Novelis
← 目次

竜骨の墓所、鍵を持つ者

第2話 第2話

第2話

第2話

石畳の凍みが、革底を通して踵に突き上げてきた。レオは夜明け前のガレドを、銅鎖亭の裏口から北へ向かって早足に切っていた。寅の刻の鐘が市庁の塔から三つ尾を引き、その三つ目の余韻がまだ屋根を渡っているうちに、レオの息は白く凍えて頬の脇に流れた。背負った革袋の中で水筒が一度だけ鈍く鳴る。腰に吊った曲がった片手剣の鞘が、歩幅ごとに腿の脇を擦り、その擦過の音だけが街路の静寂に律を刻んだ。  北辺境交易都市ガレド、北門。城壁の門楼は三百十二年前の戦で半ば焼け落ち、今でも石の表面に煤の縞が残っている。父が二年前の冬の朝、雪に背を呑まれていったのも、この同じ門だった。レオは門柱に手をついて呼吸を整え、それからゆっくりと指を離した。手袋越しの石は、指の付け根の骨にまで冷気を打ち込んでくる。掌に石の苔の青臭さが残り、それを鼻先に近づけると、なぜか父の背に背負われた幼い日の記憶を一瞬だけ呼んだ。  門前の広場には、すでに三つの影と、一頭の駄馬が立っていた。

 「来やがった、見習いか」  最初に声を投げてきたのは、首回りに毛皮の襟巻きを巻いた重戦士だった。ベルクと名乗ったその男は、レオより頭ひとつ分背が高く、両手剣の鞘の長さがレオの身の丈の半分はある。  「読み書きできるんだったな、小僧」  「……はい」  「じゃあ荷札と地図をお前が持て。失くしたら指を一本貰う」  ベルクの背後で、薄茶の革鎧を着た弓手の女がくつりと笑った。フランカ、と呼ばれていた。耳の後ろから矢羽根の油の匂いが立ち、それが朝の霜気の中で妙に甘く鼻に絡む。三人目は痩身の軽装、コリンという男で、こちらは口を開かず、レオの腰の曲がった剣を一瞥して鼻で笑っただけだった。  レオは「Eランクの徽章は襟元で曇っている」と自分に言い聞かせ、爪を掌に食い込ませて、笑みらしきものを唇の端に置こうとした。うまくいかなかった。  その時、門楼の影から、もう一つの足音が遅れて広場に出てきた。  黒い外套、黒い髪。背丈は中ほど、肩幅は女にしては張っている。歩幅は短いのに音がしない。その歩き方を見て、レオは不思議と、酒場の女たちの「王都で何かやらかして逃げてきた」という囁きの方を信じる気になった。腰には片手剣が一振り、その鞘は飾りのない黒革で、柄頭だけが古い銀で巻かれている。左腕には肘から手首まで、古い灰色の布が幾重にも巻かれていた。冬の朝に外套の袖を捲っているのは、その布を外気に晒すためか、あるいは隠すためか、判じきれない。  「シェナだ」  短く名乗り、彼女はベルクの「遅い」という舌打ちを、聞こえぬ顔で受け流した。視線が広場を一周し、レオの上で半瞬、止まった。値踏みの目ではなかった。もっと別の——獲物の傷を測るような、あるいは、己の傷を測られないように先に測り返すような、低く据わった目だった。レオは自分の喉が一度だけ鳴る音を、はっきりと聞いた。  「行くぞ。雑木林の奥まで六里、夕刻までに祠の手前に着く」  ベルクが駄馬の手綱を引き、コリンが先頭を歩き出した。フランカは中ほど、レオは荷札と地図を握って最後尾の前——つまり荷物の位置に押し込まれ、シェナは黙ったまま、一番後ろを取った。殿だ。雇われた頭数のはずの彼女が、当然のように殿に立ったことに、誰も異を唱えなかった。レオの背中に、彼女の足音が一定の間隔で続く。聞こえないはずの足音が、聞こえないという形で、はっきりと付き従ってくる。歩き出して一里も行かぬうちに、レオは気づいた。——この女は、ベルクたちより腕が立つ。それを誰よりよく知っているのは、ベルクたち自身だ。

