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神滅天穹の地味リーマン異世界録

第1話 第1話

第1話

第1話

コンビニ袋の角が、指の付け根の同じ場所に食い込んでいた。中身はおにぎり二個と冷えた缶コーヒー。重さにすれば五百グラム程度のはずなのに、終電帰りの腕には鉛のようにぶら下がる。

「俺の人生、誰かの駒で終わるのか」

独り言は、夜のアスファルトに吸い込まれて消えた。三十二歳、佐倉壮真、中堅商社の営業三課。今夜も上司の口癖が耳の奥に張り付いている。「お前は黙って数字を持ってこい」――資料の見出しが一字違っていただけで一時間説教され、訂正のメールを送り終えたのが終電の十分前。歩道橋を駆け下り、青信号の点滅する横断歩道に踏み出した瞬間――、喉の奥に、鉄の味がした。

膝が崩れる感覚も、地面に倒れ込む衝撃も、こない。視界が暗転して、次に瞼を持ち上げたときには、もう別の場所にいた。

燭台の油が焦げる匂い。背中が冷たい石床に貼り付いている。両側で甲冑の擦れる音、金属の膝当てが石を打つ重い響き。鼻の奥には、油の匂いに混じって、古い羊皮紙と乾いた香木のような香りが、薄く幾重にも層を成して漂っていた。空気そのものが、ビルの蛍光灯の下で吸ってきたものとは、明らかに違う。湿度も、温度も、酸素の濃さすら。目を開けると、天井に届きそうな高さの円柱が並び、その奥から絹擦れの音が近づいてきた。柱の表面には、見たこともない文字の連なりが、金箔で細密に刻み込まれている。

「召喚の主よ……お目覚めにございますか」

若い女の声だった。視線を上げると、銀髪を高く結い上げ、襟元に金糸の刺繍が走った蒼いドレスを纏った少女が、こちらを見下ろしている。瞳の色は淡い水色。後ろに控えた老人――白髭を腰まで伸ばした、いかにも宮廷魔術師という風体の男――が、杖の先で石床を一度だけ叩いた。

「異界より召されし御方。ようこそ、ヴァルディスタ王国の謁見の間へ」

先月寝落ちしながら見た深夜アニメの一場面に、酷似していた。だが頬を抓ってみると、皮膚はちゃんと痛みを返してくる。指先には、缶コーヒーの結露の冷たさが、まだ薄く残っていた。

夢じゃない。

立ち上がろうとして、脚に力が入らないことに気づく。座り込んだまま、状況を整理する。残業帰りに横断歩道で意識を失った。トラックか何かに撥ねられたのかもしれない。だとすれば、ここは病院の集中治療室で、目の前の王女様は薬で見ている幻覚――ではない。集中治療室に、甲冑を着た騎士は十人も並ばない。

「あの。お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」

銀髪の少女が、絹のスカートを軽く摘まんで一礼した。所作の一つひとつに、金のかかり方が透けて見える。

「ヴァルディスタ第一王女、ティアルナ・エル・ヴァルディスタにございます」

「……佐倉壮真です」

「サクラ、ソウマ、様」

舌の上で名前を転がすティアルナの声に、心臓が一拍だけ跳ねた。地味リーマンの自分の名前を、こんな風に呼ばれるのは三十二年生きてきて初めてだ。

そのとき、視界の右上に、半透明のウィンドウが立ち上がった。

『名前:佐倉壮真/種族:人間(異界人)/固有スキル:《神滅天穹》――未解放/称号:無し』

「……は?」

思わず声が漏れる。RPGの初期画面じゃないんだぞ、と内心で突っ込みつつ、指先でウィンドウを撫でてみた。半透明の文字が、指の動きに合わせてわずかにスクロールする。タッチパネル仕様らしい。ご丁寧なことだ。表示の右下には、見たことのないアイコンがいくつか並んでいる。地球儀めいた紋様、剣を交差させた印、そして閉じた本の絵。きっと、それぞれ機能が割り当たっているのだろうが、今は触らない方が良さそうだ。下手に押して謁見の間で爆発でも起こされたら、洒落にならない。

固有スキル《神滅天穹》。読みは、しんめつ・てんきゅう、で合っているのか。

「お主、いま何が見えておる」

老魔術師が杖の柄を握り直した。声に、明らかに緊張が混じっている。

「……ステータス画面、みたいなものが」

「固有スキルの名は」

答えていいのか、一瞬迷った。だが、迷うこと自体が無駄だ。これだけの規模の召喚儀式を組める連中相手に、新人サラリーマンの嘘なんか五秒で見抜かれる。営業先で「持ち帰って検討します」と言ったときの、相手の目の温度。あれと同じものが、今、老魔術師の目に宿っている。誤魔化しは効かない種類の視線だ。

