第3話
第3話
銅鍋の底を擦る砂糖塩が、三つ目の鍋で指を刺し始めた頃、正午の鐘が港の方角から鈍く届いてきた。
厨房は一息に沸き立った。給仕が注文の紙片を束にして飛び込んでくる。ローストビーフ、マトンのシチュー、仔牛の腎。「肩肉をもう一つ! 大きい方を焼け!」ウィリアムズの怒声が天井を叩き、若い料理人が貯氷室の扉に飛びついた。抱え出されてきた赤身の塊は、庄之助の目分量で七斤余り。それが躊躇なく焼き網の上に放り投げられ、石炭の火が肉の下で咆哮を上げた。
庄之助の手が、止まった。
風車が廻り、火口に空気が送られ、炭の芯が白く沸き立っている。肉の表面がたちまち焦げ色を帯びていく。——強すぎる。頭の中で、五十年後の声が短く鳴った。この火加減では、中心に熱が届くより先に外が炭化する。繊維が縮み、肉汁が逃げる。切り分けた時、断面は灰色に霞み、皿の上に脂ばかりが滲むだろう。
口を出せば、明日の朝には桟橋で荷を担いでいる。庄之助は喉の奥で唾を呑んだ。砂糖の粒が指の腹に刺さる痛みを、わざと強く味わった。銅の緑青が爪の間に染みている。この厨房の主はウィリアムズであって、己ではない。この時代の英国式は、この焼き方が正道なのだ。五十年後の知恵を持ち込むは、横着にほかならぬ。
だが——と庄之助は思った。
肉が、可哀そうだ。
ウィリアムズの青い瞳が、焼き網の上で縮み上がる肉を睨んでいた。この男も、今の火加減が高すぎると気づいている。気づいていて、他に方途を知らぬのだ。庄之助にはそれが読み取れた。料理人には、料理人が見える。
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給仕頭が食堂の扉を押し開けて飛び込んできた。
"Mr. Williams! The Consul's party has arrived. They ask for you personally."
ウィリアムズの顎が、焼き網と扉の間で激しく揺れた。髭の下で短い英語の悪態が鳴った。領事一行となれば顔を出さぬわけにはいかぬ。料理長は鉄の焼き鋏を若い料理人に投げるように渡し、前掛けを取り替え、最後に庄之助の方を振り返った。青い瞳が、ほんの一瞬、庄之助の顔を射抜いた。
"Shaw. Watch the fire. Only watch. If it burns, I break your fingers."
庄之助は深く頭を下げた。ウィリアムズは葉巻の煙と高笑いの漏れる扉を押し開け、食堂へと消えた。若い料理人はマトンの鍋に掛かりきりで、こちらを窺う余裕もない。
庄之助は焼き網の前に立った。
掌を肉の上に翳した。熱が針のように刺した。——やはり、強い。風車の螺子に手を伸ばし、一段だけ空気を絞る。炭の色が白から赤へ沈むまで、二つ数える間、じっと掌を翳した。次に金挟みで焼き網そのものを摑み、火口から指二本分だけ高い位置へ移した。火が遠のく。中心に届く熱が、ゆるやかに深く入る。
この時代に調理用の温度計などない。だが庄之助の掌には、四十年分の火加減が刻まれていた。肉の表面から立つ湯気の湿り具合、脂の滴り方、焼き色の変わる速度。そのどれか一つが狂えば、中の温度は見える。
焼き網の脇では、例のグレイヴィーの鍋が湯気を上げていた。若い料理人が朝から苦労していた一鍋だ。覗き込めば、やはり小麦粉が入りすぎている。肉の旨みが粉に吸われて、灰色に濁っていた。庄之助の指が、勝手に動いた。
冷めた仔牛のブイヨンが、壁際の寸胴にあった。柄杓で半杓すくい、焦げかけた鍋底に一筋注ぐ。濁りが瞬時に解け、琥珀色が戻った。木篦で底を撫で、張りついた肉汁の膜を溶かし出す。塩、胡椒。そして——
(一匙だけ。)
庄之助の目が、棚の一角に留まった。東洋人労働者の賄い用にと、片隅に据えられた小さな木樽。信州から渡ってきたらしい味噌が、蓋の下で静かに呼吸していた。
味噌を木篦の先で米粒ほど掬い、手の中で揉み溶かす。麦の香と大豆の香が、掌の熱に応えて立ち上った。それを鍋の縁で溶き、ゆっくりと全体に混ぜ込んだ。決して気づかれぬ量。舌に味噌と悟られぬ、ただ奥行きだけを与える量。五十年後、銀座の辰巳軒で己が辿り着いた、和と洋を繋ぐ一手であった。
鍋底から、甘い香が立ち上がった。隣で鍋を振っていた若い料理人が、鼻をひくつかせた。
"What the hell's that smell?"
