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翼なき妃と双翼の契約

第21話 第21話「始祖の泉」

第21話

第21話「始祖の泉」

# 第21話「始祖の泉」

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始祖の庭は、想像していた場所とは違った。

廃墟を覚悟していた。千年の歳月に蝕まれた遺跡を。途中の浮遊島で見た崩れかけた石柱や、苔に覆われた壁画のような、時間に負けた場所を想像していた。けれど、門の向こうに広がっていたのは、瑞々しい緑の楽園だった。

草原が柔らかく波打ち、見たことのない花が咲き乱れている。花弁が透明で、光を通すと虹色に光る不思議な花。風に揺れるたびに、鈴のような音が微かに聞こえた。花の音なのか、風の音なのか、区別がつかない。木々は幹が白く、葉が銀色で、風が吹くたびに鈴のような音を立てた。枝が触れ合う音が重なって、楽園全体が歌っているように聞こえた。

空は雲海の外にいるはずなのに、穏やかな青が広がっている。日差しは温かいが、暑くない。空気が澄んでいて、深く吸い込むと肺の底まで光が入ってくるような感覚があった。時間が止まっているように静かだった。鳥の声もない。虫の音もない。けれど、寂しくはなかった。

そして、中央に泉があった。

直径は十歩ほど。水面は完全な鏡面で、空を映していた。けれど、映っている空は今の空ではない。もっと古い、もっと深い空の色。銀色の光が水底から湧き上がり、水面にさざ波を立てている。泉の縁には白い石が敷かれていて、苔がその隙間を緑に染めていた。

泉に近づくと、空気が変わった。温度ではなく、密度が変わった。呼吸するたびに、何か古いものが肺に入ってくる感覚。千年分の記憶が水に溶けて、その蒸気を吸い込んでいるような。

「触れてみるか」

エリオット様が訊いた。翼の付け根から伝わる感情は、緊張と期待が混じっていた。

わたしは頷き、泉の縁に膝をついた。白い石が膝に食い込んだ。苔の生えた石の表面は湿っていて、膝を通じて水の冷たさが伝わってきた。けれど、冷たさの奥に、温もりの層がある。石が泉の温度を吸っているのだ。

水面に指先を浸した。波紋が広がった。銀色の水面に、わたしの顔が映っている。五日間の旅で疲れた顔。けれど、目だけは光っていた。

温かい。体温と同じくらいの、穏やかな温度。指先から、微かな脈動が伝わってきた。生きている水。心臓の鼓動のように、水が指先を押している。水の表面が指の周囲だけわずかに盛り上がって、水滴が指を這い上がるように動いた。生きている。この水は、千年前から、ここで脈打ち続けていた。

背後でリーナが息を呑んだ。「泉が光っている——指が触れた場所から——」。泉の光が強くなっていた。わたしの指先を中心に、銀色の光が放射状に広がっている。

世界が変わった。

わたしは泉の中にいた。水中ではなく、記憶の中に。

目の前に、人が立っていた。翼を持たない男。土で汚れた手。太い腕。日に焼けた顔。顔は若いのに、目だけが深く老いている。何百年分もの時間を見つめてきた目。

始祖だ。

空の国の創建者。そして——地上の人間。

「お前に、本当のことを教えよう」

始祖の声は、精霊のように頭の中に響いた。けれど精霊の声よりも温かかった。土の匂いがした。太陽で温められた土の、懐かしい匂い。

「わたしは地上の人間だった。翼はなかった。空に憧れ、山の頂から空を見上げて暮らしていた。鷹を見て、雲を見て、あの高さに手を伸ばしていた。ある日、意志の力だけで、空に跳んだ。翼は後から生えた。空に上がった後に、意志に応えて」

わたしは息を呑んだ。わたしと同じだ。崖の上で空を見上げていた。鷹を見ていた。この人は、わたしと同じ場所から始まったのだ。谷間の国の崖で、わたしも同じことをしていた。鷹が旋回する空を見上げて、あの高さに手を伸ばしていた。届かないと知りながら。

「翼が先ではない。意志が先だった」

「そうだ。翼は身体の器官ではない。意志の結晶だ。空を目指す意志が形を取ったもの。だから本来、代償など存在しない」

「では、なぜ——」

「後の世の者たちが、恐れた」

始祖の目が悲しみを帯びた。太い眉の下の目に、千年分の悲しみが沈んでいた。

「地上の者が空に上がれるなら、空の民の特権が失われる。翼の独占が崩れる。だから、契約を改竄した。地上の記憶を代償として要求する呪いを、本来の契約に上書きした。『空に属するなら、地上を捨てよ』と」

