第5話
第5話「浮遊庭園の手ほどき」
# 第5話「浮遊庭園の手ほどき」
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翼が戻ったのは、朝食の最中だった。
白いパンを千切っていたら、背中がふわりと温かくなった。じんわりと広がる熱。筋肉が伸びるような、けれど痛くはない感覚。リーナがお茶を零しそうになりながら「セリア様、出てます!」と叫んだ。振り向かなくても分かった。肩甲骨の下から、あの確かな重みが広がっている。
「リーナ、ドレスの背中は」
「大丈夫です、今日のは翼用のスリット入りを選んでおきました!」
「用意がいいわね」
「いつ生えてもいいように、って思いまして」
リーナが得意げに笑った。琥珀色の瞳が朝の光を受けてきらきらと光っている。この侍女は、いつの間にか、わたし以上にわたしの翼を信じていた。パンの欠片がテーブルに散らばっているのを見て、リーナが小さく笑いながら片付けてくれた。
翼が戻った安堵で、パンの味が急に美味しく感じられた。花の蜜を練り込んだ白パンの、ほのかな甘み。昨日までは空の国の薄い味付けに慣れないと思っていたのに、今朝は舌の上で柔らかく溶けた。
◇
浮遊庭園は、宮殿の東翼に広がる空中の花園だった。
地面がない。石畳の代わりに、分厚い雲が足元に敷き詰められていて、その上に植木鉢が宙に浮かんでいる。雲の床は見た目より硬く、足を乗せると少し沈むが、靴底をしっかりと受け止めてくれた。初めて踏んだときは心臓が跳ねたが、もう慣れた。
花々は空の国特有の品種で、茎が上ではなく横に伸び、花弁が風を受けてゆっくり回転する。風車のような花。空気の薄い高所に適応した、不思議な美しさだった。花の色は白と淡い紫が多く、匂いは地上の花よりも鋭い。嗅ぐというよりも、鼻の奥を突くような、清涼な刺激がある。
「いいか。まず、羽ばたかなくていい」
エリオット様が、わたしの正面に立った。銀色の翼を半開きにしている。朝の光を背に受けて、翼の縁が金色に縁取られていた。
「翼を広げて、風を感じるところから始める。風がどちらから来ているか、どのくらいの強さか。それを翼で読めるようになれば、飛ぶのは自然についてくる」
わたしは翼を広げた。昨日よりは素直に動く。意志で動かす、というエリオット様の言葉を思い出しながら、力まず、ただ風が気持ちいいと感じることに集中した。
風が、翼の下面を流れた。
その瞬間、分かった。この感覚を、わたしは知っている。
崖の上で、風向きを読んで走るコースを決めていた。向かい風のときは低く、追い風のときは跳ぶ。横風が来たら重心を落とす。風を身体で読む技術を、わたしは子どもの頃から叩き込まれていた。翼は、その感覚を何倍にも増幅してくれた。風の流れが、まるで手で触れるように分かる。温度の違い、湿度の差、微かな渦。全部が翼を通じて肌に伝わってくる。
「殿下、風が左から来ています。上層は右に流れている。この間に乗れば——」
言い終わる前に、体が浮いた。
翼が勝手に動いた。今度は力ではない。風を感じて、身体が応えて、翼がそれに従った。一瞬だけ。ほんの三秒ほどの浮遊。足の裏から地面の感触が消え、代わりに空気だけが体を支えている感覚。それでも、足が地面から離れた確かな感覚に、心臓が跳ねた。
着地は危うかった。片足をついてよろめき、エリオット様に腕を掴まれた。エリオット様の手は温かくて、握力が思ったより強かった。
「今のは——」
「風を読んだんだ。自然に。教える前に」
エリオット様の目が見開かれていた。驚きと、喜びと、もう一つ別の感情が混じった顔。その瞳の奥に、微かな安堵が見えた。契約が本物だと、もう一度確認できた安堵だろうか。
「崖を駆けていた感覚が、翼にも通じるんですね」
「君の身体が覚えていたんだ。翼がなくても、君はずっと、風と一緒に生きてきた。だから翼が応えた」
何度か繰り返した。風を読んで、翼に任せて、浮く。まだ高くは飛べない。持続も数秒から十秒程度。けれど、回を重ねるごとに、翼が少しずつわたしの意図を汲んでくれるようになった。翼が風を捕まえる角度が分かってくる。羽根の先端が風をかわすときの、くすぐったいような繊細な感覚にも少しずつ慣れた。