「神滅天穹、と書いてあります」

読み上げた瞬間、空気が、止まった。

燭台の炎が一斉に跳ね上がり、ティアルナの頬が、薄紅から濃い朱へとはっきり染まっていく。老魔術師の杖が、ぽとり、と石床に落ちた。膝をついていた騎士たちが、揃って息を呑む音。誰かの兜の中で、こくり、と唾を飲み下す音まで、はっきり聞こえた。それくらい、室内は静まり返っていた。

「……神を、滅すると、書いて」ティアルナの唇が震えていた。指先がきゅっとドレスの腰布を握り込む。「サクラ・ソウマ様。今、口にされたお名は、千年前に世界を割ったという伝承の、極みにございます」

極み。なるほど、と頭の冷えた部分が状況を整理する。ハズレ召喚どころの騒ぎじゃなさそうだ。

謁見の間の奥、玉座の段から重い足音が下りてきた。長い銀髪をひと房だけ頬の前に垂らした、五十がらみの男。胸甲の中央には、二頭の獅子が向き合う紋章が彫り込まれている。歩を進めるたび、外套の裾が石床を擦り、鞘に納まった長剣の鐺が、こつり、こつり、と一定のリズムを刻んだ。

「父上――いえ、陛下」

ティアルナが慌てて姿勢を正した。父上、で確定。つまりこの人がこの国の王様だ。

「ヴァルディスタ国王、シグルド・エル・ヴァルディスタである」

低く、抑えた声だった。視線が壮真の頭の上、ちょうどウィンドウが浮いている辺りに、確かに焦点を合わせている。普通の人間には見えていないはずのウィンドウが、この王様にはわずかに認識できているらしい。

「異界より参られた客人よ。問いを許す。今、卿のスキル欄には、何位階まで表記されておる」

「位階、ですか」

言われて、もう一度ウィンドウに視線を戻す。スキル名の下に、さっきまでは見えなかった薄い灰色の文字列が並んでいた。

『《神滅天穹》 第一位階:星環展開 未解放/第二位階:星槍降下 未解放/第三位階:天穹閉塞 未解放/第四〜第七位階:封印』

「……七位階まで、見えています。第三までは『未解放』、第四から下は『封印』表示です」

答えると、王の顎の筋肉がはっきりと強張った。老魔術師が、杖の柄を両手でぎゅっと握り直して、絞り出すように呟く。

「七位階の完全開示……陛下、確かに、伝承の通りでございます」

完全、という単語の温度を、壮真は黙って肌で受け取った。脇の下に、じっとり汗が滲んでいる。背骨に沿って、冷たい一筋がゆっくり下りていくのが分かった。スーツの内ポケットでスマホが、こんな状況だというのに律儀に振動していた。明日の朝礼の通知だ。鳴るな。今そのアラームは、要らない。

「客人。明日の宵、歓迎の宴を催す。卿の力の片鱗を、我らに示してはくださらぬか」

明日。早い。

だが、断ってこの場の空気が和らぐとも思えなかった。それに、提示された七位階のうち一つでも実用できれば、こちらの交渉材料にはなる。三十二年間、頭を下げて回るだけの営業として培ってきた嗅覚が、ひりつくように告げていた。これは、断らない方の選択肢だ。

「……了解しました。出来うる限り、応じます」

頭を下げると、ティアルナがぱっと顔を上げ、両手を胸の前できゅっと握り合わせた。

「ありがとう、ございます。サクラ・ソウマ様」

震える声だった。王が鷹揚に頷き、控えていた女官にティアルナを部屋へ下がらせるよう指示する。退出の際、王女は一度だけ振り返って、こちらと目を合わせた。朱の残る頬、それから――何かを乞うような、縋るような視線。

扉が閉まる寸前、ウィンドウの隅で、見たことのない通知が一行、点滅した。

『《神滅天穹》第一位階・星環展開 解放条件「彼女に応じよ」――達成』

解放、と書いてある。

頭上の何もない空間に、すうっと、ごく淡い蒼の輪が一瞬だけ立ち上がり、誰にも気づかれないまま、また消えた。

「俺の人生、誰かの駒で終わるのか」

オフィスで吐いた台詞を、今度は石床に向けて呟いた。

明日の宵までに、この駒の動かし方を、覚えてやる。

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