第2話
第2話「銀色の朝と、飛べない翼」
# 第2話「銀色の朝と、飛べない翼」
---
朝陽が、まぶたの裏を金色に染めた。
わたしは寝返りを打とうとして——背中の異物に、はっと目を開けた。
翼だ。
昨夜の記憶が、一気に蘇る。バルコニー、エリオット様の手、桃色の雲海。わたしの背中に生えた、銀色の翼。夢ではなかった。寝台の上で、絹のシーツを押しのけるように、二枚の翼が不格好に広がっていた。朝陽に透けて、羽根の一枚一枚が、薄い銀色の光を落としている。
「……本物だ」
指先で触れると、自分の肌と地続きの、温かい感触があった。肩甲骨の下あたりから、筋が通っているのが分かる。ただ、自分の腕のように自在には動かせない。力を込めると、翼はぴくりと震えるだけで、広げたいのか畳みたいのかすら、伝わっていないようだった。
起き上がろうとした。翼が寝台の天蓋に引っかかった。布がびりっと裂ける嫌な音がして、わたしは慌てて身を縮めた。
「あ、ああ……っ」
翼を畳もうとしたが、今度は反対側が化粧台にぶつかり、香水瓶が一つ、床に落ちて割れた。甘ったるい花の匂いが部屋に広がる。雲の上の花から蒸留した、空の国特有の重い甘さ。地上の花とは違う、少し頭が痺れるような香り。
扉が開いた。
「セリア様! 大丈夫ですか!」
駆け込んできたのは、年若い侍女だった。明るい茶色の髪に、丸い琥珀色の瞳。小柄な背中には——とても小さな、ほとんど飾りのような翼がある。
「あ、あの、わたし、翼がその——」
「動かないでくださいっ。わたし、こういうの慣れてますから」
侍女はてきぱきとわたしの傍に来て、翼の付け根のあたりをそっと押さえた。その指は温かくて、力の加減が柔らかい。不思議なことに、それだけで翼が少し落ち着いた。張り詰めていた筋が緩むような感覚。まるで背中を撫でられた子猫のようで、少し気恥ずかしかった。
「リーナです。今日からセリア様付きの侍女を仰せつかりました。あの、翼の扱い、最初はみんな苦労するんです。わたしの翼は小さいですけど、子どもの頃に練習したので、お手伝いできると思います」
「リーナ。ありがとう、本当に助かった」
「いえっ、香水瓶の方が心配で——あ、大丈夫です、掃除しますね」
リーナはしゃがみこんで破片を拾いながら、ちらちらとわたしの翼を見ていた。その目に浮かんでいるのは好奇心と、もう一つ別の光——眩しいものを見たときに少しだけ翳る、そんな複雑な色だった。
「セリア様の翼、とても綺麗ですね。殿下と同じ色」
その言葉に、わたしの翼が、ふわりと少しだけ広がった。嬉しいという気持ちが、勝手に翼に伝わったらしい。制御できないのは困るけれど——嬉しいときに広がるのは、悪くないかもしれない。
朝陽が窓から差し込んで、散らばった羽根の欠片が、床の上で小さく光っていた。割れた香水の匂いと、朝の冷たい空気が混じって、不思議と清々しい気分になった。
◇
「翼は、筋肉じゃない。意志で動かすものだ」
回廊の先にある中庭のテラスで、エリオット様はそう言った。朝露に濡れた浮遊庭園の花が、甘く清涼な匂いを漂わせている。この国の花は、地上のものとは匂いの質が違う。空気が薄い分、香りがまっすぐ鼻に届く。
朝の光がエリオット様の銀色がかった金髪を照らし、肩の上に淡い影を落としている。昨夜の夕陽の下とはまた違う、穏やかな顔をしていた。けれど、目の下に薄い隈があった。昨夜、眠れなかったのだろうか。
「筋肉じゃなくて、意志」
「うん。腕を上げるように力むと、翼は固まる。『飛びたい』と思えば広がるし、『静かにしていたい』と思えば畳まれる。感情の延長のようなものだ」
わたしは目を閉じて、飛びたい、と思った。翼が、ぶるりと震えた。少しだけ持ち上がったが、すぐにだらんと垂れた。
背中に朝風が当たった。テラスの石畳は朝露で少し滑り、素足で立っていたらひやりと冷たかっただろう。空の国のスリッパは底が薄くて、地面の温度がよく伝わる。
「……殿下、わたし、鍛えすぎたのかもしれません。崖を駆けていた体は、力で動かすことしか知らないみたいです」
「なるほど。力を抜くのが苦手なわけだ」
