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竜骨の墓所、鍵を持つ者

第1話 第1話

第1話

第1話

ep1本文を執筆します。

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 曲がった片手剣の鞘の先が、寝返りのたびに屋根裏の梁を擦った。レオは仰向けのまま、薄板を一枚隔てた階下から這い上ってくる炭火と麦酒の匂いを胸いっぱいに吸い込み、それからゆっくりと右手を腰の脇に伸ばす。父が遺した片手剣だ。鞘ごと持ち上げると、刃の中ほどが微かに右に曲がっているのが、握りの捻れだけで分かる。鍛冶屋に持ち込めば「これは打ち直しではどうにもならぬ」と笑われる代物で、それでもレオはこの剣を腰から外したことがなかった。柄頭の革は手のひらの脂で黒ずみ、握り直すたびに父の掌の形をなぞるような窪みが、自分の指にだけ妙に馴染んだ。  北辺境交易都市ガレド。冒険者ギルド〈銅鎖亭〉、三階の屋根裏に間借りして二年。見習い登録から二年。Eランクの徽章は襟元で曇ったままだ。十六の冬を、ここで三度目の朝として迎えていた。 「レオ! 起きな、薪が切れちまったよ」  階下から女将の怒鳴り声が突き上げる。レオは身を起こした。曲がった刃のせいで鞘が右の腿を擦る。その擦過の鈍い感触で、ようやく己が今日も生きていると確かめるのが、ここ二年の朝の儀式だった。屋根板の節穴から差し込む光は、まだ青く凍えていた。

 裏庭の薪割り場では、霜の降りた切り株が鉄のように冷えていた。素手で斧の柄を握ると、皮膚が一瞬張り付き、剝がす拍子にひりつく痛みが走る。指の腹に薄く血の筋が走り、それが息を吐く間に乾いて固まる。 「鈍くなってるねえ、その腕」  向かいの長椅子で煙草を巻いていた老兵ガラドが、片目だけ開けて声を投げた。右脚の代わりに木の義足を突き出した、銅鎖亭の古株だ。煙草の煙が、霜気の中で妙に重く尾を引いた。 「腕が鈍ってるんじゃない。斧が悪い」 「斧のせいにする者は、剣を持っても剣のせいにする」  ガラドは煙を細く吐き、義足の継ぎ目を指で叩いた。 「儂の脚も、最初は剣のせいだと思っとった。十年経って、ようやく己の踏み込みが甘かったと認められた」  レオは答えず、ナラの薪に斧を振り下ろした。狙った節を外し、刃が斜めに食い込む。引き抜くのにまた一呼吸かかる。背中の汗が冷えて、首の後ろで霜と混じり合った。木屑が頬に張り付き、それを払う指先が痺れて感覚を失っていた。三度目に振り上げたとき、肩の付け根が鈍く軋んだ。父が同じ動作をしている姿を、なぜか見たことがない、と気づいた。父は薪割りすら、息子に見せずに死んだのだ。  午前は薪割り。午後は北の雑木林で薬草採取。エルディア大陸の縁、ここガレドでは、これがEランクの仕事だ。〈鼠の尾草〉を一束三銅貨、〈月見草の根〉を十本で銀貨一枚。三年も同じ仕事を続けている老婆たちのほうが、レオの倍は稼ぐ。雑木林の腐葉土は冬でも妙に温く、根を引くと白い湯気のような細い息が地面から立ち上る。レオはその湯気の手前にしゃがみ込み、土に爪を立てるたびに、自分の指がだんだん老婆たちの節くれ立った指に近づいていくような気がした。  夕刻、ギルドの一階に戻ると、酒場の隅では帰還したばかりのCランク冒険者が、北の山脈に眠るという大迷宮〈竜骨の墓所〉の伝承を吹聴していた。第七階梯まで到達した者がついぞ生きて戻った例はないという、いにしえの竜骨で築かれた地下都市の話。卓上には注がれたばかりの麦酒が四杯、泡が崩れる前に、男たちの拳が次々と木天板を打って音を立てる。 「墓所の最奥には、神々の時代より封じられた王の遺骨があると聞くぞ」 「世迷い言だ。あれはただの竜の骨だ」 「だが第七階梯の壁画を見た男が、王都の聖堂で呟いていた——〈骨は今も呼吸している〉とな」  レオはカウンターの端で麦酒の泡を見つめていたが、その耳は一字も逃していなかった。第三階梯〈鏡の回廊〉で四十七人の隊が消えたのが天文二十二年。第五階梯〈骨の橋〉を渡り切ったのは過去三百十二年でわずか九人。——暗唱なら、誰よりもできる。卓に伏した拳の中で、爪が掌に食い込んだ。麦酒の表面に浮かんだ自分の影が、男たちの笑い声に揺れて細切れになり、また合わさる。 「あんた、また聞いてるのかい」  カウンター越しに女将が呆れた顔を寄せた。布巾で杯を拭く手は止めずに、目だけが鋭くレオを射抜く。 「潜らない英雄譚なんて、便所で読む辻札と同じだよ」  返す言葉がなかった。父も同じことを言っていた気がする。——いや、父は何も言わずに北へ発ち、何も言わずに帰って来なかったのだ。レオは麦酒に唇をつけ、苦さで喉を焼いた。泡が舌の奥でぱちりと弾け、その小さな破裂音だけが、男たちの英雄譚から自分を切り離してくれる気がした。

