Novelis
← 目次

翼なき妃と双翼の契約

第18話 第18話「匂いのない雲」

第18話

第18話「匂いのない雲」

# 第18話「匂いのない雲」

---

三日目に、古代の仕掛けを見つけた。

その浮遊島には神殿の残骸があった。柱は半分が倒れ、屋根はとうに失われていたが、地下への階段だけが無傷で残っていた。まるで、ここだけが時間の侵食から守られていたかのように。

階段を降り始めたとき、空気が変わった。外の乾いた風が途切れ、地下の重く湿った空気が肌に張り付いた。苔が階段の石段を覆っていて、足を置くたびにずるりと滑る。わたしは壁に片手をついて身体を支えた。壁の石は冷たくて、指先から体温を吸い取った。エリオット様が先に降り、リーナがわたしの後ろに続く。松明の火が壁に反射して、橙色の光が揺れている。三人の影が階段の壁に大きく映り、足を踏み出すたびに影が伸び縮みした。

階段を降りきると、狭い部屋に出た。祭壇は黒い石で作られていて、表面が鏡のように磨かれていた。千年の歳月を経ても、その表面は曇りがなかった。祭壇に映るわたしの顔は、松明の揺れる光の中で、普段より年を取って見えた。

リーナが壁の古代文字を読み上げた。指で文字を辿りながら、唇がかすかに動く。古代文字を読むとき、リーナの目が変わる。普段の怯えがちな琥珀色が、鋭く、深くなる。おばあちゃんから受け継いだ力が、ここで目覚めている。

「『旅人よ。お前が本当に失いたくないものは何か。それを見極めよ。さもなくば、翼は空虚を纏うだろう』」

祭壇に触れた瞬間、わたしの視界が変わった。

故郷にいた。

谷間の国。赤い屋根の家。崖の上に立って、眼下の川を見下ろしている。風が髪を揺らし、鷹が旋回している。空気が故郷の匂いだった。土と草と、遠くの川の水の匂い。空の国とは全く違う、重くて温かい空気。

母が台所から声をかけている。何と言っているのか——聞こえない。口が動いているのに、音が届かない。ガラスの壁の向こう側にいるように。わたしが「お母さん」と呼んでも、声が母の耳に届いていない。

振り向くと、家の輪郭がぼやけていた。赤い屋根の色が褪せ、窓の形が曖昧になっている。記憶の中の家は、こんなに不鮮明だったろうか。石段は三段。それは覚えている。けれど、段差の高さが分からない。玄関の扉の色が思い出せない。

母の顔が——

見えない。

輪郭はある。栗色の髪。わたしと同じ。けれど、目元が靄に覆われたように消えている。笑っているのか泣いているのか、分からない。唇は動いているのに、表情が読めない。

「お母さん」

声が出た。けれど、母は聞こえていないように、口だけを動かし続けている。何かを伝えようとしている。必死に。けれど、音が、ない。

崖の色が変わった。灰色に。生命力のない、乾いた灰色。緑だった草が砂に変わり、川が消え、谷底が暗い穴になった。風が止まり、空気が動かなくなった。

これが——わたしが失いつつあるもの。故郷の色。母の目元。声の響き。全てが、少しずつ、灰色に塗り潰されていく。

胸が痛かった。物理的に。心臓を掴まれているような痛み。息ができない。呼吸を試みるたびに、冷たい空気が肺を裂くように入ってくる。

「やめて——返して——」

声を出した。故郷の色を、母の目元を、返してほしい。奪わないでほしい。けれど、灰色はゆっくりと広がり続けた。崖の上に立つわたしの足元から、色が抜けていく。靴の下の岩が、故郷の赤い粘土ではなく、どこでもない灰色の地面に変わった。

最後に見えたのは、母の唇だった。何かを言っている。必死に。音のない唇が動いて——その動きが、「マ」と読めた気がした。花の名前だろうか。わたしの名前だろうか。分からない。分からないまま、幻は消えた。

目を開けた。祭壇の前で、膝をついていた。石畳の冷たさが膝に食い込んでいる。寝衣の膝が濡れていた。祭壇の周囲に溜まった水に触れていたらしい。額に汗が浮かんでいた。

エリオット様が背中を支えてくれている。翼で包むように覆ってくれていた。銀色の羽根が視界の端に揺れている。リーナが不安そうに覗き込んでいる。

「セリア、大丈夫か——」

「見えました。故郷が。でも、一部がぼやけていた。母の目元が——」

声が詰まった。涙が出そうになったが、出なかった。泣く余裕がないほど、怖かった。

エリオット様がわたしを抱き寄せた。翼で包むように。付け根から、温もりが流れ込んでくる。温かい。けれど、その温もりでも、あの灰色の恐怖は完全には消えなかった。

「試練だ。契約の代償を見せつけて、覚悟を問うている」

リーナが壁の文字の続きを読んだ。声が震えていたが、読み間違えはなかった。

「『契約の代償を消すには、始祖の泉で翼を洗え。泉は始祖の園の最奥にある』」

始祖の泉。手がかりがまた一つ増えた。代償を消す方法が、具体的に示された。泉で翼を洗う。それだけで代償が消えるのか、それとも別の条件があるのか。分からないが、道は見えた。

