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翼なき妃と双翼の契約

第4話 第4話「書庫の秘密と、銀の羽根」

第4話

第4話「書庫の秘密と、銀の羽根」

# 第4話「書庫の秘密と、銀の羽根」

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昼食を終えた後、わたしはまっすぐ書庫に向かった。

昨夜、回廊で見たエリオット様の横顔が、頭から離れなかった。あの険しい表情。何かを背負った人の目。わたしに隠していることがある。それを、直接訊こうと思った。

遠回りはしない。ヴェントの女は、知りたいことがあったら自分の足で確かめに行く。母にそう教わった。崖の向こう側に何があるか知りたければ、崖を駆けて見に行け、と。噂を聞いて推測するな。自分の目で見ろ。母のその言葉が、谷間の国を出てからも、わたしの足を動かし続けている。

回廊を歩く足取りは速かった。すれ違う侍女が驚いた顔で道を開けてくれた。翼のない背中が、緑のドレスの下でまっすぐ伸びている。翼がないことを隠すドレスだが、背筋だけは隠しようがない。

宮殿の書庫は、中央塔の三階にあった。重い楡の扉を押し開けると、古い羊皮紙と蝋燭の脂が混じった匂いが鼻を満たした。埃っぽいのに、どこか甘い。時間が堆積した匂いだ。天井まで届く書架が、薄暗い空間に整然と並んでいる。窓から入る光は細く、書架の間に長い影を落としていた。足元の石畳がひんやりと冷たく、靴底を通して体温を奪っていく。

奥の方に、灯りが見えた。

わたしは足音を忍ばせて進んだ。三列目の書架を曲がると、机に向かうエリオット様の背中があった。広げた古い文献に目を落としている。銀色の翼が、小さく畳まれていた。蝋燭の光が翼の端を橙色に染めて、羽根の一枚一枚がゆらゆらと揺れている。

「殿下」

エリオット様の肩が跳ねた。振り返った顔に、一瞬だけ狼狽が走った。蝋燭の炎が揺れて、空色の瞳に小さな火が二つ映った。

「セリア。どうしてここに」

「昨夜、殿下がここに来るのを見ました」

嘘をつく気はなかった。エリオット様は、わたしの目をじっと見て、それから、長い息を吐いた。吐息が蝋燭の炎を揺らした。

「……座ってくれ。話す」

わたしは向かいの椅子に腰を下ろした。古い椅子は座面が硬く、軋む音がした。座ると、テーブルの高さでエリオット様の目線と合った。蝋燭の炎が二人の間で揺れている。その揺れが、書庫の静寂を際立たせていた。机の上には革装丁の古書が何冊か開かれていて、黄ばんだページに、細かな文字が連なっている。空の国の古語だろう。わたしには読めなかったが、インクの色が褪せていて、何世代も前に書かれたものだと分かった。ページの端は触れるだけで崩れそうなほど脆い。

「契約の歴史を調べていた」

エリオット様は机の上の文献を指し示した。指先にインクの跡がついていた。昨夜だけでなく、何日も通い詰めていた証拠だ。

「双翼の契約は、記録に残っているだけで七例ある。全て、最初は翼が不安定だった。現れては消え、消えては現れる。それが安定するまでには、早い例で一ヶ月、遅い例では三ヶ月かかっている」

「一ヶ月から三ヶ月」

「翼が安定する条件は、二人の間の——うまく言えないが——信頼、というのが近い。互いを深く知り、互いの弱さを受け入れたとき、翼は定着する。少なくとも、記録上はそうなっている」

わたしはほっとした。消えたのは異常ではない。段階的な過程の一部。胸の中で、固く閉じていた何かが、少しだけ緩んだ。

けれど、エリオット様の表情は晴れなかった。蝋燭の光の中で、口元に影が落ちている。

「じゃあ、なぜそんな顔をされているんですか」

エリオット様の手が、机の上で小さく震えた。文献のページを押さえていた指先が、紙に皺を寄せている。

「……七例のうち、最後の一例。百年前の契約が、うまくいかなかった」

「百年前の」

「皇女アリアと、地上の騎士ガイウス。翼は定着した。完全に。けれど、その後——」

言葉が途切れた。エリオット様は顔を伏せ、数秒の沈黙の後、顔を上げた。その空色の瞳が揺れていた。蝋燭の光が瞳の中で不安定に踊っている。書庫の空気が急に重くなったように感じた。古い本の匂いと蝋の匂いが、いつもより濃く鼻に沁みた。

