第2話
第2話
風が、止まった。
正確には、僕が振り下ろした木刀が生んだ風が——背後に向かって流れていった。髪を梳くような五月の風じゃない。木刀の軌道が空気を引き裂いて押し出した、鋭い一陣。フェンスの金網をびりびり震わせた、あの風圧がそのまま背後の何者かに届いたのだ。
数秒の沈黙。
振り返りたくない。振り返ったら終わる。この場所が僕だけのものじゃなくなる。一年以上守ってきた「誰にも見られない」という前提が崩れる。
でも身体は固まったまま、呼吸だけが荒い。素振りのあとの息切れがこんなに情けなく聞こえたのは初めてだった。
「——すごい」
声が聞こえた。
低くもなく、高くもなく。驚きを噛み殺したような、それでいて確信に満ちた声。女子の声だった。
僕はゆっくり振り返った。
夕陽を背にして、一人の女子が立っていた。屋上の扉を片手で押さえたまま、もう片方の手で風に煽られた髪を押さえている。スカートの裾がまだわずかに揺れていた。さっきの風圧の名残だ。
逆光で表情は見えない。でもシルエットだけで分かった。背が高い。姿勢がいい。そして——こちらを見る目が、怯えていない。
普通なら驚くはずだ。放課後の屋上で、汗だくの男が木刀を振り回している。通報案件だ。少なくとも、悲鳴を上げるか、すぐに扉を閉めて逃げるか。どちらかが自然な反応だろう。
彼女はどちらもしなかった。
一歩、こちらに近づいた。夕陽の角度が変わって、顔が見えた。
——白河凛。
二年一組。学年で知らない人間はいない。成績は常に上位、容姿端麗、運動もできる。いわゆる「完璧な女子」として、学年中の注目を集めている。廊下ですれ違えば男子が振り返り、女子が背筋を正す。そういう存在だ。
僕とは対極にいる人間。
「ごめんなさい、屋上が開いてるって聞いて。ちょっと風に当たりたくて」
凛はそう言いながらも、視線は僕の手にある木刀に固定されていた。目が動かない。呼吸を探るように、僕の握り方を、構えを、足の位置を見ている。
普通の人間の目じゃない。
何かを「鑑定」するような目だ。僕はその視線に覚えがあった。道場で、師範が門下生の素振りを見るときの目。試合の審判が、一本の有効打を見極めるときの目。剣を知っている人間にしかできない、あの観察の仕方。
嫌な汗が背中を伝った。さっきまでの運動の汗とは違う、冷たい汗。
「素振り……してたんだ」
「——別に。ただの運動」
声が硬い。自分でも分かるくらいに不自然だ。木刀を身体の横に下ろして、できるだけ何でもない顔を作る。ただ運動していただけ。趣味で木刀を振っているだけ。そういうことにしなければならない。
「ただの運動には見えなかったけど」
凛がまた一歩近づいた。三メートルくらいの距離。逃げるには近すぎる。彼女の瞳が夕陽を反射してオレンジ色に光っていた。
「握り方。左手が柄頭ぎりぎりで、右手は添えてるだけ。打突のとき手首を返すタイミングが完璧だった。あと——」
彼女は一瞬言葉を切って、風に乱れた髪を耳にかけた。
「振り下ろしの最後で、ちゃんと絞ってる。手の内が利いてるから、あんな風圧が出るんでしょ。初心者がどれだけ力任せに振っても、ああはならない」
心臓が痛いくらいに脈打っている。なぜ。なぜこの子がそこまで分かる。
「うちの兄が剣道やってて」
凛はこちらの動揺を見透かしたように、あっさりと理由を明かした。
「白河翔。実業団の——知らないか。まあ、マイナー競技だし」
知っている。知らないわけがない。白河翔。大学剣道界のスター選手で、卒業後はそのまま実業団に進んだ。全日本選手権のベスト8にも入っている。中学時代、僕が穴が開くほど見た剣道雑誌に、何度も名前が載っていた。
「兄の練習を小さい頃からずっと見てたから、剣道を見る目だけは肥えてるの。自分ではやらないんだけどね」
凛は少し笑った。自嘲ではない。事実をただ述べているだけの、淡々とした笑い方。
「だから分かる。あなたの剣は——」
「やめてくれ」
自分でも驚くくらい鋭い声が出た。凛の笑顔が消える。夕陽が雲に隠れて、屋上が少しだけ翳った。
「ただの素振りだから。運動不足の解消。それだけだ」