「先に進みましょう」

わたしは立ち上がった。膝が少し震えたが、足は動いた。膝についた水滴を払い、ブーツの底で地面を踏みしめた。故郷のブーツの感触が、足の裏から全身に広がった。この感触は覚えている。この靴を履いて崖を駆けた記憶は、まだある。

エリオット様がわたしの手を取り、指先を確かめるように握った。冷たいわたしの指を、温かい手で包んでくれた。何も言わなかった。けれど、翼の付け根から、ただ「ここにいる」という感情だけが、静かに伝わってきた。

リーナが碑文の続きを書き写していた。地図帳の余白に、古代文字を丁寧に模写している。後で読み返せるように。この子はいつの間にか、三人の中で記録係の役割を担っていた。

神殿を出て、再び飛んだ。

午後の雲海は明るく、白い。けれど、その白さの中に、わたしは異変を感じた。

雲海の中を進むにつれて、匂いが消えていることに気づいた。雲の匂いがしない。

あの匂い。初めてエリオット様と飛んだ日に感じた、夕陽に焼かれた雲の甘く懐かしい匂い。アルシエルの朝に鼻を突く、鋭くて清涼な空気の味。雲の粒子が肌に触れたときの、かすかな甘み。全部が、消えている。鼻を近づけても、何も感じない。白い雲の粒子が顔を撫でるだけで、匂いがない。温度はある。湿度もある。けれど、匂いだけが抜け落ちている。

「殿下。雲の匂い、感じますか」

「ああ。いつもの甘い——」

エリオット様が途中で止まった。わたしの表情を見て、何かを察した。空色の瞳が揺れた。

「……君は」

「感じません。何も」

雲食いの影響だろうか。それとも、記憶の欠落が五感にまで及び始めたのか。匂いは記憶と深く結びついている。匂いが消えるということは、匂いに紐づいた記憶もまた、薄れていくということだ。

母が焼いてくれたパンの匂い。崖の上で嗅いだ、雨上がりの土の匂い。故郷の川の水の、少し苔臭い匂い。

それらを思い出そうとした。思い出せた。まだ。けれど、今、目の前の雲の匂いが分からない。現在の感覚が失われ始めている。

どちらにしても、わたしの世界から、少しずつ、色と匂いと音が消えている。

リーナが近づいてきた。地図帳を胸に抱いて、風に髪を煽られながら。

「セリア様。始祖の庭への道が分かりました。あと二日飛べば——ただ、その先は雲食いの領域です」

「雲食いの」

「地図の古い注釈に書いてあります。『始祖の園は黒き虚の守る地にあり』と。金のインクで、地図の本体と同じ時代に書かれたものです」

始祖の庭は、雲食いの領域の先にある。代償を消す手がかりと、雲食いを止める鍵が、同じ場所にある。

偶然ではないはずだ。全ては繋がっている。代償も雲食いも、同じ根から生えた枝。

わたしは飛びながら、自分の翼を見た。銀色が、確実に薄くなっていた。エリオット様の翼と並べると、その差が分かる。エリオット様の翼は不透明な銀色。わたしの翼は半透明に近くなっている。光を通している。雲の白さが翼越しに見える。

「お母さん」

呟いた。自分でも聞き慣れない響き。声に含まれる感情が、どこか遠くなっている気がした。母を呼ぶ声が、他人の声のように聞こえた。

母の声を思い出そうとした。「セリア」と呼ぶ声。まだ聞こえる。けれど、以前より小さい。遠い。ノイズの向こうから届くように。壁を一枚挟んだ隣の部屋から漏れてくるような、くぐもった響き。

わたしは前を向いた。翼を動かした。風を読んだ。飛んだ。

止まるわけにはいかなかった。止まったら、その間にも記憶は消えていく。立ち止まって泣いている時間は、わたしにはない。

始祖の庭は、あと二日の先にある。

夕方、四番目の浮遊島に降り立って野営の準備をした。島の岩場は風を遮る窪みがあり、そこに三人で身を寄せた。リーナが持ってきた干し肉を分け合い、岩の隙間から染み出す水を杯に受けた。水は冷たくて、微かに鉄の味がした。

エリオット様が翼を広げて風除けにしてくれた。翼の内側に入ると、風が和らぎ、エリオット様の体温が伝わってきた。リーナがわたしの隣で膝を抱えて座り、小さな声で「セリア様の故郷の歌とか、ありますか」と訊ねた。

あった。母が夕暮れに歌っていた、崖の子守唄。メロディは覚えている。歌詞も——たぶん、まだ覚えている。

わたしは小さく口ずさんだ。風よ、崖よ、谷よ。子どもを守れ。石のように強く。水のように柔らかく。声が掠れていたが、リーナが目を閉じて聞いていた。エリオット様の翼の付け根から、温かな感情が伝わってきた。初めて聞くはずの歌なのに、懐かしそうな感情。

歌い終わって、わたしは自分の声が震えていないことに安堵した。歌詞を全部覚えていたことにも。まだ、全部は消えていない。まだ。

この話はいかがでしたか?

次の話を読む →

第19話「第19話「エリオットの翼」」

↓ スクロールで次の話へ