第20話
第20話「選択の崖」
# 第20話「選択の崖」
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五日目。始祖の庭の入口に着いた。
夜明けとともに最後の浮遊島を発ち、半日飛んだ。午後の光が傾き始めた頃、雲海の色が変わった。白から淡い金色に。空気の味が変わった。甘い。アルシエルの雲の甘さとも違う、もっと古い、もっと深い甘さ。舌の上でとろりと溶けるような、蜂蜜に似た味が空気に含まれていた。
最後の浮遊島を越えた先に、それはあった。雲海の中に浮かぶ巨大な岩の門。石柱が二本、天に向かって聳え、その間に青白い光の膜が張られている。石柱は古代の文字で覆われていて、近づくと文字自体が微かに脈動しているのが分かった。生きている文字。文字の一つ一つが、心臓の鼓動のように明滅している。門の向こうは見えない。光が全てを隠している。
リーナが息を呑んだ。「地図に描かれていた通りの形です」と小さく呟いた。地図帳を胸に抱いたまま、琥珀色の瞳が門を見上げている。石柱の頂上は雲の中に消えていて、どこまで高いのか分からなかった。
門の前の空気は、他のどこよりも重かった。湿度ではなく、存在の密度とでも呼ぶべきもの。息を吸うと、肺が圧迫される。千年分の時間の重さが空気に溶けているような感覚。翼の羽根が光の膜に引き寄せられるように前に傾いた。
門の前に、何かがいた。
人の形をしているが、半透明で、光を通して向こう側が見える。古代の衣を纏った老人の姿。目はなく、口だけがある。顔の輪郭は曖昧で、見る角度によって変わった。
「翼を持つ者のみ、入ることを許す」
声は空気を振動させず、直接頭の中に響いた。骨を通じて脳に届くような感覚。精霊か。門番か。千年の歳月をここで過ごしてきた、時間の番人。
わたしの翼は——ほとんど消えかけていた。
この五日間で、記憶の欠落は確実に進んだ。故郷の家の間取りが思い出せない。部屋の数は覚えているが、どの部屋がどこに繋がっていたかが分からない。父が教えてくれた崖の走り方の、最後の工程が曖昧になっている。着地のとき足をどう置くのか。翼はそれに連動して透明に近づいていた。羽根の輪郭はあるが、光を通す。雲の白が翼越しに見える。風を捕まえる力が弱い。
「わたしの翼は、まだあります」
わたしは声を張った。自分の声が、五日間の疲労で掠れていた。
精霊がわたしを見た。目がないのに、見られている感覚があった。身体の内側まで透視されるような、皮膚の下を走る冷たい視線。翼の一枚一枚を数えるように、記憶の欠落を一つ一つ読み取るように、わたしの全てを見通している。
マルーラの名前を忘れたことも。母の目元がぼやけたことも。雲の匂いが消えたことも。全部、知っている目だった。
「消えかけの翼だ。半分は虚ろだ。入れぬ」
エリオット様が前に出た。傷ついた翼を広げた。金色が混じった銀色が、門の青白い光を受けて輝いた。傷の痕はまだ残っていたが、翼は以前より鮮やかだった。
「彼女は私の契約者だ。共に入る」
「契約は問うていない。翼を問うている。消えかけの翼は、この門を越えられぬ」
沈黙が落ちた。門の光が脈動した。低い振動が足元から伝わってきた。
エリオット様が振り返った。わたしを見た。翼の付け根から、苦悩が伝わってくる。刃で切り裂かれるような、鋭い苦痛。
「セリア。契約を解除しよう」
「殿下——」
「翼を捨てれば、記憶は——これ以上は失われない。記憶を守れる。雲食いのことは、私が——」
「駄目です」
わたしは遮った。声が強く出た。
「契約を解除したら、翼は消えます。門を通れなくなります。始祖の泉にも辿り着けない。代償を消す方法も、雲食いを止める手がかりも、全部なくなる」
「だが、このまま翼を維持していたら——」
「記憶を失い続けます。分かっています」
わたしは目を閉じた。門の前の重い空気が顔に張り付いている。風がない。音がない。世界が息を止めて、わたしの答えを待っている。
故郷を思い出そうとした。母の声。まだ聞こえる。小さくなっているけれど、まだ。「セリア」と呼ぶ声。父の背中。ぼやけているけれど、まだ。日に焼けた首筋は見える。崖の風。薄れているけれど——まだ。
まだ、全部は消えていない。指で砂を掬うように、零れ落ちそうだけれど、まだ手の中に残っている。
「わたしには、まだ時間がある」
