第3話
第3話
翌日の放課後、僕は屋上の扉の前で立ち止まった。
いつもなら迷わない。鞄を置いて、木刀を取り出して、素振りを始める。それだけのルーティン。一年以上、一度も変わらなかった手順。なのに今日は、錆びた扉のノブに手をかけたまま動けなかった。
また来るね、と彼女は言った。
耳の奥で、あの声がまだ残っている。風が気持ちいいから。そんな嘘みたいな理由で。本当に来るのか。来ないかもしれない。昨日の出来事は彼女にとってはちょっとした寄り道で、木刀を振っている変な男のことなんて一晩寝たら忘れているかもしれない。
——そうであってくれ。
意を決して扉を開けた。五月の風がぶつかってくる。給水タンクの影、室外機、フェンスの金網。全部昨日と同じだ。そして——誰もいない。屋上は空っぽだった。
息を吐いた。安堵だ。間違いなく安堵。胸の奥がほんの少しだけ別の何かを感じたような気がしたけれど、それは気のせいだ。
木刀を取り出して、構える。正面素振り、一本目。空気を裂く音。二本目、三本目。リズムが戻ってくる。昨日の動揺が嘘みたいに、身体が勝手に動く。やっぱりここは僕だけの場所だ。誰にも邪魔されない、僕の——
カシャン。
同じ音。昨日と同じ、扉の蝶番が軋む音。
「やっぱりいた」
振り返ると、白河凛がペットボトルを二本持って立っていた。制服のリボンが風に揺れている。息が少し上がっていた。階段を駆け上がってきたのか。
「……なんで来るんだ」
「昨日、また来るって言ったでしょ」
当たり前のように言う。僕の問いが不思議だとでも言いたげな顔だ。凛はずかずかと屋上に入ってきて、昨日と同じフェンス際に腰を下ろした。ペットボトルの片方を、こちらに差し出す。
「はい、お茶。素振りのあと喉乾くでしょ」
「いらない」
「そう。じゃあここに置いとくね」
コンクリートの上にペットボトルが置かれる。結露した水滴が夕陽にきらきら光って、それがやけに目についた。
僕は木刀をビニール袋にしまった。見られている状態では振れない。昨日と同じだ。凛がいる限り、ここはもう僕の場所じゃない。
「帰る」
「あ、待って」
鞄を掴んで歩き出した背中に、凛の声が追いかけてくる。
「剣道部に入らない?」
足が止まった。
「うちの学校の剣道部、今三人しかいないの。団体戦に出るには最低五人必要で、秋までにあと二人集まらなかったら廃部になる。それで——」
「興味ない」
遮った。振り返らない。
「でも」
「興味ないって言った」
今度は声を荒らげなかった。できるだけ平坦に、感情を消して。昨日怒鳴ったのは失敗だった。否定の強さが肯定の証拠になると、彼女は知っている。だから今日は、何も感じていない人間のふりをする。
「——分かった。今日は」
凛はそう言って、また黙ってフェンス際に座った。スマホを取り出して、何かを読み始める。帰る気配はない。
僕は扉を開けて、屋上を出た。
---
三日目。
扉を開けたら、もういた。
「今日は先に来ちゃった」
凛はフェンスに背中を預けて、ノートを広げていた。勉強でもしているらしい。僕が来ることを分かっていて、先に場所を取っている。
「……ここ、僕の場所なんだけど」
「屋上は学校の共有スペースだよ」
正論だった。反論できない。僕は黙って木刀を取り出し——出しかけて、やめた。見られている。
「気にしないで振っていいよ。私、見ないから」
「見てるだろ、今」
「これから見ないの。ほら」
凛はわざとらしくノートに目を落とした。横顔しか見えない。睫毛が長い。——そんなことはどうでもいい。
四日目は雨で、凛は来なかった。僕も屋上には行かなかった。雨の日は教室の窓から空を見上げるだけだ。灰色の雲が低く垂れ込めて、屋上の扉は重たく閉じている。
五日目。雨上がりの屋上は水たまりだらけだった。コンクリートが濡れていて、足元が滑る。今日は来ないだろう。こんな状態で座れる場所もない。
扉が開いた。
凛がタオルを持って現れた。フェンス際のコンクリートを丁寧に拭いて、腰を下ろす。手慣れている。
「毎日来る気か」
「毎日風に当たりたいから」
「嘘つけ。剣道部の勧誘だろ」
凛がようやく顔を上げた。少しだけ困ったように笑う。
「……半分はそう。ごめん」
意外だった。もっとしらばっくれると思っていた。
「半分は?」
聞いてしまってから後悔した。聞くべきじゃなかった。会話が続くと、距離が縮まる。距離が縮まると、断りにくくなる。そんなことは分かっている。分かっていて聞いた。
凛はノートを閉じて、膝の上に置いた。夕陽が彼女の横顔をオレンジ色に染めている。
「半分は、もったいないと思ったの」
「もったいない?」
「あの剣を、誰にも見せないのが」
胸の奥が痛んだ。
「見せるためにやってるんじゃない」
「分かってる。でも——」
凛が僕を見た。目が真っ直ぐだった。同情でも好奇心でもない。何か別のもの。
「三人いるの。剣道部に。二年生の神崎くんと、一年生の楠木くん。あと部長の三島先輩は引退したから、実質二人。二人とも毎日練習してる。勝てないって分かってても、大会に出たいって。でも人数が足りなくて、団体戦にエントリーすらできない」
