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翼なき妃と双翼の契約

第1話 背中に羽が生えた夜、わたしは彼と空を駆けた

第1話

背中に羽が生えた夜、わたしは彼と空を駆けた

「翼のない妃、だそうね」

雲梯の広間の片隅で、そう囁く声がした。わたしは聞こえないふりをして、顔だけは、まっすぐ前に向けた。

「ねえ。翼がない娘が、空の国で、いったい何ができるのかしら」

「しっ。聞こえてしまうわ」

「聞こえていいのよ。事実なのだから」

わたし、セリア・ヴェントは十八歳。谷間の小国ヴェント家の末娘。今日、空中都市アルシエルに、第二皇子エリオット・アル・アルシエルの妃として、嫁いできた。

そして、雲梯から降りて最初に耳にしたのが、この、他国から来ていた貴婦人たちの囁きだった。

悔しくは、なかった。むしろ、妙に冷静だった。わたしは故郷の崖の上で、鷹と風を相手に育った娘だ。人の悪口くらいで、足元がぐらつくほど、柔らかくは育てられていない。

ただ――それを全部聞いていた人が、一人、すぐ隣にいた。

それが、問題だった。

「……聞かせてしまって、すまない」

雲梯の広間を出た回廊で、エリオット様は、小さく、そう言った。

銀色がかった金の髪、澄んだ空色の瞳、そして背中に折りたたまれた、淡い銀色の翼。噂で聞いていた通りの、美しい皇子だった。ただ、彼の眉間には、今、微かな皺が寄っていた。

「謝らないでください、殿下。あの方々は、事実を仰っただけです。わたしに翼はありません。それは、このアルシエルに来るまでも、そしてこれからも、変わらない事実です」

「……セリア嬢」

「ただ」

わたしは、少し悪戯っぽい声音で続けた。

「事実は事実として、『翼がないわたしに、この国で何ができるか』は、これから、わたしが自分で証明していくことだと思うのです。ですから、殿下が代わりに怒ってくださる必要はありません。あれは、わたしの宿題ですから」

エリオット様は、しばらく黙ってわたしを見つめていた。それから、ふっと力が抜けたように、笑った。

「――君は、思っていたよりずっと、手強い人のようだ」

「褒め言葉と受け取ってもよろしいですか、殿下」

「もちろん。最大級のね」

回廊の窓から、雲海の光が差し込んでいた。わたしたちの影は、並んで、白い石の床に長く伸びていた。その二つの影のうち、一つだけに翼がなかったけれど――わたしはもう、それを恥ずかしいとは思わなかった。

空中都市アルシエルは、残酷なまでに、美しかった。

銀色の塔が雲海に聳え、白亜の回廊が浮遊橋で繋がれ、市場の人々は翼をたたんだまま歩き、急ぐときだけふわりと浮いて移動した。子どもたちは笑いながら、石畳の上を半歩ずつ浮遊して走っていた。重力が、この国の人々にだけ、少しだけ手加減しているように見えた。

わたしはその中を、一歩一歩、自分の足で歩いた。エリオット様は、わたしに歩調を合わせて、ずっと隣にいてくれた。

「殿下。ずっと歩いていて、お疲れではありませんか。翼でお飛びくださっても、よろしいのですよ」

「君が飛べないうちは、私も飛ばない」

エリオット様は、あっさりと、そう答えた。

「殿下」

「二人で一緒でなければ、この国の本当の美しさは、半分しか意味がない。――これは、私の我儘だ。付き合ってくれるかい、セリア」

その言葉を、真顔で、まっすぐ言えるのが、ずるかった。わたしのような翼を持たない娘に、そんなふうに言える人が、この国にいるとは思っていなかった。

わたしがこの人に恋をしたのは、たぶん、その瞬間だった。

それからの二十日ほど、わたしはアルシエルでの日々を、夢中で過ごした。

朝は雲海の上の朝陽を仰ぎ、昼は浮遊庭園で花を摘み、夜は銀色の月明かりに染まる雲海を眺めた。侍女たちは最初こそ遠慮がちだったけれど、わたしが堂々と歩き回るのを見て、少しずつ打ち解けてくれた。宮廷の貴族たちの視線は、相変わらず冷たかった。けれど、その冷たさも、わたしにとっては、故郷の山風と同じくらい、慣れたものになっていった。

エリオット様は、公務の合間に、必ずわたしのそばにいた。思慮深く、穏やかで、そしてやっぱり、ずるい人だった。

「セリア嬢は、なぜそんなに、背筋を伸ばして歩けるのですか」

ある朝、年若い侍女のひとりが、思い切ったように、そう訊ねてきた。

「故郷では、崖を駆けていたからです」

「崖を、駆ける……」

侍女は目を丸くした。この国の人々にとって、「崖を駆ける」という言葉そのものが、遠い異国の呪文のように響いたらしい。飛べるのだから、崖を駆ける必要がない。そういう国なのだ、ここは。

