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穀潰しと呼ばれた単騎の剣

第3話 第3話

第3話

第3話

鉄扉の錠前が軋んだ音で、眠りの底から引き上げられた。

「起きろ、穀潰し。査問だ」

副隊長ベルンの声が、夜明け前の冷気のなかで硬く鳴った。藁の上で背を起こすと、肩に張り付いた布が乾いた血ごと石に剝がれた。黒い点が、ひとつ、床に残った。

通気孔の外で、まだ星が残っている。予定より、一刻半早い。アレンは唇の端を引いた。

「昨夜の馬蹄は──」

「黙って歩け」

ベルンは答えなかった。ただ、右手の鞘が、いつもより深く握り込まれていた。革の継ぎ目が、指の力で軋んでいる。

石蔵の外に出ると、中庭の空気が、昨日の夕刻と違っていた。厩の方角から、聞き慣れぬ鼻息。六頭ではない。十頭を越えている。馬具の紋章までは暗くて見えないが、並んだ頸の高さだけで、辺境警備隊の駄馬ではないと知れた。

本棟へ向かう回廊で、アレンは一度だけ足を止めた。厨房の裏口から、炊事婦が顔を半分だけ覗かせていた。目が合うと、老婆は唇を震わせて、小さく首を横に振った。

視線だけで、アレンは礼を返した。

広間は、昨日よりも人が詰まっていた。

上座の長卓に、査問官。昨日と同じ灰色の瞳。その左右に、見覚えのない王都風の外套を纏った男が三人、並んで座っている。外套の留め金が、すべて金糸の獅子紋──王都直轄の書記官だった。閉門しろとベルンが怒鳴った理由が、これで繋がった。この連中が来ることを、ガスパルは昨夜のうちに知っていた。知っていて、王命の別使が追いつかぬうちに、場を閉じてしまいたかったのだ。

壁際の辺境警備隊は十七人。ただし、右端にいたはずのリュカが、今朝は列の最前に移されていた。両脇を、槍兵ヨアキムと、もう一人の古参兵が固めている。身動きが取れぬように囲まれている、とアレンは一瞬で読んだ。

「始めよ、隊長」

査問官の声は、前日と同じ平坦さだった。羽根ペンは、すでに紙の上で走り始めている。紙の上を走る音は、蚕が桑を食む音に似ていた。広間の灯火は、石壁に塗られた煤を照らし、長卓の端に置かれた蝋燭の芯が、時折、ちりりと爆ぜた。書記官三人の前には、それぞれ別の折帳が開かれている。裁定のためではない。裁定の「記録」を、王都に持ち帰るためだ。誰が何と言ったかより、誰が署名したか──ここで形式を整えておけば、後で覆す方が手間になる。アレンは、そこまで読んで、息を細く吐いた。

ガスパルが、一歩進み出た。手には、折り畳まれた報告書。読み上げる前に、一度、広間を見渡した。満足げな呼吸。見世物の幕開けを楽しむ顔だ。

「辺境警備隊雑用係アレン。現在二十四歳。王都孤児院出身。十二の年、国家鑑定にてEランクと判定──魔力量、村娘以下。才能、皆無。入隊以降、厠掃除および備品運搬を担当。昨年三月、巡回任務中に逃走未遂一回。同年七月、隊費横領の嫌疑一回──」

「それは」アレンは口を挟んだ。「取り調べの末、無罪が確定しています」

「黙れ」ガスパルの声が広間を切った。「お前に発言は許されていない」

査問官は、筆を止めなかった。

「続けよ」

「──同年十月、隊員への暴行未遂一回。そして今月、隊長家伝来の銀短剣を窃盗。犯行時刻、現場、証拠物件は別紙の通り」

ガスパルが報告書を長卓に置いた。書記官のひとりが、無言で受け取り、三人で回し読む。半分も読まずに、三人とも頷いた。頷きの深さまで、申し合わせたように揃っていた。

アレンは、ただ立っていた。

暴行未遂。そんなものは存在しない。横領の嫌疑は無罪で確定している。十月の件は、酔ったガスパル本人を壁際から引き剝がしただけのことだ。報告書に書かれた日付と数字は、三分の一が創作、三分の一が改竄、残り三分の一が事実をひっくり返して記されていた。弁明の機会があれば、一行ずつ解きほぐせた。だが、閣下は質疑を要らぬと切るつもりでいる。筆は、創作と事実を区別せずに写し取るために動いている。アレンは腹の奥で、笑いにも似た冷たい泡が立ち上るのを感じた。抗弁は無駄だ。無駄だと悟った瞬間、肩の傷の底で昨夜から続く低い鳴動が、ほんの僅かに、音の高さを変えた。

