第17話
第17話「雲の下の世界」
# 第17話「雲の下の世界」
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最初の遺跡は、三番目の浮遊島にあった。
二日間の飛行で、わたしたちは五つの浮遊島を渡り歩いた。島ごとに風の癖が違い、空気の温度が変わった。ある島は湿っぽく苔の匂いがして、着地した途端に靴底がぬるりと滑った。ある島は乾いて岩の粉が舞い、息を吸うと喉の奥がざらついた。二つ目の島には水場があり、岩の割れ目から湧き出す水は驚くほど冷たくて、手を浸すと指の感覚が消えた。三番目の島は、他の島より大きく、緑が多かった。遠くから見たときに、灰色ばかりの浮遊島群の中で、そこだけが暗い緑の塊のように見えた。
灰色の岩肌を蔦が覆い、崩れかけた石柱の間に、古代の壁画が残されていた。風雨に晒されて色褪せてはいたが、描かれた絵は鮮明だった。石の表面に指を当てると、凹凸が深く刻まれている。ただ塗っただけでなく、石を彫ってから色を入れたのだ。千年残ることを前提に作られた壁画。
空の民と地上の民が、手を取り合っている壁画。
「これは——」
リーナが地図帳を開きながら声を上げた。目が輝いていた。古い知識に触れるとき、この子の目は変わる。普段の怯えが消えて、好奇心だけが残る。風がページをめくろうとするのを、手で押さえている。
「古代の庭園群です。アルシエルが閉鎖的になる前の時代、空の民が地上と交流していた頃の遺跡。空と地上の民が一緒に暮らしていたんです」
壁画には、翼を持つ者と持たない者が入り混じって描かれていた。翼の有無に格差はなく、手を繋ぎ、肩を並べている。食卓を囲み、子どもたちが翼のある子もない子も一緒に遊んでいる絵もあった。翼のある者が地上の者を背負って飛んでいる絵。地上の者が空の者に果物を差し出している絵。互いが互いに与え合っている。今のアルシエルとは全く違う世界の姿。わたしは壁画の前に立ち尽くした。こんな時代が、かつてあったのだ。石壁に触れると、千年分の風雨を吸った冷たさが指先に伝わった。けれど、描かれた人々の手と手が重なる部分だけ、石の表面がわずかに温かい気がした。気のせいだろう。けれど、そう感じた。
翼のある子どもが、翼のない子どもの手を引いて空に浮かんでいる絵があった。二人とも笑っている。下の方には大人たちが見上げて手を振っている。翼の有無を気にしていない。当たり前のこととして。わたしの胸の奥が、理由の分からない懐かしさで疼いた。見たことのない時代なのに、見たかった光景だった。
「双翼の契約の原型だ」
エリオット様が壁画の一部を指した。翼を持つ女性が、翼のない男性の背中に手を当てている。男性の背中から、淡い光が伸びている。その光は虹色のように見えた。色褪せているが、かすかに。
「最初の契約は、こうだったんだ。空の民が地上の民を空に招く。翼を分け与える。そこに代償など——」
エリオット様の声が途切れた。壁画の隣に、別の絵が描かれていた。翼を持つ民が城壁を築き、地上の民を城壁の外に追い出している絵。空と地上の分断。交流の終わり。城壁の絵は、交流の絵よりも新しい時代に描き足されたものだった。色の質が違う。後から上書きされた分断の歴史。
「いつから変わったんでしょう」
わたしの問いに、誰も答えなかった。エリオット様の翼が硬く畳まれていた。自分の国の歴史の暗部を目にした人間の顔をしていた。リーナは壁画の城壁の絵に指を這わせて、何か古代文字の注釈を探していたが、見つからなかったようだ。
風が遺跡の石柱を鳴らした。低い、笛のような音が、壁画の間をすり抜けていった。千年前の風が、同じように石柱を鳴らしていたのだろうか。交流の時代にも、分断の時代にも、風だけは変わらずここを吹き続けた。
◇
二日目の夜、焚火を囲んだ。
浮遊島の洞窟で、リーナが採ってきた苔茸のスープを作ってくれた。空の国にしか生えない菌類で、ほのかに甘い。噛むと苔の渋みが最初に来て、飲み込む頃にじんわりと甘さが広がる。空の国でしか味わえない不思議な味だった。温かいスープが喉を下りていくと、身体の芯から力が戻ってくるのが分かった。二日間の飛行で、身体は思った以上に消耗していた。肩が凝り、翼の付け根が重だるい。翼を動かす筋肉が悲鳴を上げている。