 その夜、ギルドの掲示板に新しい貼り紙が一枚増えた。羊皮紙ではない、木札だ。それだけで簡素な依頼と分かる。木の節がそのまま文字の下に透けて、署名の蝋印は端が欠けていた。 「レオ、こっち」  受付の卓から、エルザが指を二本立ててちょいちょいと招いた。長く伸ばした薄茶の三つ編みを肩から垂らした、レオより三つ年上の受付嬢だ。羽根ペンを耳に挟んだまま、彼女は顎で木札を示す。 「あんた向きの依頼が来たよ」  エルザの細い指が、木札の三行目を指し示す。 『遺跡調査・補助一名募集。報酬・銀貨二十枚。条件・読み書き可、軽装、口の堅い者。集合・明後日寅の刻、北門』  レオは唾を呑んだ。地下迷宮ではない。北の雑木林の奥にある、半ば崩れた古い祠の調査だ。それでも——Eランク見習いが任務札に名を貼るのは、二年で初めてのことだった。木札の文字を読み返すたび、〈読み書き可〉の四文字だけが、なぜか自分のためだけに刻まれたように見えた。 「なんで俺なんだ」  声がかすれた。 「正規パーティが頭数を欲しがってる。荷物持ちでもいいから、文字の読める奴がいい、ってさ」  エルザは少し声を落とした。卓の上で、彼女の指が無意識に羽根ペンの軸を回している。 「同行は、シェナってひとり。……知ってる?」  レオは首を振った。聞き覚えはあった。先月ガレドに流れてきた、黒髪の女剣士。腕は確かだが左腕に古い布を巻いて剝がさない、訳ありの流れ者。酒場の女たちが「あれは王都で何かやらかして逃げてきた」と囁いていた。 「あんたが嫌なら、別の見習いに回すよ」  エルザの声は事務的だったが、視線だけが少し慎重だった。レオの返事を待つ間、彼女は卓の下で短く息を吐き、その息が冷えた空気に白くほどけて消えた。レオは木札の文字をもう一度なぞった。寅の刻、北門。父が消えた門だ。指先が木の節に引っかかり、その微かな抵抗が、踵を踏み出す合図のように感じられた。 「——やる」  声が、思っていたより小さく出た。掌の汗で羽根ペンの柄が滑る。それでもレオは依頼書の末尾に、自分の名を書いた。Lで始まる稚拙な綴りが、この二年で初めて、別の誰かの名前の隣に並んだ。墨の滲みがシェナの名の最後の一画にわずかに触れ、二つの名は紙の上で同じ呼吸をしているように見えた。 「明後日、寅の刻。遅れたら剣で斬られても文句言えないよ」  エルザが復唱し、木札を裏返した。裏には何も書かれていない、ただの木目だけが、ぐるぐると渦を巻いていた。

 屋根裏に戻ったレオは、父の片手剣を膝に置き、曲がった刃の腹を布で拭った。曲がっているからこそ、研ぎ目に油が溜まる。何度拭っても、奥の油は出てこない。父の血か、父より前の誰かの血か、もう確かめようのないものが、刃の中に染み込んでいる。布越しに伝わる金属の冷たさが、薪割りで擦り切れた指の腹をじわりと痺れさせた。  ——寅の刻。同行者、シェナ。  呟くと、口の中で唾が苦かった。北門の向こう、雑木林の奥、半ば崩れた祠。明後日、自分はそこに立っている。立っている自分の姿を思い描こうとして、しかし思い描けたのは父の背中ばかりだった。父の背中が雪に消えていく、二年前の朝の景色。あれを今度は、自分が誰かに見せる側になるのかもしれなかった。  ガレドの夜気が屋根板を冷やし、軋ませる。レオは剣を抱き直し、目を閉じた。眠れる気はしなかった。瞼の裏で、銀貨二十枚の重さと、見知らぬ女剣士の左腕の白い布が、交互に揺れていた。  階下では遅い客の歌う英雄譚が、まだ続いている。今夜のレオは、もう、それを聞きに降りなかった。

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