弁明の機会を求めて、アレンが口を開きかけた瞬間、査問官の左手が、紙を一度、軽く叩いた。

「質疑は不要だ。記録は揃っている」

「──お待ちください!」

広間の空気が、一拍だけ張り詰めた。

声の主は、列の最前にいたリュカだった。ヨアキムの腕が即座にリュカの肩を掴んだが、リュカは半歩踏み出して、その手を振り払った。

「隊員、代表権を、行使します」

広間が、ざわついた。古参兵のひとりが「新兵ごときが」と吐き捨てた。ベルンの顔が蒼白になった。ガスパルの頬が、一瞬だけ引き攣り、すぐに笑みに戻った。

「ほう、新兵が代表権を。閣下、無視して構いませぬ。あれは手続きも弁えぬ小僧で──」

「百年前の条文だな」査問官が、初めてガスパルの言葉を遮った。「隊員総意の三分の一を以って発動。証人は」

リュカが、列を振り返った。

十六人の隊員は、誰ひとり、顔を上げなかった。

三分の一──六人いれば、発動する。リュカの視線が、ひとりずつを撫でていった。凍傷を手当てされたヨアキム。酒代を肩代わりしてもらったベルン。夜勤を代わってもらった古参兵。薬草を分けてもらった厩番。

誰も、動かなかった。

広間の天井を支える梁のあたりで、朝霧に混じった鴉の声が一度、短く滑り落ちた。それきり、音は死んだ。十六人の呼吸が、意図的に浅く揃えられているのがわかった。胸を張って床の染みを睨む者、手を後ろに組み直して指を震わせる者、瞼を固く閉じて動かぬ者。恐怖の形は、ひとりずつ違った。だが、下ろした視線の角度だけは、測ったように揃っていた。アレンは、その揃いかたこそが、一番恐ろしいものだと思った。個々人の弱さではない。弱さが、集団の形で固まるときに生まれる、あの静けさだ。

石畳に、リュカの膝が落ちる音がした。

膝を打った音は、乾いた石の上で二度、小さく跳ねた。肩が震えているのが、アレンの位置からでも見えた。震えは怒りだけではない。身内だと信じていたものが、ひとりずつ薄れていく感覚──それを、リュカは今、生まれて初めて浴びていた。

「──っ、どうして、あんたたちは」

「控えろ、小僧!」副隊長の拳が、リュカの側頭を打った。リュカの体が横倒しに転がり、切れた唇から血が、石床にひと筋、走った。

血の筋は、細く、意外に速かった。石の目地を越え、列の先頭に立つ古参兵の靴先で止まった。古参兵は、ほんの一瞬だけ顔をしかめたが、足を引きはしなかった。靴底の革が血を吸うか、吸う前に乾くか──それだけの関心で、視線は天井の梁に戻された。

アレンは、目を逸らさなかった。逸らしてやれば、あの新兵は救われる気がしたが、そうしなかった。記憶に残しておくべき顔が、この広間には十六あった。顔を逸らした順番、目を伏せた角度、呼吸の止めどころ。ひとつずつ、刻みつけた。

それから、アレンは査問官へ向き直った。

「閣下。処分を、お申し付けください」

査問官の筆が、止まった。

灰色の瞳が、初めて、微かに揺れた気がした。その揺らぎは、筆の速度にも現れた。一拍、筆先が紙から離れ、もう一度走り出すまでの間が、前の行よりも僅かに長かった。書記官のひとりが、怪訝そうに査問官の手元を覗き込んだが、査問官はもう、顔を上げなかった。

「申し渡す」筆が、再び走った。「アレン、Eランク階級剝奪。辺境警備隊を除名。本日正午を以って、王国領外へ追放。今後一切、王国領への立ち入りを禁ずる」

「承知しました」

「装備の携行は認めぬ。支給品、一切、没収」

「承知しました」

「質疑は」

「ございません」

広間の隅で、リュカが体を起こそうとして、また倒れた。唇の血が、石床の上で、冷えていく。ガスパルの頬の笑みが、深くなった。

中庭に出ると、陽は東の稜線を越えたばかりだった。

門衛が、古びた革袋をひとつ、アレンの足元に投げた。水筒と、三日分の黒パン。追放者への温情と称した、形ばかりの最低支給。革袋は底の縫い目がほつれていた。中で水筒が乾いた音を立て、黒パンの角が革越しに指に当たった。三日分。国境の森を抜けて、最寄りの村まで、普通なら四日かかる。最初から帰り着けぬよう計算された施しだった。

振り返らなかった。

外門が、背後で軋みながら閉じていく。鉄の閂が落ちる、鈍い音。それきり、誰の声もしなかった。見送りはなかった。壁の上の歩哨すら、あえて背を向けていた。頬を撫でる風が、砦の内側の匂い──湿った藁、獣脂、鉄錆──を最後に一度だけ運んで、そのまま稜線の方角へ散った。

肩の傷の底で、昨夜から続く低い鳴動が、歩幅に合わせて脈打っていた。血ではない、熱でもない、もっと深いところで鳴る音。砦から離れるほど、その拍が、速くなっていく。

十歩。二十歩。街道の先、朝霧の向こうで、国境の森が黒く沈んでいた。

アレンは、一度、指先を握り直した。

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