わたしの身体が震えた。怒りと悲しみが同時に押し寄せた。代償は、契約の本質ではなかった。後から付け加えられた、人為的な呪い。権力を守るために作られた鎖。

「始祖の泉は、元の契約を記憶している。呪いの層を洗い流すことができる」

「洗い流す——」

「泉に全身を浸し、自分の意志で宣言せよ。『わたしは空と地上の両方に立つ者だ』と。呪いは、分断の上に成り立っている。空と地上を繋ぐ意志が、呪いを無効化する」

始祖の姿が薄れ始めた。輪郭が光に溶けていく。

「ただし、泉の外には、もう一つの問題がある」

「雲食い」

「そうだ。あれもまた、分断が生んだものだ。空から追い出された地上の民の怨念が、千年をかけて凝集した。雲食いを止めるには、空と地上の和解が必要だ。——お前は、そのための人間だ」

始祖が消えた。最後に見えたのは、土で汚れた手だった。地上の人間の手。わたしと同じ、翼なしで空を目指した人の手。

目を開けた。泉の縁にいた。指先が水に浸かったまま。エリオット様とリーナが心配そうに覗き込んでいる。エリオット様の翼が緊張で硬く畳まれていた。リーナの琥珀色の瞳が涙で滲んでいる。

「セリア、何が——」

「全部、聞きました」

わたしは立ち上がった。膝に白い石の跡がついていた。身体が軽い。翼は相変わらず消えかけている。けれど、答えは見つかった。

「殿下。代償は——本来の契約には存在しないものでした。後の世の者が、空の特権を守るために付け加えた呪いです」

エリオット様の目が見開かれた。空色の瞳に、衝撃と怒りと、それから安堵が走った。

「泉に浸かれば、呪いを洗い流せます。ただし——」

わたしは泉の向こう、島の縁の先に目をやった。そこでは雲が黒く染まっていた。雲食いの領域。黒い霧が島の外縁をじわじわと侵食しかけている。

「雲食いも止めなければ。あれもまた、分断が生んだものだと、始祖が言いました」

リーナが地図帳をぎゅっと胸に抱いた。目が赤くなっていたが、声は安定していた。

「全部、繋がっていたんですね。契約の代償も、雲食いも」

「ええ。空と地上を分断したことが、全ての始まり」

エリオット様が泉に目を向けた。銀色の水面が揺れている。泉の光が彼の翼を照らし、金混じりの銀色が水面に映っていた。

「セリア。泉に入るのは——」

「明日」

わたしは静かに言った。急いではいけないと、直感で分かった。泉の力は強い。始祖の記憶を見ただけで、身体が揺れた。体力を回復してから臨むべきだった。

「今夜は、ここで休みましょう。明日、わたしが泉に浸かります。そして——雲食いの核を、止めに行きます」

エリオット様が「分かった」と頷いた。反論しなかった。翼の付け根から、わたしの判断を信頼する温もりが伝わってきた。

始祖の庭の夜空に、星が一つずつ灯り始めた。ここの星は、アルシエルで見るものより大きく、近く見えた。手を伸ばせば触れられそうなほどに。泉の水面に、星の光が落ちて、銀色のさざ波を立てた。

答えは見つかった。あとは、行動するだけだった。

三人は泉の傍で横になった。草の上は柔らかく、身体を預けると全身の緊張が解けていくのが分かった。五日間、岩場と洞窟の硬い地面で寝ていた身体には、この草原の柔らかさは信じられないほどの贅沢だった。草の匂いが鼻を包んだ。故郷の草原の匂いに似ていた。けれど、もっと甘く、もっと古い。千年分の朝露を吸った草の匂い。

空気は温かかった。始祖の庭は、旅人に優しい場所だった。不思議と虫がいない。代わりに、透明な花弁の花が、夜になると淡い光を放っていた。蛍のように。光の粒子が空中に漂い、三人を柔らかく照らしている。

エリオット様がすぐ隣に横たわっていた。腕が触れそうな距離。翼を広げたまま目を閉じている。傷ついた翼の先端が、泉の光を受けてわずかに輝いていた。灰色の部分が、少しだけ薄くなっている気がした。泉の近くにいるだけで、翼の回復が進んでいるのかもしれない。

リーナは泉の反対側で、地図帳を枕にして丸くなっていた。小さな翼が身体を覆うように畳まれていて、安心しきった子どもの寝姿に見えた。

わたしは目を閉じて、明日のことを考えた。泉に浸かれば、呪いが解ける。記憶が戻る。翼が変わる。

そしてその先に、雲食いとの対峙が待っている。

翼の付け根が微かに温かかった。エリオット様の感情ではなく、泉から届く温もり。千年前の始祖の意志が、まだここに生きている。

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