第3話
第3話「消えた翼、残った覚悟」
# 第3話「消えた翼、残った覚悟」
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朝、目を覚ました瞬間、分かった。
背中が軽い。昨日まであった、あの確かな重み——銀色の翼の重みが、ない。
わたしは跳ね起きて、肩越しに背中を見た。何もない。寝衣の布地が、平らに背中に沿っているだけだった。鏡の前に駆け寄る。振り返って確かめる。やはり、何もない。ただ、肩甲骨の下に、鳥肌のような微かな粒立ちが残っていた。翼があった場所の、名残のような痕跡。
指先で触れると、かすかに温かかった。消えたのではない。引っ込んだ、というべきか。けれど、昨日まであった確かな重みが消えた背中は、まるで大事な荷物を落としてしまった旅人のように、頼りなく軽かった。
窓からは朝の冷気が流れ込んでいて、肌に鋭い。空の国の朝は、地上とは空気の質が違う。薄くて、乾いていて、鼻の奥がつんとする。その冷たさが、今朝は余計に身に沁みた。
「セリア様、おはようございま——」
扉を開けたリーナが、わたしの背中を見て、声を呑んだ。琥珀色の瞳が大きく見開かれ、手に持っていた着替えの包みがずり落ちそうになっている。
「リーナ。見ての通りよ」
「あ、あの、翼が——」
「消えた。いいえ、隠れたのかもしれない。分からない」
わたしは努めて落ち着いた声で言った。声が震えないように、顎を引いて、まっすぐ前を見る。指先を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みで、意識が身体に戻った。
ヴェントの崖で、足元が崩れかけたとき、父に教わった。恐怖は足に出る。だから、足に力を入れるな。背筋を伸ばせ。視線を上げろ。そうすれば、恐怖は居場所を失う。あの日、崖の石が崩れる音が足元から響いて、わたしは一瞬だけ腰が引けた。父が後ろから肩を掴んで、「前を見ろ」と言った。その手の力加減を、今でも覚えている。強すぎず、弱すぎず、ちょうどわたしを支える分だけの力。
鏡の中のわたしは、翼を失った少女だった。けれど、背筋は伸びていた。栗色の髪が乱れたまま肩にかかり、緑がかった茶色の瞳が、少しだけ赤い。泣いてはいない。泣いていないのだ、わたしは。
「リーナ、着替えを手伝ってくれる? 今日は翼のことを考えなくて済むドレスがいいわ」
リーナは口元をぎゅっと結んで、それから頷いた。落としかけた包みを拾い上げ、てきぱきと衣装箪笥に向かう。その背中の小さな翼が、心なしか身体に密着するように縮んでいた。わたしのことを心配している。この子の感情は、翼に正直に出る。
「はい。セリア様に一番似合うのを、選びます」
選んでくれたのは、深い緑色のドレスだった。絹の手触りが肌に冷たく沿う。背中が高い襟で覆われていて、翼の有無が外からは分からない。リーナの配慮。この子は、見た目よりずっと、細やかな人だった。
ドレスに袖を通しながら、ふと故郷の服を思い出した。母が織ってくれた厚手の麻のワンピース。崖を駆けるときに裾が足に絡まないよう、膝丈に仕立てた実用的な服。空の国のドレスは美しいが、走れない。走る必要がないのだ、翼があれば。けれど今のわたしには翼がない。走れる服が恋しいと思った。
◇
中庭のテラスで、エリオット様は静かにわたしの話を聞いていた。朝の光が、銀色がかった金髪を淡く照らしている。その背中では、変わらず、淡い銀色の翼が折りたたまれていた。テラスの石畳には朝露が光り、浮遊庭園から流れてくる花の匂いが薄い霧のように漂っている。
「……契約は、段階的に完成する」
エリオット様はゆっくりと口を開いた。動揺を押さえているのが分かった。声の底に、わずかな揺れがある。お茶を持つ指先が、ほんの少しだけ強張っていた。
「一度発動したから定着するものではない。翼は、二人の絆が深まるにつれて、少しずつ安定していく。逆に言えば、まだ不安定な段階なんだ」
「つまり、また生えてくる可能性がある」
「ある。と思う。文献にもそう書かれていた」
「思う、ですか」
エリオット様は苦笑した。口元だけの笑みだった。目は笑っていない。
「百年前の記録が唯一の前例だ。確信は持てない。けれど、昨日の時点で翼が君の感情に反応していた。契約自体は生きている。そう信じている」