エリオット様は少し笑って、わたしの後ろに回った。翼の付け根に、そっと手を添えられる。昨夜、契約を発動させたときと同じ位置。背中に温もりが広がって、翼がふわりと反応した。手のひらの熱が、肩甲骨の奥まで沁みていくような感覚だった。
「今、何を感じた?」
「……あたたかい、です」
「それだ。その感覚を覚えておいて。翼は、温かい気持ちのときに、一番素直に動く」
エリオット様が手を離すと、翼は少し名残惜しそうにふるえて、ゆっくり畳まれた。手のひらの形が背中に残っているようで、その余韻がなかなか消えなかった。
わたしは何度か練習した。飛びたい、と念じるのではなく、風が気持ちいい、空が好きだ、と感じることに集中する。すると、翼が少しずつ、わたしの気持ちに応えてくれるようになった。まだぎこちない。広げるつもりが片方だけ半開きになったり、畳んだはずが先端だけぴくぴく震えたりする。けれど、朝の部屋で家具を壊していた頃よりは、ずっとましだった。
「上達が早い。さすが、崖を駆けた娘だ」
「褒めても何も出ませんよ、殿下」
「褒めているんじゃない。事実を言っている」
その言い方が昨夜と同じで、わたしは思わず笑ってしまった。この人は、大切なことをさらりと言うのが本当に上手い。照れる暇を与えない。
中庭のテラスには、朝の散歩をしている貴族の姿がちらほら見えた。わたしたちに気づくと、遠巻きに立ち止まり、何かを囁き合っている。「双翼の契約」「百年ぶり」「あの異国の娘に」——風に乗って、断片的に聞こえてくる。絹の衣擦れの音と、低い声。含み笑いのような、くぐもった笑い。
エリオット様の表情が、わずかに曇った。口元は平静を保っているのに、翼がわずかに硬くなるのが見えた。感情が翼に出るのは、わたしだけではないらしい。
「宮廷は、もう知っている。昨夜のうちに噂が回ったらしい」
「殿下が気にされることはありません。わたしの翼は、嘘をついていませんから」
わたしがそう言い切ると、エリオット様は少し驚いたように目を開き、それから、静かに頷いた。
その時だった。
「失礼いたします、殿下」
一人の男が近づいてきた。灰色の長衣に羽根ペンを胸に挿した、宮廷書記官と思しき初老の男性。翼は中程度の大きさで、几帳面に畳まれている。顔にはこの国の高地に住む者特有の深い皺が刻まれ、薄い唇がきっちりと閉じられていた。
「双翼の契約の発動、枢密院に報告の書類を整えております。つきましては、妃殿下にもいくつか確認事項が——」
「書類の件は明日でいい。今日は飛行の練習中だ」
エリオット様が穏やかだが明確に遮った。書記官は一礼して下がりかけたが、ふと立ち止まった。
「一つだけ、お伝えしておきたいことがございます」
書記官の声は淡々としていた。けれど、その目の奥に、どこか憐れむような光があった。老いた目に浮かぶ、年若い者への同情。あるいは、過去の記憶を呼び起こされた者の痛み。
「百年前の契約者は、翼と引き換えに何を失ったのか——ご存じですか」
わたしの翼が、ぴくりと縮んだ。
エリオット様の顔から、表情が消えた。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、その空色の瞳に、暗い影がよぎった。朝の光の中で、その影は余計に鮮明に見えた。
「……下がれ」
エリオット様の声が、初めて、冷たかった。鋼のように硬く、短かった。
書記官は深く一礼して去っていった。灰色の長衣の裾が石畳を擦る乾いた音だけが残り、それもすぐに風に消えた。
わたしはエリオット様の横顔を見つめた。唇が、微かに、震えていた。朝陽に照らされた横顔に、今は穏やかさの欠片もなかった。
「殿下。今の方は——」
「気にしなくていい。古い話だ」
エリオット様は笑った。けれど、その笑顔は、昨夜の夕陽の下で見せてくれたものとは、どこか違っていた。端が引き攣っていて、目元に力がこもっている。作った笑顔だと、分かってしまった。
風が中庭を吹き抜けた。浮遊庭園の花びらが舞い上がり、二人の間をすり抜けていった。白と薄紫の花びらが、朝の光の中できらきらと回転しながら落ちていく。わたしの背中で、銀色の翼が、不安そうに小さく震えていた。
百年前の契約者は、何を失ったのか。
その問いが、朝の光の中で、小さな棘のように、胸に刺さったまま抜けなかった。