目を開けた。エリオット様を見た。空色の瞳に、恐怖と怒りと、わたしへの愛が全部混じっていた。
「翼も記憶も、両方守る方法を見つけに行くんです。それが始祖の庭にある。アリアがそう書き残した。わたしは、それを信じます」
「セリア——」
「あなたがあの日、書庫で調べ続けたのは、わたしの翼と記憶の両方を守る方法を探すためだったでしょう。どちらか一方を犠牲にすることを、あなたは選ばなかった。だから、わたしも選ばない」
エリオット様の瞳が揺れた。あの書庫で一人で古書を読み漁っていた夜のことを、思い出しているのだろう。何日も通い詰めて、インクが指に染みるまで文献を調べた。どちらか一方ではなく、両方を守る道を。
「ここで諦めたら、アリアと同じ結末になります。翼を失い、記憶も戻らず、どこにも属せない。百年前の悲劇の繰り返し。わたしは嫌です。あなたも嫌でしょう」
エリオット様が唇を噛んだ。翼の付け根から、感情の嵐が伝わってくる。恐怖。怒り。諦めたくないという意志。そして、わたしへの信頼。全てが渦巻いて、翼の付け根が熱くなった。
「……ああ。嫌だ」
「なら、行きましょう」
わたしは深く息を吸った。空気が重い。門の前の空気は存在の密度で飽和していて、吸い込むと肺に石を積まれるようだった。けれど、息は吐ける。吐けるなら、吸える。生きている限り、前に進める。
わたしは精霊に向き直った。消えかけの翼を、意志で広げた。透明に近い羽根が、かろうじて形を保っている。門の青白い光が翼を透過して、身体の影が薄くなった。
「わたしの翼は確かに消えかけています。でも、まだ消えていない。半分でも翼がある限り、わたしは飛ぶ者です」
精霊が黙った。目のない顔が、わたしに向けられている。時間が引き伸ばされたように感じた。門の光の脈動が止まった。空気の重さが増して、立っているだけで膝が軋んだ。
エリオット様が一歩前に出ようとした。わたしは手で制した。振り返らなかった。振り返ったら、エリオット様の顔を見てしまう。あの心配そうな空色の瞳を見たら、覚悟が揺らぐかもしれなかった。
わたしは門に向かって歩いた。翼が揺れた。透明な羽根が、門の青白い光に溶け込みそうになった。足が石を踏む感触。ブーツの底が石柱の根元を蹴る。崖を駆けるときと同じ感覚。一歩ずつ。確実に。石柱の表面の古代文字が、わたしが近づくにつれて脈動を速めた。心臓の鼓動に合わせるように。いや、わたしの心臓がこの文字に合わせているのかもしれなかった。
リーナが後方で息を止めているのが分かった。振り返らなくても。
けれど、足は止めなかった。
門に触れた瞬間、全身に光が走った。翼の残された部分が輝いた。痛みはない。むしろ、温かい。翼の付け根に、始祖の泉から来るような、古い温もりが広がった。
精霊が、口の端を持ち上げた。笑みのような形。千年の間、何人がこの門の前で立ち止まったのだろう。何人が引き返したのだろう。
「面白い人間だ」
精霊の声に、千年分の孤独が滲んでいた。ここで何人を見送り、何人を退けたのだろう。この精霊は、門を守りながら、ずっと待っていたのかもしれない。翼の有無ではなく、意志の有無で門を叩く者を。
門が開いた。
青白い光の膜が割れ、その向こうに、緑の島が広がっていた。瑞々しい草原。白い木々。銀色の水面。始祖の庭。
そして、島の中央に——銀色に光る巨大な泉が見えた。泉の光が空気中の水分を照らし、島全体が柔らかな霧に包まれていた。霧の中に虹が見えた。小さな虹。泉の光が水蒸気に屈折して生まれた、自然の虹。
わたしの目が熱くなった。五日間の旅の果てに見た、この光景。美しかった。美しいという言葉では足りなかった。
わたしはエリオット様とリーナの手を掴んだ。三人で、門を越えた。足が光の膜を踏み抜いた瞬間、全身にぬるい温もりが走った。
背後で、精霊の声が聞こえた。
「翼は空に在らず。お前の言う通りだ、崖の娘よ」
振り返ったとき、精霊はもういなかった。門だけが、静かに、ゆっくりと閉じていった。門の光が薄れ、石柱がただの古い石に戻っていく。
前だけを見た。門の向こうの空気は、外とはまるで違っていた。温かく、湿っていて、肌に吸い付くような密度があった。草の匂いがした。土の匂いがした。空の上にいるはずなのに、地上の匂いがした。わたしの故郷の匂いに似ていた。
泉が、わたしたちを千年間待っている。