洞窟の壁は湿っていて、焚火の光を反射して橙色に輝いていた。壁の表面に小さな結晶のようなものが散在していて、光を受けるとちらちらと瞬いた。天井から水滴が時折落ちて、ちゃぽん、と小さな水溜まりに波紋を描いた。水滴が落ちるたびに、焚火の光が波紋の上で踊った。
エリオット様が火の番をしながら、わたしの隣に座った。焚火の熱が頬を温め、翼の羽根が炎の色を映して橙色に揺れた。リーナは少し離れた場所で地図帳を広げ、明日のルートを確認している。古代文字を指で辿りながら、時折唇で読み上げている。
「セリア」
エリオット様の声が、焚火のぱちぱちという音の合間に、静かに響いた。わたしの名前を呼ぶ声には、いつも特有の柔らかさがある。けれど今夜は、その柔らかさの裏に刃が隠れているような緊張が混じっていた。
「はい」
「母の声は、まだ聞こえるか」
わたしの手が止まった。スープの杯が、指の中で傾いた。エリオット様は火を見つめたまま、静かに訊いた。翼の付け根に、恐怖と覚悟が混ざった感情が伝わってきた。訊くことを恐れながら、訊かずにはいられない感情。
気づいていた。わたしの翼が時折薄くなること。記憶の欠落が始まっていること。
嘘をつこうとした。「大丈夫です」と言おうとした。唇を動かしかけて、止まった。この人に嘘はつけなかった。翼の付け根が繋がっている以上、感情の嘘は伝わってしまう。「大丈夫」と口にした瞬間、付け根が「大丈夫ではない」と叫ぶ。そんな矛盾を、エリオット様に突きつけることはできなかった。
「……声は、まだ聞こえます。でも、花の名前を一つ、忘れました」
声に出すと、現実の重さが一気に増した。言葉にした途端、「忘れた」という事実が、空気中に固まって落ちた。
エリオット様の手が、わたしの手を握った。強く。痛いほど。杯がこぼれそうになったが、構わなかった。エリオット様の手は温かくて、けれど指先だけが冷たかった。
「その花の名前を、私に教えてくれ。私が覚えておく」
「殿下——」
「君の記憶を、私が覚えておく。全部。花の名前も、崖の色も、母上の笑い方も。君が忘れても、私が覚えている。それで繋ぎ止める」
涙が出そうになった。けれど堪えた。ヴェントの女は涙を——
いや、今は、そんな家訓よりも。
「白い花。五枚の花弁。黄色い花芯。甘い匂い。花弁の裏に細い筋があって、陽に透かすと血管みたいに見えた。母が教えてくれた名前が、思い出せないんです」
エリオット様は黙って聞いた。一語一語を刻みつけるように。それから、わたしの手を両手で包んだ。焚火の熱と、エリオット様の手の温度が混じって、わたしの冷えた指先をゆっくり溶かしていった。
「白い花。五枚。黄色い芯。甘い匂い。筋がある。母上が教えた名前」
エリオット様が復唱した。一語一語、声に出して。記憶に深く刻むように。
「始祖の庭に着いたら、必ず取り戻す。約束する」
焚火の向こうで、リーナが鼻を啜っているのが聞こえた。聞いていたらしい。地図帳を顔に寄せて、涙を隠そうとしている。
翼が、温もりで少し広がった。エリオット様の感情が、付け根から伝わってくる。怒り。悲しみ。そして、それを全部飲み込んだ上での、静かな決意。決して揺るがない、岩のような意志。
わたしは目を閉じた。母の声を思い出そうとした。まだ聞こえる。「セリア」と呼ぶ声。優しくて、少しだけ厳しくて。朝、崖に走りに行く前に「気をつけて」と言う声。
まだ、聞こえる。指を伸ばせば届く距離に。
けれど、翼の色は、昨日より、少し薄くなっていた。焚火の光を透かして、向こう側の壁が微かに見えた。
洞窟の入り口から、夜風が一筋入り込んできた。焚火の炎が横に傾いて、わたしたちの影が壁の上を大きく揺れた。三人の影が重なって、一つの大きな影になった。リーナの影には、小さな翼の輪郭が見えた。エリオット様の影には、銀色の翼が。わたしの影の翼は——ほとんど見えなかった。薄くなっている翼は、影すら薄い。
消えかけの翼。消えかけの記憶。あと何日、わたしはこの両方を保てるのだろう。
焚火の薪が崩れて、火の粉が舞い上がった。洞窟の天井に向かって上がった火の粉が、一瞬だけ星のように光って、消えた。わたしはその光を目で追って、そのまま目を閉じた。明日も飛ばなければならない。身体を休めなければ。
眠りに落ちる寸前、母の声が聞こえた気がした。「セリア」と。遠くから。薄い壁の向こうから。まだ、聞こえる。まだ。