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屋上の剣、ひとりきりの素振り

第1話 第1話

第1話

第1話

木刀が空を裂いた音は、誰にも届かない。

放課後の屋上。五月の風がコンクリートの上を滑り、錆びたフェンスの隙間から校庭の歓声がかすかに聞こえてくる。野球部の掛け声、吹奏楽部のチューニング、帰宅する誰かの笑い声。そのどれもが、ここには届かない。

僕は息を整えて、もう一度構えた。

右足を半歩引き、左手の小指に力を込める。木刀の重みが掌の中で馴染んで、腕の延長みたいになる瞬間がある。その感覚が来るまで、微動だにしない。三秒、五秒——来た。指先から肩甲骨の裏まで、一本の線が通る感覚。呼吸が自然に深くなって、視界から余計なものが消える。フェンスも、給水タンクも、夕焼け空も。残るのは木刀の延長線上にある一点だけだ。

振り下ろす。

風が鳴った。木刀の先端が描いた軌道の残像が、夕陽に一瞬だけ光って消える。給水タンクの影が長く伸びて、僕の足元まで届いていた。もう六時前か。

桐谷蓮。それが僕の名前だ。

二年三組、出席番号十二番。窓際の後ろから二番目。テストの順位は学年の真ん中よりちょっと上。委員会は図書委員。部活は無所属。休み時間は大体本を読んでいるか寝ている。担任の山岸先生でさえ、三者面談のとき僕の名前を一瞬ど忘れした。

——それでいい。

誰の記憶にも残らない。誰にも期待されない。誰も裏切らなくて済む。僕が二年かけて作り上げた、完璧な居場所のなさ。それが僕の「平穏」だった。

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今日の六時間目は古典だった。

教室の窓から差し込む西日が、チョーク粉をきらきら浮かび上がらせている。教壇に立つ古典教師の声は低く平坦で、教室全体をぬるい眠気が覆っていた。

「桐谷、ここ読んでくれ」

教師に当てられて立ち上がる。椅子の脚がリノリウムの床をこする音が、静まった教室にやけに響いた。教科書の該当箇所を、抑揚のない声で読み上げた。間違えもしないし、上手くもない。誰も振り返らない。着席する僕の気配すら、教室の空気に溶けて消えた。

隣の席の女子——名前は確か高橋さん——がこっちを見もせずにノートを取っている。前の席の男子は窓の外を眺めてぼんやりしている。僕の存在は、教室の壁と同じだ。あって当然、意識されない。

チャイムが鳴って、教室がざわつく。

「蓮、帰んの?」

声をかけてきたのは、数少ない友人の一人、田中だ。中学からの腐れ縁で、別に仲がいいわけでもないけれど、なんとなく一緒にいる。そういう距離感が楽だった。

「ん、ちょっと寄るとこある」

「またかよ。お前放課後いっつもどっか消えるよな」

田中が呆れたように笑う。その笑い方にも、追及するつもりのなさが透けて見える。こいつは昔からそうだ。人の領域に踏み込まない代わりに、踏み込まれることも許さない。だから一緒にいて楽なのだ。

「図書室」

嘘だ。図書室の開館時間は五時までで、僕が屋上にいるのは六時過ぎまで。でも田中はそれ以上聞かない。聞かないから楽なのだ。

「おー。じゃあな」

田中が手を振って去っていく。教室に残った数人も、それぞれの放課後に散っていく。僕は鞄から木刀を——入るわけがないから、部室棟の裏に隠してある木刀を取りに行く。

体育館の横を通り過ぎるとき、剣道場から竹刀の音が聞こえた。

足が、一瞬だけ止まる。

パン、パン、と乾いた打突音。面を打つ音、籠手を打つ音。防具越しにくぐもった掛け声。知っている。全部知っている。あの音の一つひとつが何を意味しているか、身体が覚えている。小手面の二段打ち。引き面のあとの残心。足さばきの摺り足が板の間を鳴らす、あの独特の擦過音。耳が勝手に拾ってしまう。つま先が、ほんの少しだけ剣道場のほうを向いていた。

剣道場の戸口から、藍色の防具と汗の匂いが漏れてきた。あの匂いを嗅ぐだけで、胸の奥の何かがざわつく。握りしめた手のひらに、竹刀の柄皮の感触が甦った。使い込んだ革の凹凸、汗で滑らないように巻いた手拭いの繊維。脳が覚えているのではない。掌の皮膚そのものが覚えている。

