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翼なき妃と双翼の契約

第16話 第16話「旅立ちの朝」

第16話

第16話「旅立ちの朝」

# 第16話「旅立ちの朝」

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レイヴン殿下は、予想通り、反対した。

「国を空けるのか」

大広間で、エリオット様と向き合ったレイヴン殿下の声は、いつもの冷静さの中に、明確な怒りが混じっていた。黒銀色の翼が大きく広がり、朝の光を遮っている。その影がエリオット様の上に落ちていた。広間の蝋燭が揺れて、二人の影が床の上で重なったり離れたりした。

朝の大広間には、まだ夜の冷気が残っていた。石壁が夜間に蓄えた冷たさを放出していて、肌がざわりと粟立った。柱と柱の間から差し込む朝陽は薄く、蝋燭の炎を透明に見せるほどの弱さだった。けれど、二人の間に立ち込める緊張は、空気の温度とは無関係に、熱い。

「雲食いが迫っている今、皇子が国を離れるなど——」

「国を守るために行くんだ、兄上」

エリオット様は引かなかった。銀色の翼を硬く畳んだまま、灰色の瞳を真っ直ぐに見返している。声の底に力がこもっていた。いつもの穏やかなエリオット様ではない。旅を決意した人間の声だった。

「始祖の庭に、雲食いを止める手がかりがある。防衛隊では対処できないことは、昨夜で明らかだ。翼の力で押し返せる相手ではない」

「ならば別の方法を探せばいい。古い伝説に縋るのは、皇族の判断とは呼べん」

レイヴン殿下の声は冷たかったが、その冷たさの質が、わたしの知っている政治的な冷徹さとは違っていた。計算ではなく、本気で引き留めている。弟を危険な旅に送り出したくない人間の声だった。

エリオット様も、それに気づいただろう。翼の付け根から伝わる感情が、一瞬だけ揺れた。けれど、すぐに固まった。

「伝説ではない。百年前の記録に基づいている。アリアの手記に、始祖の庭に答えがあると書かれていた」

レイヴン殿下の灰色の瞳が細まった。アリアの名を聞いて、表情に微かな動揺が走った。百年前の悲劇を、この人も知っているのだ。長い沈黙が落ちた。大広間の蝋燭が音を立てて燃えている。蝋が溶けて台座を伝い、固まる音が静寂の中で妙に大きく聞こえた。柱の影が二人の間に伸びて、境界線のように見えた。

わたしはエリオット様の少し後ろに立っていた。口を挟むべきか迷った。けれど、これは兄弟の会話だった。わたしが割って入るべきではない。翼の付け根を通じて、エリオット様の感情だけを静かに見守った。

沈黙を破ったのは、レイヴン殿下だった。低く、短く。

「行け。ただし、戻らなければ——私が全てを引き受ける。それだけだ」

それは、許可ではなかった。挑戦だった。そして同時に、兄としての最後の矜持だった。お前がいなくても国は回る、と言っている。けれどその声の底に、かすかに、別の色があった。弟の覚悟を試す兄の目。あるいは、弟が帰ってくることを前提にした、信頼の裏返し。

エリオット様は一礼した。深い礼だった。宮廷の儀礼ではなく、弟から兄への、個人的な敬意のこもった礼。レイヴン殿下は目をそらし、窓の方を向いた。その横顔に浮かんだ表情は、一瞬だけ、灰色の瞳の男のものではなかった。弟を見送る兄の顔だった。窓から差す朝陽が、その顔の半分だけを照らして、もう半分を影に沈めていた。

出発の朝、わたしは寝室で革のブーツを履いた。故郷から持ってきた、崖駆け用のブーツ。アルシエルの繊細な絹の靴とは違う。分厚い底に金具がついた、無骨な履き物。革は使い込んで飴色に変わっていて、母が繕ってくれた継ぎ当てが踵の内側にある。けれど、これが一番安心できた。この靴底の感触が、足の裏から全身に安定を伝えてくれる。

靴紐を結ぶ指が、少しだけ震えた。旅の緊張ではない。昨夜の雲食いの記憶が、まだ身体に残っていた。手のひらの擦り傷が、紐に触れるたびに痛んだ。

「セリア様、その靴、宮殿では見たことないです」

リーナが荷物を背負いながら目を丸くした。旅装のリーナは、いつもの侍女服ではなく、動きやすい短い上衣と脚絆を着けていた。背中の小さな翼が、荷物の隙間から覗いている。