「セリア。もし契約が本物じゃなかったら、私は君を巻き込んだだけだ。翼を持たない国に、翼の幻を見せて、結局何も残らない。そんなことになったら——」

「殿下」

わたしは遮った。その声は、自分でも驚くほど、はっきりしていた。

「偽物でもいいです」

エリオット様が目を見開いた。書架の影が二人の間に伸びていて、蝋燭の揺れるたびに影が生き物のように動いた。

「契約が本物かどうかは、正直、わたしにはまだ分かりません。百年前の記録も、七例の歴史も、わたしの身体が覚えているものとは違います。けれど、一つだけ確かなことがあります」

わたしは椅子から立ち上がり、エリオット様の正面に立った。古書のインクと蝋の匂いが混じった空気の中で、エリオット様の目だけを見た。

「わたしは、あなたの隣にいたい。それは、翼があってもなくても変わりません。それだけは、偽物ではないんです」

エリオット様は何も言わなかった。けれど、その表情から、あの険しさが、少しだけ溶けた。目尻の力が抜けて、口元が微かに緩んだ。

「……君は」

「手強い、でしょう。それはもう聞きました」

わたしが笑うと、エリオット様も、ようやく笑った。今度は本物の笑みだった。書庫の静けさの中で、二人の笑い声だけが、古い本の背表紙に吸い込まれていった。

その時、わたしの目が、書架の奥に止まった。最も暗い壁面に、一つだけ、他の書架と違う扉があった。鉄の飾り金具がついた、分厚い扉。錠前がかかっている。飾り金具は翼を模した意匠で、百年以上磨かれていないのか、黒ずんでいた。

「殿下。あの扉は」

エリオット様の視線が鋭くなった。笑みが消え、先ほどとは別の表情が浮かんだ。

「封印された部屋だ。百年前の契約に関する記録の一部が、あの中にあるらしい。だが、鍵がない。代々の書庫長官が管理していたはずだが、現在の書庫長官は『鍵の所在は不明』と言っている」

「百年前の契約に関する、一部」

「アリアとガイウスの結末についての記録だと聞いている。だが——」

エリオット様は首を振った。

「今は、開けられない」

その声の底に、「開けたくない」が混じっているように聞こえた。わたしは、それ以上は訊かなかった。今は、まだ。

けれど、いずれ訊く。それは確信していた。あの扉の向こうにあるものが、わたしたちの未来に関わる何かであることは、直感で分かった。

部屋に戻ったのは、日が沈んでからだった。

窓の外に広がる雲海が、夕陽の残光で紫と藍に染まっている。塔の影が雲の上に長く伸びて、暮れていく空に溶けていく。

リーナが夕食の支度を整えてくれていた。簡素な野菜のスープと、白いパン。空の国の料理は、地上よりも塩気が薄く、代わりに花の蜜や雲の水で味を整えるらしい。まだ慣れないが、嫌いではなかった。スープを口に含むと、見たことのない薬草の苦味の後に、ふわりと甘い余韻が広がった。

「セリア様、今日はどちらに」

「書庫に行ったの。エリオット様と一緒に」

リーナの目がきらりと光った。

「書庫で、お二人きりで?」

「……その言い方はやめてちょうだい」

リーナがくすくすと笑った。歯を見せて、目を細めて、全身で笑う。この侍女は、身分の壁を忘れたように素直に笑う。それが、この宮殿で、わたしにとってどれほど救いになっているか、たぶんリーナ自身は気づいていない。小さな翼が笑いに合わせて、ぱたぱたと揺れていた。

夜の支度を終えて、寝台に横になった。月光が窓から細く差し込んでいる。白い光の筋が、石の床を横切って、壁の途中で途切れていた。

ふと、枕元に目がいった。

白い枕の上に、一枚、小さな羽根が落ちていた。

銀色の、翼の羽根。

わたしは息を呑んで、そっと指先でつまみ上げた。指の腹に、羽根の繊維が微かに引っかかった。月光に透かすと、繊細な銀色の脈が浮かぶ。軽い。風が吹けば飛んでいってしまうほどに軽い。けれど、確かに実体がある。間違いない。わたしの翼の羽根だ。

消えたはずの翼が、たった一枚だけ、ここに残っていた。

わたしはその羽根を両手で包んだ。温かい。微かだけれど、確かに、温かい。手のひらの中で、生きているもののように、微かな脈動を感じた。

翼は完全には消えていない。どこかに、まだ、わたしの中に残っている。

「……待っていて」

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。翼に向かって言ったのかもしれない。エリオット様に向かって言ったのかもしれない。あるいは、あの封印された部屋の向こう側の、まだ見ぬ真実に向かって。

月が雲の向こうに隠れた。羽根の銀色が、ふっと暗くなった。けれど、手の中の温もりだけは、消えなかった。わたしはその羽根を握りしめたまま、いつの間にか、眠りに落ちていた。

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