知らなかった。うちの学校に剣道部があることは知っていた。部室棟の横を通るとき竹刀の音が聞こえていたから。でもたった三人だとは知らなかった。いや——知ろうとしなかった。
「それは気の毒だと思うけど、僕には関係ない」
「関係ないよね。分かってる」
凛は頷いた。あっさりしていた。
「でも、楠木くんは毎日転んでるの。出小手を打とうとして体勢を崩して、何回も転んで、膝にあざだらけになって。それでも毎日来る。神崎くんは才能あるんだけど粗くて、試合になると焦って自滅する。でも毎日振ってる。二人とも、誰にも見てもらえない剣を、毎日振ってる」
風が吹いた。五月の風が凛の髪を揺らして、ノートのページをめくった。
「あなたと同じだよ。ここで誰にも見せずに剣を振ってるあなたと」
「同じじゃない」
即答した。同じなわけがない。僕は全国大会の決勝で負けた人間だ。本気を出して、全力で挑んで、それでも届かなかった。あの絶望を知っている。あの痛みを知っている。屋上で木刀を振るのは——逃げているだけだ。あの二人とは違う。
「同じじゃない。僕は——」
言いかけて、口を閉じた。これ以上は言えない。言ったら全部繋がってしまう。中学の全国大会、決勝、あの日。
凛は何も言わなかった。追及もしなかった。ただ黙って、僕の沈黙を受け止めていた。
六日目。七日目。
凛は来た。毎日来た。お茶を持ってきて、フェンス際に座って、勉強したり本を読んだりしている。剣道部の話はもうしなかった。ただそこにいるだけ。僕も素振りを再開した。見られていることに——少しだけ慣れた自分がいた。慣れたくなかったのに。
八日目の放課後。
教室を出ようとしたとき、廊下の窓から武道場が見えた。なんとなく足が止まった。
ガラス越しに、二つの影が動いていた。一人は大柄で、振りが速いけれど軌道がばらばらだ。もう一人は小柄で、構えは丁寧だけど腰が引けている。
二人だけの剣道部。竹刀の音が廊下まで聞こえてくる。
小柄なほう——おそらく楠木——が面を打とうとして、踏み込みが浅くて空振りした。体勢を崩して、板の間に膝をついた。大柄なほうが竹刀を下ろして待つ。楠木が立ち上がって、また構える。また打つ。また崩れる。
三回目に転んだとき、楠木は少し長く膝をついていた。肩で息をしていた。防具の面越しでも、きつそうなのが分かった。
でも——立ち上がった。四回目の構え。竹刀の先端が震えていたけれど、それでも前を向いて。
僕は窓から目を離して、屋上に向かった。
扉を開けると、凛がいた。いつものフェンス際。今日はノートではなく、スマホで何かの動画を見ている。イヤホンはしていない。画面から、聞き覚えのある音が漏れていた。竹刀の打突音。
「——それ」
「あ、兄の試合の動画。見る?」
「見ない」
僕はビニール袋から木刀を取り出した。凛がこちらを見る。
「今日、武道場の前を通った」
凛の手が止まった。
「楠木ってやつ。三回転んで四回立った」
凛は何も言わなかった。でもスマホの画面が消えて、真っ暗になった液晶に、夕陽が反射している。
「——僕が入ったところで、変わらないと思う」
自分でも何を言っているのか分からなかった。断っているのか。迷っているのか。
凛がゆっくり立ち上がった。スカートについた埃を払って、僕のほうを向いた。
夕陽が彼女の顔を正面から照らしていた。いつもの穏やかな表情じゃなかった。唇が一文字に結ばれていて、眉がわずかに寄っている。
真剣な顔だった。
「変わるよ」
凛の声が低かった。風に負けない、はっきりとした声。
「あなたが来たら、変わる。あの二人は、本気の剣を知らない。本物を見たことがない。あなたの一振りで——全部変わる」
心臓が跳ねた。木刀を握る手に力が入る。指の関節が白くなるほど強く。
凛の目が揺れない。兄の剣を見てきた目。本物を知っている目。その目が、僕を見ている。僕の剣を、本物だと言っている。
「……考えさせてくれ」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
断るつもりだった。今日も明日も明後日も、断り続けるつもりだった。なのに「考える」と言ってしまった。
凛の表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。目を見開いて、それからすぐにいつもの穏やかな顔に戻った。でも——唇の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
「うん。待ってる」
それだけ言って、凛はフェンス際に戻った。何事もなかったみたいにスマホを取り出して、動画の続きを見始める。
僕は木刀を構えた。素振りを始める。一本、二本、三本。いつもと同じ動作のはずなのに、木刀が妙に軽い。重心が違うわけじゃない。振り方が変わったわけでもない。
ただ——胸の奥で、何かが動いた気がした。
三回転んで四回立った、あの小さな影。廊下の窓ガラス越しに見た、震える竹刀の切っ先。
素振りの合間に、自分の右手を見た。竹刀の柄皮の感触がまた甦っている。掌の皮膚が覚えている記憶。振り払えない、捨てきれない記憶。
もしかしたら——僕は、逃げ切れないのかもしれない。