第19話
第19話「エリオットの翼」
# 第19話「エリオットの翼」
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四日目の午後、エリオット様の翼が傷ついた。
午前中は穏やかな飛行だった。風が追い風に変わり、翼への負担が軽くなっていた。リーナが飛行しながら地図帳を片手で広げ、ルートの確認をしてくれていた。器用だった。小さな翼では長時間の飛行は難しいはずなのに、この子は不思議と弱音を吐かない。疲れていないわけではないだろう。足が重そうに垂れ下がっていることに、わたしは気づいていた。
浮遊島の間を飛んでいるとき、雲の中に残った雲食いの残滓——黒い霧のような塊——に、エリオット様の翼が触れた。残滓は雲に溶け込んでいて、見えなかった。白い雲と区別がつかない。わたしが気づいたのは、残滓のある雲が周囲の雲より微かに暗く見えたからだった。けれど、気づいたときには遅かった。「殿下、右に——」と声を上げた瞬間、エリオット様の翼はすでに雲に触れていた。
音がした。翼の羽根が焼けるような、じゅっという嫌な音。焼き鏝を水に差したときに似ていた。
「——っ」
エリオット様がバランスを崩した。銀色の翼の右側、先端から三分の一ほどが、灰色に変色していた。力が入らないらしく、大きく傾いた。風が翼の下を抜けて、身体が回転しかけた。
「殿下!」
わたしとリーナが同時に叫んだ。わたしが先にエリオット様の腕を掴み、最寄りの浮遊島に着地させた。島の岩場は硬く、着地の衝撃が膝に響いた。エリオット様を抱えたまま、身体が前につんのめった。
「見せてください」
翼の先端に触れると、冷たかった。氷のように。真夏の川に足を入れたときのような、肌を刺す冷たさ。銀色の光が消え、灰色の死んだ羽根が、ぱらぱらと崩れ落ちた。羽根が崩れるとき、乾いた紙が破れるような音がした。翼の付け根を通じて、痛みの残響がわたしにも伝わってきた。鈍い、重い痛み。
「翼の魔力を吸われた」
エリオット様は唇を噛んで、自分の翼を見つめた。右の翼の先端が欠けている。翼を広げようとするたびに、灰色の部分が揺れて、崩れた羽根が風に散った。
「雲食いの残滓に触れただけで、これか。本体に近づいたら——」
「飛べなくなります」
リーナが厳しい顔で言った。いつもの怯えは消えていた。旅の間に、この子は変わりつつある。
「殿下は、しばらく飛行を控えた方がいいと思います。翼の回復を待たないと」
エリオット様が歯を食いしばった。顎の筋肉が硬く張っている。初めて、彼が本当に無力になる瞬間を見た。翼を傷つけられた空の皇子。飛べない空の皇子。わたしが翼のない時代に感じていたものと、同じ感情が、翼の付け根を通じて伝わってきた。
焦り。悔しさ。自分への苛立ち。そして、足元が崩れるような恐怖。
この人にとって、翼は自分の存在そのものに等しい。空の国の皇子として生まれ、翼とともに育ち、翼で空を飛ぶことが当たり前の人生を生きてきた。それを失うことの恐怖は、わたしが翼を失ったときの比ではないのかもしれない。わたしは翼がないことに慣れていた。けれど、この人には、翼がない自分の記憶がない。
エリオット様は黙って自分の翼を見つめていた。灰色に変色した先端を、指先でそっと触れた。崩れかけた羽根が、その指に触れただけで一枚、ぱらりと落ちた。風に乗って、雲海の中に消えていった。
エリオット様がその羽根を目で追った。落ちていく自分の羽根を、黙って見送った。その横顔に、わたしは初めて、弱さとは違う何かを見た。失うことを直視する強さ。目をそらさない強さ。わたしが第3話で鏡の前に立ったとき、翼のない背中を見つめたのと同じものだった。
◇
その夜、浮遊島の洞窟で、わたしがエリオット様の翼に薬草の湿布を当てた。リーナが遺跡から見つけてきた回復効果のある苔を、水で溶いたもの。青緑色のとろりとした液体で、苔特有の渋い匂いがした。
湿布を翼に当てると、エリオット様がわずかに身じろぎした。痛いのか、冷たいのか。
「痛みますか」
「痛くない。ただ、動かない」
エリオット様の声は平坦だった。感情を殺している声。翼の付け根からは、抑えた感情の塊が伝わってくる。蓋をされた鍋の中で沸騰しているような、押し込められた怒り。自分への怒り。
焚火の光がエリオット様の横顔を照らしている。いつもの穏やかさが消えて、険しい顔をしていた。書庫で一人で調べ物をしていた夜の横顔に似ていた。