「故郷の靴よ。わたしの足に一番合う」

「かっこいいです」

リーナが笑った。小さな翼が、少し嬉しそうに揺れた。緊張の中でも笑えるこの子の強さが、わたしには眩しかった。

荷物は軽くした。食料は五日分。水は雲から採れるとエリオット様が教えてくれた。地図帳と、リーナの古代文字の辞典。それから、アリアの手記。百年前の皇女が最後に書いた一行が、わたしたちの道標になる。わたしは枕元に置いていた銀色の羽根——最初に翼が消えたとき残っていた一枚——を、上衣の内ポケットに入れた。お守りのつもりだった。合理的な理由はない。けれど、この羽根がなかったら、わたしはあの夜、翼を諦めていたかもしれなかった。

アルシエルの南門——浮遊都市の外縁にある出発台——に、三人が揃った。南門は宮殿から最も遠い位置にあり、普段は交易船の発着に使われている小さな石の台座だった。手すりに錆びた鉄の輪が残っていて、かつて船を繋いでいた痕跡があった。台座の石には古い方位の刻印が磨り減って残っている。

エリオット様は旅装を整え、銀色の翼を風に馴染ませている。革の肩当てをつけ、腰に短剣を差していた。皇子の礼装とは全く違う姿。けれど、この姿の方が、この人には似合っている気がした。翼が朝の風を読んで、微かに角度を変えている。旅の風を確かめるように。

わたしはブーツの紐を締め直した。リーナは両手で古い地図帳を抱えていた。胸に抱きしめるように。お守りのように。地図帳の角が胸に食い込んでいるのを気にする余裕もなく、ぎゅっと握りしめている。

「準備はいいか」

「はい」

「は、はい!」

リーナの声が裏返った。エリオット様が少しだけ笑った。リーナの小さな翼が緊張で硬くなっていたが、エリオット様の笑顔を見て、ぱたぱたと少し動いた。この子の翼は本当に正直だ。

出発台の石が、朝陽に温められていた。足の裏から伝わる微かな熱。背後のアルシエルからは、朝の市場が開く音が聞こえていた。商人の掛け声、荷車の軋み、子どもの笑い声。日常の音。守らなければならないもの。

飛び立つ瞬間、わたしの翼が揺らいだ。一瞬だけ、羽根の色が薄くなった。半透明に近い銀色が、朝陽を透かした。記憶の欠落が翼に影響し始めている。あの花の名前がまだ思い出せないことと、翼の薄さが繋がっている。

エリオット様が気づいたかもしれない。空色の瞳がわたしの翼をちらりと見た。けれど、何も言わなかった。その沈黙が、信頼なのか、見て見ぬふりなのか、わたしには分からなかった。

三人は雲海の上に飛び出した。風が一気に強くなり、髪が後ろに流れた。アルシエルの銀色の塔が、背後に遠ざかっていく。その西端は黒く変色していた。美しい都市の傷。歯を抉られたような不規則な輪郭。

前方には、見たことのない風景が広がっていた。

雲海の下に、浮遊島の群れ。大小さまざまな島が、雲の中に半分隠れるようにして漂っている。最も近い島は拳ほどの大きさに見え、遠い島は砂粒のように小さい。灰色の岩肌に白い苔が張り付き、崩れかけた建造物の影が見える島もあった。建造物は風と雲に削られて角が丸くなっていて、人がいなくなってからどれほどの歳月が経ったのか想像もつかなかった。地図によれば、この浮遊島群を伝いながら南西に進めば、始祖の庭に辿り着ける。

風が変わった。アルシエルの穏やかな風とは違う、荒々しい潮流のような風。温度も湿度も読めない、予測不能な気流。アルシエルの風が川のせせらぎだとすれば、この風は海の波だった。方向が定まらず、突然強くなったかと思えば、次の瞬間に止む。わたしの翼が風を読もうとして、少しよろめいた。身体が左に傾き、慌てて体幹で立て直す。

「大丈夫か」

「平気です。風が違うだけ。——慣れます」

エリオット様が頷いた。けれど、その空色の瞳が、わたしの翼を注意深く見ていた。翼の色が薄くなっていることに、やはり気づいているのだろう。

最初の浮遊島が近づいてきた。灰色の岩肌に、白い苔のような植物が張り付いている。古い遺跡の柱が数本、傾いたまま立っていた。柱の表面には、風雨に削られた文字の痕跡がかすかに残っている。ここにも、かつて人がいたのだ。

旅が、始まった。

振り返ると、アルシエルはもう、雲の向こうの銀色の影になっていた。塔の輪郭がぼやけて、雲と混じり合おうとしている。

わたしはブーツの底で浮遊島の岩を踏みしめた。故郷の崖と同じ感触が、足の裏から伝わった。硬くて、冷たくて、けれど確かな地面。石の表面には細かな凹凸があり、ブーツの底のすり減った溝がそれを噛んだ。この靴底は、故郷の崖の岩を何百回も蹴って削られたものだ。その同じ靴底が、今、空の上の浮遊島の岩を踏んでいる。空の上にいるのに、足元は地面。空と地上の境界にいるのだと思った。

わたし自身がそうであるように。

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