——関係ない。

僕は足を速めて、その音から逃げるように部室棟の裏に回った。コンクリートブロックの隙間に突っ込んであるビニール袋から木刀を取り出す。少し汚れていたから、制服の袖で拭った。樫の木肌が夕方の湿気を吸って、わずかに冷たかった。

屋上への階段は、三階の非常口から続いている。鍵は壊れたままで、誰も直さない。そもそも屋上に用がある人間がいない。ここは僕だけの場所だ。

重い鉄の扉を押し開けると、五月の風が正面からぶつかってきた。

校舎の屋上は思ったより広い。フェンスに囲まれた四角いコンクリートの空間に、給水タンクと室外機がいくつか並んでいるだけ。殺風景で、無機質で、誰の視線もない。

僕は鞄を室外機の横に置いて、木刀を手に取った。

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素振りを始めたのは、高校に入ってすぐだった。

剣道部には入らなかった。入るつもりもなかった。ただ、身体が覚えているものを完全に捨てることはできなかった。それだけの話だ。

正面素振り、五十本。左右面素振り、三十本。跳躍素振り、三十本。

数を数えながら、頭を空っぽにする。振り上げて、振り下ろす。それだけのことを繰り返す。腕が痛くなって、呼吸が上がって、汗が額から顎に伝って落ちる。Tシャツの背中が肌に張りつく。

だけど身体は勝手に動く。

中学三年間、毎日二百本以上振り続けた腕は、一年のブランクくらいでは鈍らない。軌道は正確で、打突点は常に同じ位置を通過する。木刀の先端が空気を叩く音が、一定のリズムで屋上に響く。

もし誰かがこの素振りを見たら、気づくだろう。これは素人の動きじゃない。趣味で振っている人間の剣じゃない。

でも、誰も見ていない。だから問題ない。

五十八、五十九、六十——。

切り返しの最後の一本を振り抜いたとき、木刀が唸った。文字通り、唸ったのだ。空気が木刀の軌道に引きずられて渦を巻き、小さな風が生まれてフェンスの金網を揺らした。

我ながら、いい一振りだったと思う。

一年前の僕なら、こんなところで満足しなかった。この一振りをどうやって試合で活かすか、どうすれば相手の防御を崩せるか。そこまで考えて初めて練習だった。

今は違う。振ること自体が目的だ。誰かに勝つためじゃない。誰かに見せるためでもない。ただ、こうしていないと自分が自分でなくなる気がするから。

日が傾いて、屋上全体が橙色に染まっていく。校庭の声がだんだん遠くなる。部活が終わる時間だ。校舎の中も静かになって、屋上はますます世界から切り離されていく。

ここにいるとき、僕は透明じゃない。

教室にいるときの僕は壁だ。誰にも見えない、見る必要もない存在。でも木刀を握っているとき、僕には輪郭がある。夕陽に映る影がちゃんと僕の形をしていて、風を切る音がちゃんと僕の剣を証明している。

——それで十分だ。十分なはずだ。

ふと、中学最後の夏を思い出しかける。全国大会、決勝。あの日差し。あの歓声。竹刀を握る手の汗。面越しに見えた相手の目——。

やめろ。

僕は首を振って、構え直した。もう一本。余計なことを考えるな。もう一本。あの日のことは終わったことだ。もう一本。もう一本。もう——

木刀を振り下ろすたびに、記憶が振り落とされる。面金の向こうの相手の瞳。旗が上がった瞬間の静寂。会場じゅうの視線が僕の背中に刺さる、あの感覚。振り上げて、叩き落とす。振り上げて、叩き落とす。汗なのか涙なのか分からないものが顎から落ちたあの日と同じ動作を、僕は夕陽の中でただ繰り返す。腕が痺れてきた。握力が限界に近い。それでも止められない。止めたら、思い出が追いつく。

もう一本。もう——

カシャン。

背後で、金属が軋む音がした。

屋上の扉が——開く音だ。

木刀を振り下ろした姿勢のまま、僕は固まった。心臓が跳ねる。汗で濡れたTシャツの冷たさが、急に意識に上がってくる。誰だ。この時間に屋上に来る人間なんていない。一年以上、一度もいなかった。

扉の蝶番がゆっくり鳴る。誰かが、一歩踏み出す気配。コンクリートの上を、僕のものではない靴底が踏む音。軽い。小さい。

風が変わった。夕陽の匂いに混じって、かすかに——花の香りがした。

僕は振り返れなかった。

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