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神滅天穹の地味リーマン異世界録

第3話 第3話

第3話

第3話

袖を握る指の力が、薄い絹越しに、骨の硬さで伝わってきた。

ティアルナの爪が、こちらの白い袖の縫い目に食い込む。痛くはない。ただ、その指先の温度だけが、抉られた城壁から流れ込む夕風と対照的に、はっきりと熱かった。

「あなた様こそ、私の救い」

呟きは、悲鳴の残響が消えきらない広間の底に、よく通った。

涙はもう一筋増えていた。頬の輪郭を、燭台の火よりも遅い速度で滑り落ちていく。化粧の粉が、ほんのわずか、その筋に沿って白く流れていた。歓迎の宴のために整えられた、計算された美しさが、今、はっきり崩れている。

「殿下――」

女官が、一歩近づいて、また下がった。誰の指示も受けていない退避だった。王女と、白い装束の異界人。その二人の間に張った空気の密度に、誰も入っていけない。

俺は、自分の右手に、まだ感覚が戻っていないことに気づいた。

熱くも冷たくもない。痺れているのですらない。ただ、力を抜いて指を閉じても、掌の中央で何かが微かに脈打っている。バッテリー残量の表示が、消費を示すのに、目盛は一つも減っていない。そんな種類の違和感だった。

──第一位階で、城壁を半分。

頭の中で、もう三度目になる反省会が回り出した。星環展開、出力制限・未設定。あの注釈の意味は、もう疑いようもない。歓迎の宴を試金石にしておきながら、こちらに何の取扱説明書も寄越さなかった連中の顔を、視界の隅で確かめる。

老魔術師は、両手で杖を抱えるようにして、立ち尽くしていた。白髭が、震えていた。膝をつくでもなく、跪くでもなく、ただ、信じられないものを見届けようとする目で、こちらの指先と、抉られた城壁を、交互に見比べている。

王は、玉座の段の途中で、片膝の動きを止めていた。

つくのか、戻るのか。指揮官として、どちらが正しいかを、たぶん、迷っている。営業会議で、こちらの提示した条件に上司が顔色を変えた、あの一瞬と、構造はよく似ていた。値段の桁を、向こうがまだ把握しきれていないときの、あの止まり方。

ティアルナが、もう一度、袖を引いた。

「サクラ・ソウマ様。どうか、お顔を、私に」

腕を引いた方向に、視線を合わせる。間近で見ると、瞳の縁に張った涙の薄膜の奥に、夕焼けと、こちらの白い襟と、二つの色がきれいに映り込んでいた。

「あなた様こそ、私の救いにございます」

二度目。今度はもう、声に揺らぎはなかった。

竜骨魔の粉が、夕風に巻かれて、広間の床を、白絹のように滑っていった。

「客人」

王の声が、ようやく動いた。玉座の段から、ゆっくりと、一段ずつ下りてくる。靴の鐺が、石を打つ。一拍ごとに、広間の人間が、ひとり、またひとり、姿勢を直していった。

「お見事な、と申し上げる場面なのだろうが。正直に言う。我々は、卿の力を、過小に見積もっておった」

「過大ではなく、ですか」

「過小だ」

老魔術師が、ようやく杖の柄を持ち直した。白髭の震えが、まだ収まっていない。杖の先で石床を一度、二度と軽く叩き、息を整えてから、こちらに向き直る。

「……サクラ・ソウマ殿。儂は、王宮魔術院首席、ガルゾス・エル・ハインドルと申す。先のご無礼、まずは詫びる」

「いえ」

「先ほど儂は、竜骨魔を『位階五』と口走った。修正する」

灰色の眉が、ぐっと寄った。

「あれは、位階六相当だ。三隊では足りぬ。本来であれば、近隣諸国の合同討伐軍を組まねば、街の半分を犠牲にして、ようやく」

ガルゾスは一度、息を継いだ。

「それを、第一位階の、しかも未調整の発露で。──殿。お聞きしたい。卿のステータス窓に、《神滅天穹》第一位階の名は、何と書かれておる」

質問の意図が、すぐには読めない。が、隠す段階は、もう過ぎている。視界の右上に、ウィンドウを呼び出した。

「『星環展開』です。星の環、と書いて、星環」

「そうか」ガルゾスの口から、湯気のような短い吐息が漏れた。「《神滅天穹》は、千年前に世界を割った大魔王を、ただ一人で討ち取ったとされる、神話級の固有スキルにございます。第七位階まで備え、その第七の名は、ただ一語、『天穹閉塞』」