その言葉に、胸の奥の固まりが少しだけ融けた。けれど、完全には消えない。翼が消えたのは事実だ。そしてそれが、この宮廷で何を意味するか、わたしは分かっていた。
案の定だった。
大広間に向かう回廊で、昨日以上の囁きが待っていた。回廊は白い石の柱が並び、天井が高く、どんな小さな音もよく響く。わたしの足音——靴底が石を叩く乾いた音——が近づくと、囁きがさっと広がった。
「やはり偽物だったのよ」
「一晩で消えるなんて。あれは契約ではなく、何かの幻術だわ」
「哀れね。異国の娘に、偽の希望を与えただなんて」
笑い声が、白い石の壁に反響した。高く、冷たく、遠慮のない笑い。絹の扇の向こうから漏れる、くすくすという音。その音は、崖の上で聞く風鳴りに似ていた。ただし、風は少なくとも悪意を持たない。
エリオット様の眉間に皺が寄るのが、視界の端に見えた。翼がわずかに逆立ちかけている。怒りが翼に出ている。わたしは、その手に触れて、首を小さく振った。わたしの指先が伝えた温度で、エリオット様の翼が少しだけ落ち着いたのが分かった。
代わりに、わたしは足を止めた。
囁いていた貴婦人たちの方を向いた。彼女たちは一瞬、言葉を切った。三人。淡い色のドレスに、背中に大きな翼を優雅に広げた女性たち。扇を持つ手が止まり、塗り重ねた白粉の下の目が、わたしを見つめた。
「翼が消えたのは事実です」
わたしの声は、思ったよりよく通った。回廊に静けさが広がる。柱の影が、午前の光の角度で長く伸びていた。
「けれど、翼がなくても、わたしはここにいます。翼があったからここに立っているのではありません。わたしが、ここに立つと決めたから、ここにいるのです」
誰も何も言わなかった。数秒の沈黙の後、貴婦人たちは目をそらし、散り散りに歩き去った。扇を閉じるぱちんという音と、衣擦れの音が遠ざかっていく。
エリオット様がわたしの隣で、ふっと息を吐いた。
「君は本当に——」
「手強い、でしょう。知っています」
わたしは笑った。笑えた。翼はなくても、足はある。背筋も伸びる。この二つがあれば、わたしはどこにでも立てる。
ただ、回廊を歩き去った後、誰にも見えない角で、わたしは壁に片手をついた。指先が冷たかった。心臓が早く打っていた。強がりではなかった。けれど、怖くないわけでもなかった。その両方が同時に存在できることを、わたしは初めて知った。
◇
その夜、寝付けなくて回廊に出た。
春の夜風が冷たく、薄い寝衣の上を滑る。月明かりに照らされた雲海は、昼間とはまるで違う銀色で、どこまでも静かに広がっていた。月光が雲の粒子に反射して、空気そのものが微かに光っているように見える。遠くから、アルシエルの風鈴塔が鳴る音が聞こえた。高い金属音が、夜気に溶けて消えていく。
足音が聞こえた。
回廊の角を曲がったところに、エリオット様がいた。普段の皇子らしい衣装ではなく、簡素な上衣に、片手に燭台を持っている。髪が少し乱れていて、寝ていなかったことが分かった。
わたしに気づいていない。書庫の方角へ、足早に歩いていく。靴底が石畳を叩く音が、規則正しく、けれど急いでいた。
ふと、書庫の重い扉の前で立ち止まった。燭台の炎が、横顔を橙色に照らしている。その表情は、昼間の穏やかなエリオット様とは違っていた。眉が寄せられ、唇が引き結ばれていた。何か重いものを背負っている人の顔だった。影が壁に揺れて、翼の輪郭が大きく歪んで映っていた。
エリオット様は扉を開き、中に消えた。扉が閉まる重い音が、回廊に反響した。
わたしは動けなかった。追いかけるべきか迷って、けれど、あの横顔を見てしまった以上、軽い気持ちで踏み込んではいけない気がした。素足の裏が石畳の冷たさを吸い上げて、ふくらはぎまでひんやりと冷えていた。足指が無意識に丸まった。寒さではなく、不安で。
昨日の書記官の言葉が、蘇る。
——百年前の契約者は、翼と引き換えに何を失ったのか。
エリオット様は「古い話だ」と言った。けれど、今夜のあの横顔は、古い話をしている人のものではなかった。今、まさに、何かと戦っている人の顔だった。
月明かりが回廊を冷たく照らしていた。わたしの背中の、翼があった場所が、微かに疼いた。消えたはずの場所が。もう何もないはずの場所が。
その疼きは、翼の残響なのか、それとも、わたし自身の不安が身体に出たのか。区別がつかなかった。
夜風が一層冷たくなった。わたしは寝衣の上から自分の腕を抱き、部屋に戻った。寝台に潜り込んでも、背中の軽さが気になって、なかなか眠れなかった。