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神滅天穹の地味リーマン異世界録

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の光が、王宮の高窓から斜めに差し込んでいた。

借り受けた客間の天蓋付きベッドは、シングル住まいの三十二歳には広すぎる。シーツの繊維の手触りは、量販店の千二百円ものとはまるで違った。指で軽く擦ると、ひやりと滑らかな冷感が返ってくる。絹だ、たぶん。

「……解放、ね」

寝起きの口で、ウィンドウを呼び出した。視界の右上に、半透明の文字が並ぶ。

『《神滅天穹》第一位階・星環展開 解放済(出力制限:未設定)』

未設定。気の利いた制限くらい、最初から仕込んでおいてくれ。

ノックが鳴った。

「サクラ・ソウマ様。お召し物をお持ちいたしました」

女官の声に従って扉を開けると、白い衣装が両腕いっぱいに抱えられていた。襟元に銀の刺繍、袖口に細い金の線。営業三課の吊るしスーツとは比べ物にならない仕立てだ。袖を通してみると、肩の落ち方が、ほぼ完璧に体に合っていた。寸法を測られた覚えはない。誰かが寝ている間に観察していたのか、あるいは魔法の類か。

「お似合いにございます」

女官は、笑わずにそう言った。鏡には、地味リーマンの面影をどうにか残した男が一人、白い裾を引いて立っていた。

夕刻、宴の広間へ案内された。

天井の高さは、東京駅丸の内の中央ドームを思い出させる規模だった。シャンデリアに灯された蝋燭は、数えるのを諦めるくらいの本数。長卓が三列、壁に沿って並び、銀の燭台と白い磁器がきらきらと光を弾いている。匂いは香木と、それから香辛料の効いた肉。胃の奥がきゅっと鳴った。終電帰りのおにぎり二個が、もう遠い昔の食事に思える。

「サクラ・ソウマ様」

奥から、ティアルナが歩み寄ってきた。昨夜とは違う、薄紅のドレス。髪に生花の小さな白い花が編み込まれている。瞳の縁が、ほんの少しだけ濡れて見えた。緊張しているのか、こちらに対する期待なのか、たぶん両方だ。

「よく、お似合いです」

「ええと、ありがとう、ございます」

敬語の使い方を、頭の中で組み直す。三十二年かけて摩耗した営業敬語と、こちらの宮廷敬語は、明らかに語尾の長さが違う。

王が玉座の段から声を発した。

「異界の客人、サクラ・ソウマに、まずは杯を」

銀の杯が、騎士の手から手渡された。注がれているのは、深い紅の葡萄酒。香りは、ワインリストで見れば軽く五桁を越えるであろう類のものだった。一口含むと、舌の上で果実の重さがゆっくりほどけていく。営業接待で出る安酒の、酸味で口が痺れる感じはどこにもない。

「お見事な飲みっぷりに」

横でティアルナが、小さく拍手した。可笑しそうに、頬を染めて笑っている。なぜか、その表情の方が、酒よりも頭にくる。

宴は順序立てて進んだ。前菜、汁物、肉、もう一皿の肉。貴族たちの視線は、料理よりも明らかにこちらの白い装束へ集まっていた。値踏みする目。営業先で「前任の方の方がよかったね」と言ってきた専務の目に、よく似ている。

異変は、第三皿が下げられた直後に起きた。

広間の窓が、外側から弾けた。ガラスの破片が銀の燭台を薙ぎ、火が一斉に揺らぐ。悲鳴。女官の何人かが床に伏せ、騎士たちが剣を鞘から抜き放つ重い金属音が、矢継ぎ早に重なった。

窓枠の向こうから、ぬっと、骨が押し入ってきた。

骨、としか言いようがなかった。竜のものらしい長い首、白く磨かれた肋骨の籠、関節を留める黒い靱帯。眼窩には、ぼうっと紫の火が灯っている。背丈は、低く見積もっても五メートル。広間の床石を、爪先で砕きながら踏み込んできた。

床石が砕ける音は、地下鉄工事の振動を一段重くしたような響きだった。一歩ごとに、シャンデリアの吊り鎖が小刻みに揺れ、長卓の銀器がカチャカチャと哀れな悲鳴を上げる。むき出しの骨格からは、湿った土と、粘土を長く地中に置き忘れたような、嗅ぎ慣れない匂いが立ち上っていた。鼻の奥に、薄く錆びた鉄の感触が残る。

「竜骨魔だッ」

老魔術師が叫んだ。「位階五、討伐推奨は熟練騎士団三隊以上――」

「説明は後だ、爺ッ」騎士団長らしき男が前に出る。「殿下を下がらせろッ」

鎧の擦れる音、駆け抜ける足音、女官たちが裾を引きずる音が、一斉に重なった。それでも、骨と骨が乾いた音で軋み合う気配だけは、肉のない顎の奥から断続的に漏れて止まない。一拍ごとに、足元の床石に細かな亀裂が走るのが、革靴越しに伝わってきた。