わたしは少しだけ、誇らしい気持ちになった。わたしには、この国の人々が知らない、「地面を蹴る」という喜びがある。そう思うと、翼のない自分のことが、不意に、愛しくなった。

「セリア」

「はい、殿下」

「君の名前を呼ぶたびに、翼の付け根が、微かに疼くんだ」

「……それは、どういう、意味ですか」

エリオット様は、その問いにはすぐに答えず、ただ、遠い目で雲海を見ていた。

嫁いで二十日ほど経った、雲海が桃色に染まった夕方のこと。

宮殿の最上階のバルコニーで、エリオット様は、ようやく、その問いに答えてくれた。

「セリア。私の国には、古い魔術がひとつだけある。『双翼の契約』という」

「双翼の、契約」

「空の国の皇族が、運命の伴侶を見出したとき――その伴侶の背に、皇族と同じ色の翼が、一対、生えてくる。百年以上発動しないこともある、古代の魔術だ」

「……まさか、それが、わたしに」

「確信はない。ただの思い込みかもしれない。けれど、君の名を呼ぶたびに疼くこの感覚は、子どもの頃に伝承で読んだ、あの兆しに、よく似ているんだ」

エリオット様は、わたしの正面に立った。その空色の瞳が、珍しく、揺れていた。

「セリア。確かめさせてほしい。――もし、何も起こらなかったら、笑ってくれ」

「殿下が恥をかかれるなら、わたしも一緒に恥をかきます。平気です、どうぞ」

エリオット様は、ふっと笑って、それから、そっとわたしの背中に手を添えた。古い呪文のようなものを、小さく唱えた。

瞬間、背中に、ほのかな熱が広がった。

痛みではない。むしろ、ずっと欲しかった何かが、やっと戻ってきたような、奇妙な温かさ。次の瞬間、ドレスの絹地を内側から押し上げるように、わたしの背中で、淡い銀色の翼が、ふわりと広がった。

エリオット様の翼と、まったく同じ色だった。

「……えっ」

「セリア」

エリオット様の声は、震えていた。

「双翼の契約が、発動した。君は、政略の妃じゃない。古代の魔術に認められた、私の本当の伴侶だ」

わたしは、振り返って自分の背中をそっと覗いた。淡い銀色の羽根が、夕陽を受けてきらきらと瞬いていた。軽い。けれど、確かな重みがある。ヴェントの女は涙を落とさない――そう教えられて育ったけれど、この瞬間だけは、一滴だけ、落としてしまった。空の上なら、きっと、許されるだろう。

「殿下。わたしは、どうすればいいのでしょう」

「一緒に、飛ぼう」

エリオット様は、涙声で笑った。

「君の最初の飛翔を、私に手伝わせてくれ」

わたしたちは、バルコニーの手すりを蹴って、同時に雲海の上へと飛び立った。

風が、二対の銀色の翼を下から優しく押し上げた。ぎこちなく動かすたびに、羽根がきらめいた。空気の匂いが、地面の上で嗅ぐそれとは、まるで違った。夕陽に焼かれた雲の、甘いような、懐かしいような匂い。

「気持ちいいですか、セリア」

「はい、殿下。――ただ、ひとつだけ、言わせてください」

「何だい」

「今日、雲梯の広間で、わたしを『翼のない妃』と囁いた方々に、少しだけ、お伝えしたいのです」

わたしは、風に逆らって、きっぱりと言った。

「『翼は、生えました』と」

エリオット様は、一瞬きょとんとして、それから、声を立てて笑った。

「――君は、本当に、手強い人だ」

桃色の雲海の向こうで、最初の星が瞬いた。その星を目印に、わたしたちはもう一度、大きく羽ばたいた。

わたしには、まだ分からないことがたくさんあった。百年ぶりに発動した古代魔術の本当の意味。宮廷と他国の貴族たちが、これから「翼を授かった異国の娘」を、どう扱うのか。今日の囁きは、きっと、始まりに過ぎない。

けれど、ひとつだけ、決めていた。

この翼は、古代魔術の力ではなく、わたし自身がこの人の隣に立つと決めた、その意志の形だ。だから、誰にも折らせない。

風がひときわ強く、二人の翼を押し上げた。眼下の雲海が、桃色から紫へと染まっていく。わたしはエリオット様の手をぎゅっと握り、もう片方の手で、自分の背中の翼に、そっと指先で触れた。本物だった。疑いようのない、本物の重みが、そこにあった。その重みは、恐怖ではなく――自由の、重みだった。

空の一番高いところで、星が、また一つ、増えた。わたしの新しい日々は、雲の上の、この風の高さから、始まろうとしていた。

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