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翼なき妃と双翼の契約

第15話 第15話「雲食い」

第15話

第15話「雲食い」

# 第15話「雲食い」

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それは、出発の前夜に来た。

旅の荷物を詰め終えて、寝台に入ったのが夜半前だった。翌朝の出発に備えて早く眠ろうとしたが、頭が冴えて寝付けなかった。天井の石の模様を目で辿りながら、始祖の庭のことを考えていた。五日間の飛行。浮遊島を渡り歩く旅。何が待っているか分からない。けれど、行かなければならない。代償のこと、雲食いのこと、全ての答えがあそこにある。

うとうとしかけた頃だった。

宮殿が揺れた。地震ではない。空中都市アルシエルを支える雲の基盤そのものが、振動していた。寝台が軋み、壁にかけた絵が傾いた。天井から細かい石粉が落ちてきた。枕元に置いていた水の杯が倒れ、冷たい水が指先にかかった。

わたしは寝台から飛び起きた。翼が反射的に開く。窓の外を見て、息が止まった。

アルシエルの西端が、喰われていた。

最初は目の錯覚だと思った。暗闇のせいで雲が見えないだけだと。けれど、違った。白い雲海の縁が、黒い波に呑まれるように消えていく。暗い塊——雲の中で見たあの影が、今や地上からも見える大きさになって、雲を食い破りながら浮遊都市に迫っていた。黒い波打ち際のような侵食線が、じりじりと東に進んでいる。雲が黒い波に触れると、音もなく消える。吸い込まれるのでもなく、溶けるのでもなく、ただ、なくなる。

風の匂いが変わっていた。いつもの甘い雲の香りが消えて、代わりに金属を舐めたような、冷たく乾いた味が空気に混じっている。

「セリア様!」

リーナが駆け込んできた。寝衣のまま、裸足で。顔が真っ白だった。琥珀色の瞳が暗闇の中で大きく見開かれている。小さな翼が激しく震えていた。

「雲食いです——おばあちゃんの話の——来たんです!」

宮殿の大広間に、緊急の召集がかかった。真夜中の大広間は蝋燭の光だけが灯り、昼間とはまるで違う雰囲気だった。柱の影が長く伸び、天井の闇が低く迫って見える。

エリオット様は既にそこにいた。鎧の上から翼を広げ、レイヴン殿下と並んで地図を睨んでいる。二人が並んで立つ姿を初めて見た。対立していた兄弟が、危機の前で肩を並べている。銀色の翼と黒銀色の翼。色は違うが、翼を広げる角度が同じだった。同じ親に育てられた証だ。

「西端の雲基盤が三割侵食された。このままでは六時間以内に市場区が崩落する」

レイヴン殿下の声は冷静だった。危機においてこそ、この人は揺るがない。表情に動揺がない。灰色の瞳が地図を読み、指が侵食線を辿っている。その冷徹さが、今は頼もしかった。

「防衛隊を出す。翼の大きい者から順に、雲食いの侵食を押し返せ」

防衛隊——アルシエルの精鋭飛行部隊——が出動した。大きな翼を持つ兵士たちが、黒い侵食の縁に向かって飛び立っていく。銀色や白の翼が夜空に広がり、月光を受けて光った。

だが、結果はすぐに出た。

最悪の結果が。

兵士たちが雲食いに近づいた瞬間、翼から光が吸い取られた。銀色の翼が灰色に変わり、力を失い、兵士たちが次々に落下し始めた。雲食いは翼の魔力を喰らう。翼が大きければ大きいほど、吸い取られる量も多い。精鋭であればあるほど、逆に無力になる。大広間の窓から、兵士たちが落ちていくのが見えた。翼を失って落下する人の姿は、鳥が撃ち落とされるのに似ていた。

「翼が——使えない!」

「落ちる、誰か——!」

悲鳴が雲海に響いた。夜の空気を切り裂く叫び声が、いくつも重なった。銀色の翼が次々に灰色に変わり、光を失っていく。夜空に無数の灰色の影が散らばった。翼を失った兵士たちが、腕を振り回しながら落ちていく。声にならない悲鳴。風を掴もうとする手。

わたしは走った。考える前に、身体が動いていた。

大広間を飛び出し、回廊を駆け抜け、バルコニーの手すりを跳び越えた。裸足だった。靴を履く時間が惜しかった。石の回廊が足裏に冷たい。けれど、感覚が鋭くなった。素足の方が足場を読みやすい。故郷の崖を素足で駆けていた頃の感覚が蘇った。落下する兵士たちに向かって飛んだ——のではなく、走った。翼を畳み、塔の外壁に張り付き、突起を蹴り、足場を飛び移りながら降下した。

