを、一度、軽く、突いた。突いた場所は、ちょうど、夜、サンドバッグを蹴るときに息を吐き出すあたりの、みぞおちの、少し上だった。 「……悪くない」 口が、また、先に動いた。昨日と、同じ順序で。 「悪くないなら、進めていい?」 「進めて、いい」 進めて、いい。三文字の、返事のあとで、俺は、もう一度、後ろの壁の時計を見た。十五時五十四分。十二分、経っていた。三十分で終わる、多分、の、半分に届いていなかった。 猫背の地味枠、と、昨日までの俺が、勝手に貼っていたラベルが、ノートの余白の走り書きの密度に、一枚ずつ、剥がされていた。剥がされた下から、まだ名前の分からない輪郭が、少しずつ、起き上がってきていた。俺が測り損ねていたのは、彼の背骨の長さじゃない。彼が、たぶん、一人で、もう二か月、先に歩いていた、その距離のほうだった。その距離を、今の俺が、どの速度で追えば追いつくのか、あるいは追わないで済ませるのか、答えは、まだ、どの列にも、書かれていなかった。
「三崎、今日、何時まで平気?」 「……十八時」 「じゃあ、あと、二時間」 二時間。 バスの十八時十二分は、動かなかった。動かなかったのに、夜の一本目のラウンドは、もう、頭の中の予定表から、音もなく、消えた。二本目のアップの時間も、たぶん、半分削れる。削った分、脛の熱は、今日の夜、少しだけ鋭くなる。鋭くなった刃先を、どこに向けるのか、俺は、今日の段階では、まだ、自分に訊かなかった。訊かないまま、拳を、一度だけ、机の下で、軽く握り直した。握り直した指の間に、まだ使っていないテーピングの、乾いた感触が、記憶の側から、勝手に蘇ってきた。 「二時間で、終わる?」 「終わる。多分」 吉野は、そう言って、ノートの次のページをめくった。余白は、まだ、たくさん残っていた。俺はシャープペンの芯を一度、こきっと押し出した。窓の外で、吹奏楽部が、曲の頭の八小節を、三度、繰り返していた。揃わないまま束になる音が、三度目で、少しだけ、揃った。