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竜骨の墓所、鍵を持つ者

第3話 第3話

第3話

第3話

霜が解けかけた窪地の土に、レオの片膝が湿り、ズボン布の繊維を一本ずつ冷気が縫っていった。夜明け前の薄明、〈鴉の沢〉の縁。半ば崩れた祠の入口は、月光が引いたあとも地面より一段低く、ぽっかりと黒く沈んでいた。 「先頭はお前だ、見習い」  ベルクが顎をしゃくった。両手剣の鞘の留革が、朝靄の中で鈍く軋む。 「読み書きできるんだろう。荷札のついでに、足元の罠も読め」  レオは喉の奥で唾を呑んだ。前夜のシェナの「あんたは私の前を歩け」という低い声と、ベルクの「先頭はお前だ」という命令は、たまたま同じ位置を指していた。違う意味で、違う相手を守るために、二人とも同じ場所をレオに指示した。レオは気づかぬふりをして、ただ頷いた。  腰の片手剣は抜かなかった。代わりに左の腰から、油を引いたばかりの短剣を一本、鞘ごと右手に握り直す。曲がった父の剣は、地下祠の天井が低い場所では振れない、と昨夜のうちに見当をつけてあった。短剣の柄革は冷たく、掌の汗を即座に吸って黒く湿った。  階段の口に立つと、土の腐った匂いと、わずかな鉄の匂いが、息を吸うたびに鼻奥を撫でた。シェナは振り返らずに、後方の縄罠の最後の一本を解いている。フランカが矢筒の蓋を確かめ、コリンが松明に火を点けた。松明の煤が、レオの頬の皮膚に薄く纏わりついた。煤は冷たく、皮膚に触れた瞬間に体温で湿り、汗の塩と混じって、唇の端で苦かった。

 最初の十数段は石ではなく、木の踏板だった。三百十二年もの古さに耐えかねて、踵を乗せるたびに撓み、軋む。レオは図鑑で読んだ通り、踏板の中央ではなく端を選んで足を置いた。〈古祠の梯子段は中央が落ちる〉——『辺境踏査図鑑』第七巻、見習い時代に三度繰り返し読んだ一節だった。 「何を遅れてやがる」  すぐ後ろでベルクが舌を打った。 「中央を踏むと、抜けます。端を、ゆっくり」 「ふん」  ベルクは言われた通りに端を踏んだ。忠告に従ったというより、馬鹿馬鹿しいから一応試してやる、という顔だった。それでも従ったのは、二年見習いの読み書きに、ほんのわずか、賭ける気が起きたからだった。  階段が石畳に変わった。地下一層。天井は背を屈めねば頭頂が擦るほど低く、松明の煤がすぐに石を黒く塗った。空気は澱み、苔と古鉄と、もう一つ、獣の毛皮を炙ったような匂いが、奥から薄く流れてきた。レオは胸の中で、その三つ目の匂いの正体を考えまいとした。 「止まれ」  レオは右手を上げた。ベルクが鼻で笑いかけたが、フランカが彼の肘を小突いて止めた。  レオは膝を屈め、石畳に顔を近づけた。松明の灯を借りて、目を細める。三歩先、石畳の継ぎ目の一本だけが、わずかに色が違った。他の継ぎ目には冬でも薄い苔が貼り付いているのに、その一本だけが、苔を擦り取られたように、土色が剥き出しに見えた。 「落とし穴です」 「どこに目印がある」 「継ぎ目の苔の擦れ方です。〈古祠の落とし穴は、開閉のたびに縁の苔が剥がれる〉——図鑑の」 「分かった、もういい」  ベルクは顔をしかめたが、視線はレオの指差す継ぎ目にしっかり吸い付いていた。コリンが背伸びして覗き込み、松明の柄で軽く石畳の手前を叩く。継ぎ目の向こう側で、石板が、ほんの一瞬、半指ほど沈んだ。 「——本物だな」  コリンが初めて口を開いた。声は低く、感心しているのか嫌味なのか、判じきれない響きだった。  シェナが背後で短く息を吐く音がした。それは舌打ちでも、笑いでもない、ただの息の吐き方だった。それでもレオの背中の皮膚が、そこだけ熱を持ったように感じた。爪が、握った短剣の柄に食い込み、革に新しい三日月の刻みを残した。  レオは継ぎ目を避け、石畳の縁を細く伝うように、隊を導いた。フランカが「やるじゃないか、見習い」と小声で投げ、コリンは舌打ちもしなくなった。ベルクは何も言わなかったが、それまでレオの肩を押すように歩いていた歩幅が、半足分だけ後ろに退いた。荷物扱いから、半歩だけ、人扱いに変わった半足だった。  シェナは依然として殿、二歩遅れの位置を崩さない。沈黙のまま、ただ松明の輪の縁を歩いている。一度だけ、彼女がレオの肩越しに継ぎ目を覗き込んだとき、その視線がレオの首筋を掠めた。冷たくはなかった。むしろ、遠い鍛冶屋の炉のような、低く据わった熱があった。