 六里の道のりは、思ったより速く尽きた。雑木林に入ってからは陽が乏しく、霜の解けた腐葉土が革靴に貼り付き、一歩ごとに湿った音を立てた。落葉の下で何かがかさりと逃げる。鼠の尾草の群生をレオが目で拾い、ふたつ折りの腰を伸ばしかけた瞬間、ベルクが舌を打って先を急がせた。Eランクの仕事は、ここでは荷札を読むことに矮小化されていた。  夕刻、半ば崩れた古い祠の手前、〈鴉の沢〉と呼ばれる窪地に野営の輪が組まれた。焚火が起こされ、駄馬が縄で繋がれ、四方に簡易の縄罠が張られる。ベルク、フランカ、コリンの三人は焚火の北側に陣取り、酒の革袋を回し始めた。シェナとレオは、自然と、火の南側——風下に押し出される形になった。煤と松脂の煙が頬を撫で、目に染みた。  「飯だ、見習い」  フランカが固いライ麦のパンと干し肉をひと塊、地面に投げて寄越した。レオは慌てて拾い、土を払った。指の腹に泥と塩の粒が混じり、その塩の粒が爪の隙間に食い込んで、一息ごとにわずかな痛みを刻んだ。  シェナはパンを受け取らず、自分の革袋から堅焼きの黒パンを割り、半分をレオの掌に押し込んだ。  「あっちのは犬の餌だ。こっちにしろ」  声は低く、感情の抑揚をわざと殺したような響きだった。レオが顔を上げると、シェナはもう焚火の方を見ていなかった。視線は、レオの腰——曲がった片手剣の柄頭に注がれていた。柄頭の革は手のひらの脂で黒ずみ、銀の覆輪は半ば剥げ落ちている。彼女はその柄頭を、ほんの三呼吸ほど、じっと見ていた。  「……親父さんのか」  低い声だった。問いの形を装っていたが、答えを必要としていない響きだった。レオは黒パンを噛もうとした顎が止まり、口の中で乾いたパンが舌の上に張り付いた。  「——どうして」  「鞘の留革の縫い目だ。北の縫い方だ。それも、ちょっと前の」  シェナは焚火の枝を一本、爪先で押し込んだ。火の粉が一瞬、彼女の左腕の古布の端を照らし、布の繊維の毛羽が金色に縁取られた。レオはその毛羽を見ないようにして、自分の剣の柄を布越しに握った。父の掌の窪みが、自分の指にだけ妙に馴染んだ。父の名を呼ばれたわけではない。剣を見られただけだ。それなのに、胸の奥でひとつだけ、長く閉じていた節穴の蓋がずれた音がした。  父の剣の柄頭は、二年の間、誰の目にも留まらなかった。酒場の常連も、見習い仲間も、襟元の徽章ばかりを見て、腰の鞘の縫い目までは見なかった。それを、初対面の女が、たった三呼吸で見抜いた。レオは喉の奥で一度息が詰まり、それから黒パンの乾いた破片を、唾で無理に押し下した。胃の腑に落ちたパンが、冷たい石のように腹の底で固まった。  「——父は、二年前の冬に、北へ発ったきり」  言いかけて、レオは口を噤んだ。シェナは続きを促さなかった。代わりに、自分の革袋から小さな砥石を取り出し、無造作に投げて寄越した。砥石は焚火の縁の地面に転がり、薄く煤を被った。  「飯食ったら、あんたの剣、研いどけ。曲がってんのは直らんが、刃だけは立てとけ」  「……研ぎ方は」  「曲がりの内側から外側へ、一定の角度で。鈍角でいい。鋭くしすぎるとあんたの剣は折れる」  短い指示の中に、彼女がこの剣を一度握った人間と知り合いだったかのような確信があった。レオは砥石を拾い、土を布で拭った。砥石の表面はよく使い込まれていて、中央が窪んでいた。誰かの手が、何百回もそこを撫でてきた窪みだった。  その窪みに親指を置くと、自分の指の腹がちょうどそこに沈み込んで、まるで先に窪みの方が形を覚えていたかのようだった。砥石は冷たかったが、その冷たさは、石畳のそれとは違う、繰り返し人の掌で温められては冷え、温められては冷えてきた種類の冷たさだった。レオは砥石をそっと裏返し、もう一方の面にも親指を当てた。そちらにも、わずかな窪みがあった。  火の北側で、ベルクの笑い声が一段大きくなり、誰かが酒の歌を吟じ始めた。レオはその歌を聞かなかった。掌の中の砥石の重さと、シェナの「親父さんのか」という低い声だけが、火の南側に降り積もっていた。

 夜半、月が雑木の梢を白く塗り、霜が外套の肩に薄く積もった頃、シェナが立ち上がる気配がした。彼女は焚火の脇から、半ば崩れた祠の方角——窪地の北の縁に向かって、十歩ほどを音もなく踏み、立ち止まった。レオも釣られて立ち、後ろから二歩離れて並んだ。月光の下、半ば崩れた石の祠の屋根が、鴉の翼の付け根のように黒く輪郭を見せていた。祠の入口は雑草に呑まれ、地面より低く、ぽっかりと黒く沈んでいた。地下へ続く階段の口だ、と一目で分かった。  口の縁の苔が、月光に薄く銀色を帯びて光り、その奥から、土の腐った匂いと、わずかに鉄の匂いが、霜気に押し上げられて立ち上ってくるように感じられた。  「明日、あの口に降りる」  シェナの声が、霜の上を低く滑った。  「先に降りるのはあいつらだ。あんたは私の前を歩け。背中を晒すな」  レオは砥石を握ったまま、階段の黒い口を見つめた。父の剣の重さが、腰の脇でひとつ、ずしりと鳴った。脚が震えていることに気づいたのは、踵が霜の薄い膜を割って、湿った土に沈んだ瞬間だった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