ティアルナの腕を、女官が引いた。だが、王女は動かない。むしろ、こちらの袖の端を、指先でそっと摘まんでいた。

──これは、試されてるな。

頭の冷えた部分が、即座に判定を下した。歓迎の宴の最中に、都合よく現れる「位階五の魔物」。仕込みか、想定外の災厄か、どちらにせよ、ここで何もしなければ、明日からの交渉カードは半分削れる。

右手を、かざした。

特に作法は分からない。ただ、ウィンドウの中の『星環展開』という文字を、心の内で軽く触れる。

頭上に、蒼い輪が一つ、立ち上がった。

音は、なかった。光だけが、ふわりと宙に咲いた。掌の感覚も、特に熱くも冷たくもない。ただ、視界の右上のウィンドウが、一段、明るく点滅する。まるでレジのバーコードが正しく読み取られた瞬間の、淡白な反応だった。

直径、二メートルほどの円環。表面に、見たこともない文字が金線で走る。輪の内側から、空気が冷えていく。広間の温度が一気に三度ばかり下がった気配。誰かの吐く息が、白く尾を引いた。

天井の蝋燭の炎が、一斉に同じ角度へ傾ぐ。シャンデリアの吊り下げ鎖が、輪の側へ引き寄せられるように、わずかに撓んだ。テーブルクロスの裾が、ふわりと持ち上がる。重力の方角が、ほんの一瞬だけ、あの輪を中心に書き換わったように見えた。

「……ッ、なんだ、その紋様は」

老魔術師が、杖を取り落としそうになっている。

竜骨魔が、首を持ち上げた。眼窩の紫が、こちらを正面から捉えた瞬間、輪から、ひとすじの光条が、降りた。

降りた、としか書きようがなかった。爆発でも、斬撃でも、貫通でもなく、ただ蒼い縦線が一本、上から下へ落ちただけだ。それなのに。

竜骨魔の首から指先まで、輪郭を保ったまま、骨が、崩れた。砕けたのではない。粉になった。さらに後ろの広間の壁が、外壁ごと、半円形に抉り取られる。城壁の向こうに、夕暮れの空が、ぽっかりと現れた。

煙すら、立たなかった。

焦げた匂いも、火薬めいた残臭も、何ひとつ漂わない。ただ、削り取られた石の断面が、磨いた鏡のように滑らかに光を返しているだけだった。あれだけの破壊の跡が、まるで巨人が指の腹で撫でて消したように、清潔だった。床に散った粉だけが、白い絹のような艶で、夕陽を受けて鈍く輝いていた。

光条は、すうっと収まり、頭上の輪も静かに閉じる。あとに残ったのは、抉られた城壁の縁から落ちる小石の音と、誰かの、息を呑む音だけ。

広間の全員が、立ち尽くしていた。

剣を抜いた姿勢のまま固まった騎士。盆を取り落とした女官。半開きの口で杯を持ったままの貴族。王ですら、玉座の段の途中で、足を止めている。

俺自身も、半分くらい、固まっていた。

──あ、これ、出力過多だ。

頭の中で、淡々と反省会が始まった。星環展開、第一位階。第一、でこれか。第三位階まで未解放、第四以下封印、と書いてあった意味が、ようやく腑に落ちる。あれは、封印しないと国一つくらい吹き飛ぶやつだ。

「サクラ……様」

声がして、視線を落とした。

ティアルナの瞳から、涙が、一筋、頬を伝っていた。

恐怖で泣いているのではないと、すぐに分かった。瞳の奥が、燭台の火よりも明るく揺れている。両手が、こちらの白い袖の端を、強く握りしめていた。指の関節が白くなるくらい、強く。

「……ああ、本当に。本当に、来てくださったのですね。私たちの星に」

縋るような、というよりも――。

崇拝、と呼ぶ以外に表現を持たない眼差しだった。三十二年生きてきて、こんな目で自分を見られたことは、ない。営業先で、家族に、上司に、誰にも、ない。

スーツの内ポケットでスマホが、こんな世界でなお律儀に震えた。明日の朝礼の通知だ。

──いま、それを気にしている場合じゃないだろう。

抉られた城壁の向こうで、夕闇が、急速に色を深めていった。広間の沈黙の底から、ぽつり、ぽつりと、誰かの膝が床につく音がする。一人、二人、三人。最後に、玉座の段で、王が、こちらに向けて、片膝を、つこうとしていた。

袖を握る指の力が、強くなる。

俺の駒の動かし方は、たぶんもう、取り返しがつかない方向に舵を切った。

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