「仔牛だ」
庄之助は平然と答えた。料理人は眉を顰めたが、自分の鍋から離れるほどの余裕はなかった。
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焼き網の上では、肉が静かに熟していた。
庄之助は薄い刃を肉の側面に当て、指の腹で表面を押した。跳ね返りの硬さが、芯まで熱の通った証しとして返ってきた。金挟みで焼き網ごと火口の真上に戻し、最後の三十秒、表面を強く焦がす。脂が跳ね、煙が天井を這った。
肉を俎板に上げた瞬間、扉が開いてウィリアムズが戻ってきた。
"Is it—"
料理長は俎板の上の塊に目を落とし、言葉を呑んだ。表面の焦げ目の色が、己の知る色よりも、ほんの半音ばかり深い。焼き加減が違う。ウィリアムズは鋏を取り、肉の端を薄く一枚切り落とした。
断面が、薔薇色に輝いた。
肉汁が、血ではなく透き通った琥珀の滴となって俎板に滲んだ。時間の止まった厨房で、その一滴が板目に染み入る音まで聞こえた気がした。ウィリアムズの髭が、震えた。
"You—"
食堂の扉が、内側から激しく開いた。
別の給仕が転がり込んできた。顔が紅潮し、息が上がっている。
"Mr. Williams! They're asking who cooked this. Mr. Henderson says— he says this is better than anything he's had since he left Yorkshire!"
ウィリアムズの顔から、血の気が引いた。
続けて飛び込んできた給仕が、空になったグレイヴィーの舟皿を突き出した。
"More of this sauce, sir! They're dipping bread in it. Two more boats! And a boat for the Consul's own table!"
ウィリアムズは俎板と鍋と庄之助を、交互に見た。青い瞳が、信じるよりも先に揺れた。料理長は焼き網を離れ、三歩で庄之助の前に立った。大柄な体が影を落とし、庄之助の頭上の光が遮られた。
"What did you do to the fire?"
「火を、少しだけ、遠ざけました」
"And the sauce?"
庄之助は答えに窮した。味噌、と口にすれば、この時代の英国人料理長にとっては汚辱でしかない。東洋の蛮習で己の皿を穢されたと受け取られても文句は言えぬ。だが嘘を吐けば、次に鍋を舐められた時に破綻する。
「仔牛の出汁を、足しました」
半分は真である。ウィリアムズは鍋の前へ歩み寄り、匙で底を浚って舐めた。舌の上で転がし、奥歯で噛み締めるように息を止めた。その表情が、怒りと困惑の間を、振り子のように行き来した。髭の奥で喉仏が、一度、大きく動いた。
"This is not just veal stock."
「…………」
ウィリアムズは匙を鍋の縁に置き、庄之助にもう一歩近づいた。太い指が、庄之助の作業着の襟を摑んだ。昨日、手首を摑まれた時とは違う握り方だった。今度は、力ではなく問いの手であった。
"Who are you, Shaw? Where did you really learn this?"
青い瞳の奥で、料理長の誇りが揺れていた。ロンドンの厨房を十五で叩き出され、横浜に流れ着いてから十年余り。己の腕で一軒の食堂を守ってきた男が、今、日本人の痩せた若造に皿の頂を奪われた。怒りと、困惑と、そしてもう一つ——抑え切れぬ料理人としての渇望が、そこに混じっていた。
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五十年後の銀座で、と。そう言える術は、ない。
食堂から再び、英国商人たちの歓声が厨房に届いた。「もう一皿!」「肩肉をもう一つ!」「あの料理人を呼べ!」椅子の脚が床を擦る音、杯を打ち鳴らす音、誰かが木卓を拳で叩く音。ウィリアムズの髭が震え、襟を摑む指に力が入った。庄之助の踵がふわりと浮き、足指の先だけが石畳に触れた。
「江戸で——」
"Edoで、何を学んだ"
「……そう、簡単には、言えぬのです」
ウィリアムズの瞳が、暗く沈んだ。
給仕頭が再び催促の声を上げ、マトンの鍋が湯気を噴かせている。料理長は唇を噛み、ゆっくりと庄之助の襟を放した。だが視線は、一度も外さなかった。
"Close time. You stay. You and I, we talk. Every word."
庄之助は頷くことしかできなかった。ウィリアムズは背を返し、俎板の肉を鋏で薄く切り分け始めた。その背中の筋が、問いを抱え込んだまま強張っているのが、布越しに見えた。
庄之助は焼き網の脇に下がり、金挟みの木の取っ手を握り締めた。若い掌に、五十年後の重さが、ずしりと戻ってきた。食堂の向こうで、英国商人たちの笑い声が、煉瓦の壁に反響している。