第2話
第2話
勝手口の敷居を跨いだ瞬間、煙が庄之助の顔を打った。
獣脂と炭火、湯気に混じる麦酒の醸す酸味。厨房は狭くはないが、四人の料理人が立ち回れば、もう他人の入る余地などない。煉瓦造りの竈に掛けられた銅鍋から、ブイヨンの湯気が天井を這い、漆喰の染みに吸い込まれていく。鉄のフライパンで肉が跳ねる音。包丁が俎板を叩く音。皿を重ねる音。どれもこれも、五十年前の耳に焼きついた音であった。
だが、庄之助の目は厨房の中央ではなく、壁際の木箱へと吸い寄せられた。
捨てられた食材の山。牛の筋と脂身、皮を剥かれた馬鈴薯の切れ端、萎びた人参の頭、玉葱の外皮。客の皿に出せぬものばかりだが、庄之助の目にはまだ生きている食材に映った。筋肉は長く煮込めば旨みを吐く。萎びた人参も、細く切って焦がせば甘みが戻る。玉葱の皮は煮出せばブイヨンに金色を呉れる。
腹が再び鳴った。
足音を殺して木箱へ近づき、庄之助は筋肉の塊を一つ、懐に忍ばせようとした——その手首を、太い掌が摑んだ。
"What are you doing, you little rat?"
振り向くと、赤ら顔の英国人が覆いかぶさるように立っていた。髭に脂の飛沫が光っている。料理長ウィリアムズ。その太い指が、庄之助の痩せた手首を骨ごと握り潰すように締め上げていた。
「盗人か」
日本語でそう言ったのではない。ウィリアムズの舌の動きを、庄之助の頭が勝手に翻訳した。若い体に痛みが突き抜け、爪先が浮く。他の料理人たちが手を止め、好奇と嘲りの目を向けた。一人が鉄板の火を落とし、一人が包丁を置いた。見世物が始まる、とその顔が言っていた。誰かが低く笑い、煉瓦の壁に跳ね返った嘲笑が、庄之助の耳の裏で粘ついた。
庄之助は息を整えた。英語を組み立てる余裕はない。だが、この厨房の主を動かすのは言葉ではない。一皿だ。料理人の腕は、料理人の舌でしか測れぬ。それを忘れる料理長は、料理長ではない。
「十五分」
掠れた日本語訛りで絞り出した。
"Fifteen minutes. Let me cook."
ウィリアムズの眉が吊り上がった。鼻の穴が膨らみ、髭の奥で短く息が鳴った。掌の力はまだ緩まぬ。骨が軋み、手首に溜まった血が熱を帯びる。指先が痺れ、感覚が遠のいていく。それでも庄之助は視線を逸らさなかった。料理人が料理人を睨むときの、腹の底の据わった目だ。
"Cook? You?"
東洋の痩せ犬が、厨房に立つだと。その嘲りは顔に書いてあった。だが掌の力が、一瞬だけ緩んだ。庄之助は摑まれた手で、木箱の中を指し示した。
「肉、要らぬ。野菜、要らぬ。これだけで、よい」
牛の筋と脂、人参の頭、玉葱の皮、馬鈴薯の芽。どれ一つ、ウィリアムズの皿に乗る代物ではない。料理長は鼻を鳴らし、壁に掛かった懐中時計を顎で示した。
"Fifteen minutes. If it's not edible, I break every finger."
庄之助は頷いた。指を折られるくらいで済むなら、安い取引である。
俎板を借り、包丁を握った。若い掌に刃の重みが馴染む。握り込んだ柄の木目が、五十年使い込んだ己の出刃と同じ位置に当たる——いや、それは気のせいだ。この包丁は英国鋼で、庄之助の手に触れるのは今日が初めて。だが指は迷わなかった。刃を傾ければ鋼の重心が勝手に転がり、手首ではなく肘から動く癖が、若い体にも染みついていた。若い腱はまだ軽く、刃先が俎板に吸いつく感覚が、五十年前よりも澄んで返ってくる。
牛の筋肉を薄く削ぎ、脂身を別に刻む。人参の頭は皮ごと細切りに。玉葱の外皮は捨てず、桶の水で砂を洗い落として小鍋へ放り込んだ。別の鍋を火に掛け、馬鈴薯の芽を抜いた身を一口大に切って焦がし目がつくまで炒める。鉄板に落とした脂が跳ね、香ばしい煙を上げた。煙の芯に、甘い澱粉の匂いが立った——馬鈴薯の皮が、熱で糖を吐く匂いだ。鼻腔の奥で、幼い頃に母が焼いてくれた里芋の記憶が、束の間よみがえって消えた。
最後に筋肉の薄切り。塩を振り、熱した鉄板で焦げる寸前まで強火で焼きつける。ほんの十数秒。肉汁が中に閉じ込められた手応えが、指先に返ってきた。
厨房の料理人たちの手が、いつの間にか止まっていた。
皿に馬鈴薯と人参を敷き、その上に焼いた筋肉を乗せる。玉葱の皮から取ったブイヨンを鍋に移し、焦げた鉄板の底に落ちた肉汁を木篦で掬い取って溶かし込む。塩と胡椒でととのえ、皿の上にそっと注いだ。湯気が立ち上り、筋肉の下から肉汁が滲み出して、皿の縁に琥珀色の輪を描いた。
ウィリアムズが懐中時計を閉じた。
"Twelve minutes."