「天穹、というのは、空のことですな」隣で、騎士団長らしき男が、ようやく口を挟んだ。「天の穹を、閉ざす……?」

「文字通りにございます」ガルゾスは頷いた。「神を滅する、と書いて、神滅。位階の名にあらず、固有スキルそのものの名。──サクラ・ソウマ殿。卿のお持ちの力は、神を、滅する位階を、含んでおりまする」

神を、滅する。

文字面は読んでいた。意味は、たぶん、まだ受け止め切れていない。なるほど、と頭の冷えた部分だけが、相変わらず情報整理を続ける。第一位階で位階六の魔物を粉に出来るなら、第二、第三、と数えていけば、最後の一つが、神を、と書かれても、桁の感覚としては筋が通る。

「……ちなみに、その伝承の固有スキル、過去に何人ほど、所持者が」

「一人にございます」

ガルゾスは、即答した。

「千年前に、ただお一人。以後、世界に、二人目は、現れておりませぬ」

広間の貴族たちが、ぴくり、と肩を揺らした。誰かが、息を吸い損ねて、咳き込む。

俺は、自分の口の端が、ほんの少しだけ、上がっていることに気づいた。

──まずいな。

これは、たぶん、高揚、というやつだ。

地味リーマン佐倉壮真、三十二年。誰かの駒で終わるのか、と歩道橋の下で呟いた、あの夜の自分が、千年に一人、と告げられている。頬の内側を、奥歯で軽く噛んだ。鉄の味は、しなかった。だが、そうしないと、表情の方が、勝手に整わなくなりそうだった。

王が、もう一段、こちらに歩み寄った。

「サクラ・ソウマ殿」

呼び方が、客人から、殿に変わっていた。商談で、相手の言葉遣いが「御社」から名指しに切り替わる、あの種類の進行に似ていた。次に出てくる条件は、必ず、向こうが本気で取りに来るやつだ。

「卿の力を、これからの我が国の――いや、この大陸の、要として、お借りしたい」

「要、ですか」

「ヴァルディスタ王国国家騎士団、その上に立つ職位として、近年、我らは『総帥』なる位を空席にしておった。歴代、適任者が、現れなんだ故」

王の銀髪が、窓の風で、ひと房だけ持ち上がる。視線は、こちらの目の高さに、しっかりと据えられていた。

「卿に、その椅子を」

──来た。

頭の冷えた部分が、ほぼ反射で、契約書のチェック項目を脳内に並べ始めた。職位、報酬、任期、辞職要件、移動の自由、対外的な発言権、有事の指揮権の限界。営業三課で五年間、上司の口癖に頭を下げ続けてきた経験が、こんなところで地続きに役立つとは、思わなかった。

「総帥、というのは、具体的には」

「卿の指示の下に、近衛、辺境、海岸、各騎士団あわせて三万を統括する。王宮に居室を構え、王家の血族同等の保証をもって遇する。妃となる方の人選は、卿の意向に応じる」

血族、同等。最後の一語の重みは、こちらの世界で言えば、終身雇用と社用車と社宅と、全部まとめてオプションのフルパッケージ、というあたりだ。三十二年、月末の家賃の引き落としに毎回ヒヤヒヤしてきた人間に、突然、屋敷ごと積まれた格好になる。