「エリオット様」
「……何だ」
「飛べなくても、あなたはあなたですよ」
エリオット様が顔を上げた。わたしの目を見た。焚火の光が瞳の中で揺れている。
「初めてアルシエルに来た日、わたしは翼がなかった。それでも殿下は『二人で一緒でなければ意味がない』と言ってくれました。今度はわたしが同じことを言います。翼があってもなくても、あなたはわたしの隣にいてくれればいい」
「……セリア」
「それから、もう一つ」
わたしは少し怒った声で続けた。怒りは意図的だった。優しく言っても、この人には届かない。自分を責めることに慣れすぎている人には、怒りの方が響く。
「あなたの存在意義は、わたしとの契約じゃない。あなた自身よ。契約がなくても、翼がなくても、あなたはエリオットです。それを忘れないでください」
エリオット様が黙った。長い、長い沈黙。焚火の薪が崩れて、火の粉が天井に向かって舞い上がった。洞窟の壁に映る影が揺れた。リーナは地図帳の影に隠れて、息を殺して聞いている。
「……ずっと、思っていた」
エリオット様の声が、初めて、壁を失った。抑制も、品格も、皇子としての仮面も、全部が剥がれた、生の声。
「第二皇子として。兄の影で。何のために存在しているのか分からなかった。レイヴンが正統で、優秀で、国を背負うべき人間で——私は、余分な存在だった。食卓で一つ席が多い。会議で一人多い。いつも、いつも、余分だった」
翼の付け根から、古い痛みが流れ込んできた。子ども時代から積み重なった、居場所のなさ。何層にも重なった、薄い紙のような孤独。一枚一枚は薄いのに、積み重なると動けないほど重い。
「セリアとの契約が発動した時、初めて、自分が必要とされていると感じた。だから——代償を知っていても、止められなかった。この契約だけが、私が私である理由だと——」
「違います」
わたしはきっぱりと言った。声に力を込めた。
「わたしがあなたを好きになったのは、契約が発動する前です。回廊で『君が飛べないうちは私も飛ばない』と言ってくれたとき。あの言葉に契約は関係ない。あれはあなた自身の言葉でしょう」
エリオット様の目に、涙が浮かんだ。焚火の光に照らされて、琥珀色に光った。
「わたしの契約相手じゃなくていい。わたしの隣にいるエリオットでいてくれれば、それでいい」
わたしはエリオット様の手を握った。傷ついた翼がぴくりと動いた。灰色の先端が、微かに揺れた。
しばらくして、翼が少しだけ回復した。灰色だった先端に、わずかに色が戻っている。けれど、その色は——
銀色ではなかった。
焚火の光のせいだと、最初は思った。橙色の炎が翼に反射して、色が変わって見えているのだと。けれど、手のひらを翼にかざして炎の光を遮っても、その色は消えなかった。
かすかに、金色が混じっていた。純銀から、銀金へ。夕陽の光を溶かしたような、温かい金色。
「殿下。翼の色が」
エリオット様が自分の翼を見て、目を見開いた。
「変わっている……?」
わたしの翼はエリオット様の翼と同じ色——銀色だった。けれど今、エリオット様の翼だけが、少し違う色を帯びている。同じ色だった二人の翼が、初めて別の色を持ち始めた。
何かが、変わり始めていた。焚火の炎が翼を照らし、金色の混じった銀が壁に影を落とした。その影は、以前とは少しだけ違う形をしていた。
リーナが焚火の向こうで、ようやく顔を上げた。泣いていた痕跡を地図帳で隠そうとしているが、鼻の頭が赤くなっていて、隠しきれていなかった。
「あの、エリオット殿下」
リーナが声を出した。緊張で声が裏返りかけていたが、言い切った。
「翼の色が変わるのは——おばあちゃんの話にもありました。ガイウスの翼も、最後には、皇女アリアと同じ色ではなくなったそうです。自分の色になった、と」
エリオット様がリーナを見た。驚いた顔をしていた。焚火の光がリーナの琥珀色の瞳を照らし、涙の跡がきらりと光った。
「それが何を意味するのか、おばあちゃんは分からなかったそうです。でも、悪いことではなかったと——ガイウスは、自分の色を見て、笑ったって」
エリオット様が自分の翼を見た。金色が混じった銀色。皇族の色から逸脱し始めた、エリオット自身の色。
「笑った、か」
エリオット様の口元が、微かに緩んだ。笑みとは呼べない小さな動き。けれど、焚火の光の中で、その表情は先ほどまでの険しさとは明らかに違っていた。