赤ら顔の料理長は、自ら匙を取った。
汁を一匙、筋肉を一切れ、口に運ぶ。髭の下の頬が、止まった。何かを言いかけて、言葉を呑む。もう一匙。今度は馬鈴薯と人参を一緒に。咀嚼する顎の動きが、遅くなっていく。青い瞳が、皿の一点を睨んだまま動かなかった。喉仏が一度、ゆっくりと上下した。その沈黙の間、厨房からは竈の薪が爆ぜる音だけが聞こえた。誰の息遣いもが浅く、天井を這う湯気までもが動きを止めたように見えた。
周りの料理人が身を乗り出した。ウィリアムズが無言で皿を差し出すと、二人目が匙を握り、三人目が手を伸ばした。皿の上の料理は、三十秒も保たなかった。
最後に残った汁を、ウィリアムズは指で拭って舐めた。
"Where did you learn this?"
庄之助は目を伏せた。五十年後の銀座で、とは言えぬ。答えに窮する庄之助を、ウィリアムズはじっと見据えた。青い瞳に、怒りでも嘲りでもない光があった。料理人が、料理人を測る目だ。
「江戸」
「名は」
「庄之助」
"Shaw-no-skay." ウィリアムズは口の中で名を転がし、顎を掻いた。
"Shaw と呼ぶ。明日から皿を洗え。週に一弗。賄いは食堂の残り。住む場所は自分で探せ。文句があるか"
一弗。明治七年のこの時代、一弗で三日は飯を食える額である。庄之助は深く頭を下げた。
"No, sir. Thank you, sir."
ウィリアムズは鼻を鳴らし、奥の竈を顎で示した。
"Then scrub those pots. Lunch in twenty minutes."
庄之助は竈の前へ歩いた。銅鍋の山が、腰の高さまで積み上がっている。その脇を通り過ぎようとした時——視界の端に、奥の調理台が入った。
ローストビーフだった。
肩肉の塊が、鉄の焼き網の上で艶を帯びている。表面は焦げ茶色に焼き固まり、脂が滴り落ちて、下の受け皿で小さな音を立てている。ウィリアムズが先刻まで怒鳴りつけていた一皿。庄之助の脚が、自然と止まった。
——焼きすぎている。
一目で分かった。繊維が締まり、肉汁を抱えきれなくなっている。表面を削げば赤く見えるだろうが、中心の瑞々しさはもう失われている。この時代の英国式は、高温で一気に焼き上げる。それが正しい焼き方だと、料理長自身も信じて疑っていない。
庄之助の瞼の裏に、もう一つのローストビーフが像を結んだ。
銀座辰巳軒の厨房で、五十年の修練を経て辿り着いた一皿。低温の窯で三時間。肉の中心が六十度に達するまでじっと待ち、最後の一分だけ強火の鉄板に落として表面を焦がす。切り分ければ、断面は薔薇色に輝き、肉汁は血ではなく透き通った香水となって皿に溢れる。グレイヴィーには仔牛の骨から引いた澄ましに、赤葡萄酒と、味噌をほんの匙一杯——日本人の舌を呼び戻す隠し味。あの一皿を運ばれた客が、最初の一口で目を閉じた表情を、庄之助は今も覚えている。客の瞼の震えと、匙を置くのを忘れた指先の、あの静かな降伏の形を。
五十年後。この焼き網の上の肉が辿り着く、完成形。
庄之助は、唾を呑み込んだ。
"Shaw! Pots!"
ウィリアムズの怒声が背中を叩いた。庄之助は慌てて頭を下げ、銅鍋の山に向き直った。腕まくりをし、水を張った桶に手を浸す。冷たい井戸水が、肘まで痺れるように染みた。
銅の縁に映った己の顔は、やはり若かった。頬骨の張った、二十歳かそこらの日本人の若者。だが、その目の奥に宿っているのは、五十三年分の火と油と包丁の記憶である。
砂糖と塩を混ぜたものを掌に取り、鍋の内側の焦げを擦り始めた。銅は優しく扱わねば傷む。五十年後の料理人なら誰もが知る、当たり前の手際だ。
厨房の向こうで、正午を告げる鐘が遠く鳴った。肉を焼く煙の向こう、焼き網の上のローストビーフが、庄之助を呼んでいた。