ティアルナが、こちらの袖を、もう一度、握り直した。

──握り、直した。

最初に握ったときと、握り直した今とで、力の入り方が、別物になっていた。最初は縋るような指。今は、「離さないでください」と無意識に言っている指。頬の朱は、引いていない。引くどころか、王の最後の一語に合わせて、わずかに濃くなった。

妃の人選。なるほど、と頭の冷えた部分が、控えめに納得した。総帥の椅子と、王家との縁談。一度に両方を提示してくる手筋は、雇用契約に独占禁止の縛りまで滑り込ませてくる、ベテラン人事のやり口に、よく似ている。

広間の貴族たちが、息を詰めて、こちらの口元を見ていた。

老魔術師ガルゾスが、杖の握りを、また直した。視線は、王のものと、わずかに角度が違う。何かを、留保している。賢者として、神話級スキルの所持者を一国に縛ることの是非を、彼自身もまだ、計りかねているように見えた。

「お返事は、すぐでなくとも構わぬ」

王は、ゆっくりと両手を背に組んだ。

「今宵は卿の客間で、ゆるりと、お考えいただきたい。ただ――」

ただ、の二文字に、抉られた城壁を背景に置いた声の重みが、わずかに乗った。

「卿の力は、もはや、この国の地図の外には、置いておけぬ」

地図の、外には、置けぬ。

つまり、出ていく選択肢は、こちらが用意した条件の側には無いです、と、丁寧に伝えてきている。営業先で「他社さんとも比較中で」と切り出した瞬間に、相手の専務が席を立とうとした、あの圧の出方と、構造が同じだった。

俺は、ゆっくりと、息を吐いた。

頭の冷えた部分が、控えめに、メモを取る。総帥就任の打診、即答せず。妃の話、保留。地図の外には置けぬ、の含意、要・解釈。

「お話、確かに、伺いました」

腰を、少し折った。営業敬語と宮廷敬語の、ちょうど真ん中あたりの角度を狙った。

「客間にて、考えさせていただきます」

王が、満足げではない、満足げに見える表情を作った。商談を、二割引で持って帰られた相手が、せめて顔は崩さない、あの作り方だった。

ティアルナが、袖を握ったまま、静かに、俯く。父の言葉と、こちらの返答の間で、瞳の縁の涙が、もう一度、ゆっくりと盛り上がってきていた。

廊下に出る頃には、もう、月が、王宮の塔の角に掛かっていた。

竜骨魔の白い粉が、いまだに広間の空気にうっすら残っていて、客間まで戻る途中、何度か白い装束の袖に、薄く付着しては、また風に攫われていく。

案内役の女官が、客間の扉を開け、礼をして、下がる。重い扉が閉まった瞬間、灯した蝋燭の炎が、ふっと一段、低くなった。

俺は、扉に背を預けたまま、ゆっくり、ずるずると、絹のシーツの縁に、座り込んだ。

総帥。三万騎の上。王家、同等。妃、選び放題。文字面だけ並べ直すと、地味リーマンの三十二年が、二分で買い戻せそうな条件である。

ウィンドウを、呼び出した。

『《神滅天穹》第一位階・星環展開 解放済(出力制限:未設定)/第二位階:星槍降下 未解放/第三位階:天穹閉塞 未解放/第四〜第七位階:封印』

第三位階の名前は、空を、閉ざす、と読む。

「……籠、ねえ」

呟いた声が、誰もいない客間の天井に、吸い込まれていった。

オフィスの蛍光灯の下で、誰かの駒で終わるのか、と歩道橋に向けて呟いた口で、今度は、王宮の絹のシーツに向けて、言い直した形になった。駒の動かし方を覚えてやる、と昨夜は思った。今日、覚えたのは、駒の動かし方ではなく、駒を欲しがる側の、手の伸ばし方だった。

扉の向こう、回廊の奥で、靴音が一度だけ立ち止まった。

足音は、こちらの客間の前で、迷うように、十秒ばかり、止まっていた。それから、絹擦れの衣の音と一緒に、ゆっくりと、遠ざかっていく。

俺は、扉に預けた背を、もう一度、強く押し付け直した。

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