崖駆けだった。

故郷の崖と同じだ。足場は不安定で、風は強く、一歩間違えれば落ちる。石の突起は苔で滑り、風は横殴りに吹きつけ、視界は暗い。でも、わたしの足は覚えている。この動き方を、身体が知っている。靴底が石を蹴る感触。次の足場を見つける視線の動き。重心の移し方。全部が、故郷の崖で叩き込まれた記憶だった。

最初の兵士に追いついた。雲の端でかろうじて引っかかっている男を、手を伸ばして引き上げた。腕の筋が軋んだ。兵士の身体は重い。鎧を着ているからだ。翼は使えない。だから腕の力と足場の確保だけで。

「妃殿下——!」

「黙って掴まりなさい!」

二人目。三人目。塔の外壁を跳び、浮遊通路の欄干を足場にし、落下した兵士を一人ずつ安全な場所に引き上げた。手のひらの皮が擦れて、熱い痛みが走った。汗で手が滑る。息が上がり、視界の端が暗くなりかけた。翼のない動きが、翼を失った兵士たちの命綱になった。

四人目を引き上げたとき、腕が限界だった。筋が痙攣して、指が開きそうになる。息が荒く、喉の奥が鉄の味がした。指先の感覚が薄れている。

「セリア!」

エリオット様の声が上から降ってきた。銀色の翼で降下してくる。だが、雲食いの近くに来た瞬間、翼の光が弱くなった。銀色が灰色に染まり始めている。

「駄目です、殿下! これ以上近づいたら翼を喰われます!」

「だが——」

「わたしは大丈夫です。翼がなくても動ける。これはわたしにしかできないことです」

わたしの声は掠れていた。けれど、はっきりと届いた。エリオット様が唇を噛んだ。翼の付け根から、苦悩と信頼が同時に流れ込んできた。けれど、退いた。わたしの判断を信じてくれた。

夜明けまでに、落下した兵士は全員救助された。死者はいなかった。重傷者が三名。全員、翼の魔力を吸われた影響で、しばらく飛べない状態だった。

雲食いの侵食は、夜明けとともに速度を落とした。陽の光を嫌うのか、それとも別の理由があるのか。朝陽が雲海を照らし始めると、黒い侵食線の進みが鈍くなり、やがて止まった。

わたしは大広間の壁にもたれて座り込んでいた。全身の筋肉が悲鳴を上げている。腕が震えて、水の杯を持てない。手のひらが擦り傷だらけで、触れるものすべてがひりひりと痛んだ。崖駆けをこれほど長時間やったのは、故郷でも一度もなかった。

エリオット様が隣に座った。何も言わず、わたしの手を取った。手のひらの傷を見て、顔が歪んだ。けれど、何も言わなかった。代わりに、翼の付け根から安堵と感謝と、そして決意が伝わってきた。

エリオット様が翼の付け根から送ってくれた安堵の温度が、じわりとわたしの身体に広がった。温かくて、優しくて、けれどその奥に、怒りが煮えている。自分が何もできなかったことへの怒り。わたしが危険に身を晒したことへの怒り。

「始祖の庭に行かなければ」

エリオット様が言った。

「雲食いを止める鍵もそこにある。代償の問題だけじゃない。このままではアルシエルが——」

「はい」

わたしは頷いた。

「明日、出発しましょう」

大広間の窓から、朝陽が差し込んだ。光が蝋燭の炎を透明にした。西端の雲は削り取られたように黒く変色し、都市の輪郭が歪んでいた。美しかったアルシエルが、傷ついている。

リーナが毛布を持ってきてくれた。わたしの肩にかけながら、小さな声で言った。

「セリア様。翼がなくても、こんなに強い人がいるんですね」

「強くないわ。足が震えていたもの」

膝が笑っていた。今立ち上がったら、間違いなく転ぶ。指先の感覚もまだ戻っていない。身体は正直に限界を訴えている。

「でも、走りました」

リーナが笑った。泣きながら、笑った。琥珀色の瞳が涙で光っていた。

わたしも笑った。全身の痛みを忘れて笑った。そして目を閉じた。

背中の翼が、朝陽の中で、微かに光った。疲労で縮んでいたが、消えてはいなかった。まだ、ここにある。

手のひらの痛みが、じんじんと脈打っていた。擦り傷に朝の冷気が沁みて、痛みの波が指先まで広がった。けれど、その痛みは、わたしが何かを守れたことの証だった。

ふと気づいた。翼がなくてもできることがある。いや、翼がないからこそできることがある。翼を持つ兵士たちには、雲食いの近くで翼を使えなかった。けれど、わたしは崖駆けで走れた。翼がない時代に身につけた技が、翼を持つ人々を救った。あの貴婦人たちが嘲った「翼のない妃」が、今夜、翼のある兵士たちを助けた。

皮肉だと思った。けれど、嬉しかった。自分の出自を、自分の過去を、恥じなくていい。そう思えた。

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