木刀をビニール袋に突っ込もうとする手が震えていた。早くしまわないと。早くここから離れないと。一年間守ってきたものが、今この瞬間に崩れようとしている。
「あなた、全国レベルでしょ」
足が止まった。
呼吸が止まった。
世界が止まった——ような気がした。実際には、五月の風が相変わらず吹いていて、校庭のどこかでボールが弾む音がして、遠くの踏切が鳴っている。何も止まっていない。止まったのは僕だけだ。
凛は断定の口調だった。疑問じゃない。確認でもない。見たものから導いた結論を、ただ口にしただけ。
「違う」
「嘘。兄の素振りと同じ音がした。あの風圧は、何千回、何万回って振り込んだ人にしか出せない。あなた——」
「違うって言ってるだろ」
声を荒らげた。反響が給水タンクに跳ね返って、自分の声がやけに大きく聞こえた。凛が半歩だけ後ずさった。でも——目は逸らさなかった。
怖くないのか。見知らぬ男が怒鳴っている。木刀を持っている。逃げるのが普通だろう。
なのに凛は、むしろ僕の怒り方そのものを観察するように見ていた。否定の強さが肯定の証拠になることを、この子は分かっている。
「……ごめん。怒鳴って」
沈黙に耐えられなくなって、僕のほうが先に折れた。木刀をビニール袋に入れて、口を縛る。手がまだ少し震えていたけれど、気づかれていないといい。
「いいよ。びっくりしたけど」
凛は小さく首を傾げた。
「聞かれたくなかったんだね」
その一言が、正確すぎて苦しかった。聞かれたくなかった。その通りだ。全国レベルかどうかなんて、そんなことを掘り返されたら——あの夏に繋がってしまう。決勝の記憶。竹刀を握る手の汗。面金越しの、あの目。
「私、屋上のこと誰にも言わないから」
凛がそう言って、少し離れた場所に腰を下ろした。フェンス際の、夕陽が当たるコンクリートの上。スカートの裾を押さえて、膝を揃えて。まるで前からそこが自分の場所だったみたいに。
「……何してるんだ」
「風に当たりに来たって言ったでしょ。あなたのことは気にしないから。どうぞ続けて」
続けられるわけがない。見られている状態で素振りなんかできない。ましてや相手は白河翔の妹で、「手の内」がどうとか言い出す人間だ。一振りごとに採点されているようなものじゃないか。
僕は鞄を掴んで、屋上の扉に向かった。
「逃げるんだ」
背中に、声が刺さった。
足が止まる。逃げる。その言葉に反応してしまう自分が嫌だった。二年前にも逃げた。あの決勝のあと、全部から逃げた。竹刀を置いて、道場から離れて、誰にも知られない学校を選んで。逃げて逃げて逃げ続けて——屋上で木刀を振るだけの人間になった。
「逃げてない。帰るだけだ」
振り返らずにそう言った。声は思ったより平坦に出せたと思う。
「そっか」
凛の声には責める色がなかった。ただ静かに、事実を受け止めたような響き。
「また来るね、ここ。風が気持ちいいから」
僕は何も答えずに、扉を開けて屋上を出た。階段を降りる足音が、コンクリートの壁に反響する。心臓がまだうるさい。手のひらが汗で濡れている。
また来る、と彼女は言った。
つまり明日も、明後日も、あの場所は僕だけのものじゃなくなる。一年かけて作った「誰にも見られない場所」が——たった五分で壊れた。
校舎を出ると、空はもう藍色に変わり始めていた。五月の夜風が汗に冷たい。
木刀を入れたビニール袋を握り直す。手の中に、まだ樫の木肌の感触が残っている。
——あなた、全国レベルでしょ。
あの声が、頭の中で何度も反響する。振り払えない。
全国レベル。その言葉が指しているものの正体を、白河凛はまだ知らない。全国大会に出たということは、全国で負けたということでもある。全力で挑んで、届かなかった人間がいるということでもある。
僕は歩きながら、無意識に右手を握って開いた。竹刀の感触を探すように。もう二年近く握っていないはずの竹刀の感触を、手のひらが忘れていなかった。
明日の放課後。あの屋上の扉を開けたとき、彼女がそこにいたら——僕はどうするんだろう。
答えは出ないまま、五月の夜に溶けていく帰り道を、僕は一人で歩いた。