 地下一層の半ばで、二層へ続く下り階段の口が現れた。今度は石造りで、踏板の中央が削れて窪み、何百年もの足跡を貯め込んだような艶を放っていた。階段の脇には、苔生した石碑が一基、半ば倒れかかっている。碑面の文字は風化して読めず、ただ縦に走る溝のいくつかが、レオの目には不思議と意味を帯びかけて見えた。見えかけて、瞬きの間に、ただの溝に戻った。  ベルクが立ち止まり、フランカと目を見交わした。コリンが松明を二本目に取り換え、革袋から細い縄を引き出す。 「ここから先は、俺たち三人で降りる」  ベルクが顎で階段を指した。 「お前と、その黒髪の女剣士は、ここで待ってろ」 「——え」 「足手まといを、二層に連れていける余裕はねえ。荷札と地図を寄越せ。一刻で戻る」  レオは思わず一歩、階段の方へ踏み出した。 「でも、罠の」 「一層は罠だらけだ、二層は別だ。二層から先は俺たちの仕事だ。お前の仕事は、ここで荷物の番をしてることだ」  ベルクの語気には、酒場での嘲りより、もっと事務的な冷たさがあった。荷物の番、という単語が、二年分の屋根裏の埃と一緒に、レオの胸の底にゆっくり沈んでいった。  レオは荷札と地図をベルクの手に渡した。ベルクは羊皮紙の縁を捲り、何かを確かめると、胴の革帯に挟んだ。フランカは矢を一本、矢筒から抜き、弦に番えたまま階段に向かって歩き出した。コリンは松明を高く掲げ、先頭を切った。三人の影が、二層の階段口の闇に、ひとつ、ふたつ、みっつと、順に呑まれていく。最後にベルクが振り返り、シェナに一言だけ投げた。 「面倒見ててくれや、訳ありの姉さんよ」  シェナは答えなかった。彼女の左腕の古布の端が、松明の遠ざかる灯に一瞬だけ照らされて、白く滲んだ。  足音が階段の奥に消えると、地下一層の一角に、急に古い静寂が降りてきた。レオは石畳の上にしゃがみ込み、膝の震えを掌で押さえた。曲がった父の剣の鞘が、しゃがんだ拍子に腿を擦り、その擦過の鈍い感触で、ようやく己が今ここに立ち会っていると確かめられた気がした。 「……よくあることなのか、これ」  ようやく、レオは絞り出すように声を出した。  シェナは石碑の傍に肩を預け、剣を抜かずに、階段の闇の方角を見ていた。 「正規パーティが頭数を欲しがる時は、二通りだ」  彼女の声は、一層の天井の低さに馴染むように、低く抑えられていた。 「数で罠を起爆させるための数。それと、自分らが死ぬ時の身代わりだ」 「……俺は、どっちだ」 「あんたは、たぶん、両方だな」  シェナはそう言って、初めて口の端を、本当にわずかだけ持ち上げた。笑ったのではない。歯を見せたのでもない。ただ、口の片端が一分だけ上がっただけだった。それでもレオは、その一分の動きを、地下一層の煤けた天井の下で、はっきりと見た。

「待ってろ、と言われた以上は、待つ」  シェナは石碑の影に腰を下ろし、剣を膝に置いた。 「ただし、こちらの段取りで待つ。立て、見習い。一層の見取りを、もう一度頭に入れろ。引き返す道を覚えとけ」  レオは立ち上がった。膝の震えはまだ収まらなかったが、立つ動作の中に紛れて、少しずつ、震えの輪郭がぼやけていった。先ほど見抜いた落とし穴の位置を松明の影で確かめ、その手前の継ぎ目を爪で擦って、自分の指の腹に苔の青臭さを移しておく。引き返す時に、暗がりでも指先の匂いで罠の縁を判ずるためだった。  二層の階段の闇からは、最初、何も聞こえなかった。冷えた石壁が、地上の風の音さえ呑み込んでいた。  それから、地下の腹の奥で、石がひとつ、低く軋む音がした。  シェナの肩が、僅かに、剣の柄の側へ寄った。

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