落下しかけたとき、エリオット様の手が当たり前のように伸びてきた。わたしの手を掴み、引き上げてくれる。その手の温度が、翼の安定と連動している気がした。触れていると、翼が落ち着く。離れると、少し揺らぐ。
「殿下。ずっと手を握っているわけにはいきませんよ」
「……分かっている。だが、もう少しだけ」
その声が少し照れていて、わたしは笑いを堪えた。この人は、さらりと核心を突く言葉を言うくせに、こういう些細な場面で照れる。翼がわずかに縮んでいるのが見えた。感情が翼に出るのは、やはりこの人も同じらしい。そのちぐはぐさが、少し可愛かった。
◇
訓練の後、浮遊庭園のベンチで、リーナと並んで座った。エリオット様は公務に戻り、庭園にはわたしたちだけが残っていた。
風が穏やかに吹いて、回転する花々がくるくると揺れている。足元の雲が午後の陽射しを受けて金色に光り、まるで金色の絨毯の上に座っているようだった。
リーナが差し出してくれた冷たいお茶を飲みながら、ふと、リーナの背中に目がいった。小さな翼。広げても、掌二つ分ほどしかない。わたしの翼が不安定ながらも広がるのを、リーナはどんな気持ちで見ていたのだろう。お茶を注ぐその手は慣れた動作で、けれど指先がほんの少しだけ震えていた。
「リーナ。あなたの翼のこと、訊いてもいい?」
リーナの手が一瞬止まった。それから、少し困ったように笑った。唇の端だけが持ち上がる、どこか痛みをこらえたような笑い。
「わたしの翼は、小さいんです。生まれたときからずっと。空の国では、翼の大きさが——その、いろいろなことに影響するんです」
「いろいろなこと」
「職業とか。住む場所とか。結婚の条件とか」
リーナの声は明るかったが、目が笑っていなかった。琥珀色の瞳の奥に、何年も積み重なった、諦めに似たものが沈んでいた。
「翼が大きい人は高い塔に住めます。翼が小さい人は、低い階に。飛べない人は、もっと下に。宮殿で侍女をしているのは、わたしの家では出世した方なんです」
わたしは黙って聞いていた。空の国は美しい。けれど、その美しさの下に、地上と同じ——いや、もっと露骨な格差がある。翼の大きさで人を分ける社会。翼がないわたしが、この国でどう見られているかの根本的な理由が、ようやく肌で分かった。
銀色の塔が雲の上に聳えている。高い塔ほど美しく、低い階ほど影が濃い。この国の構造そのものが、翼の大きさの序列になっているのだ。
「セリア様」
リーナがわたしの顔を覗き込んだ。
「怒ってます?」
「怒ってない。でも、悔しいとは思ってる」
「わたしのために?」
「リーナのためだけじゃない。翼の大きさで人の価値を決める、この仕組みに対して」
リーナが目を丸くした。それから、唇がふるえて、少しだけ赤くなった。目の縁に光が浮かんだが、涙は落ちなかった。堪えている。この子も、自分の流儀で、強い人なのだと思った。
「セリア様は、変わった方ですね」
「崖を駆けていた娘だもの。変わってて当然よ」
リーナがふっと笑った。今度は、目も笑っていた。小さな翼が、ほんの少しだけ広がった。嬉しいときに翼が開くのは、わたしだけではないらしい。
その時だった。
庭園の東端——アルシエルの外縁に当たる方角の空に、一瞬、暗い影が見えた。
雲が、不自然に黒ずんでいる。白い雲海の端が、墨を落としたように暗くなっている。わたしは目を凝らした。だが、次の瞬間には消えていた。風向きが変わったのか、白い雲が押し寄せて、暗い部分を覆い隠した。
「……今の、何?」
リーナは気づいていなかった。お茶の片付けをしていて、東の空を見ていない。
「いいえ、何でもない」
わたしはそう言ったが、胸の奥に、小さな引っかかりが残った。あの暗い雲は、自然のものだったのか。それとも——崖育ちの直感が、何かを感じ取っている。風の匂いが一瞬だけ変わった気がした。甘い雲の匂いに混じって、金属を舐めたような、冷たい味。
風が変わった。浮遊庭園の花が一斉に揺れ、甘い花粉が空に舞い上がった。わたしの翼が、微かに身震いした。寒さではない。何か別のものを、翼が感じ取ったような気がした。背中の付け根が、ほんの一瞬、冷たくなった。
けれど、それもすぐに消えた。午後の陽射しが戻り、浮遊庭園はいつもの穏やかさを取り戻した。リーナが「もう一杯いかがですか」とお茶を差し出してくれて、わたしは笑って受け取った。
胸の奥の引っかかりだけが、消えなかった。