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穀潰しと呼ばれた単騎の剣

第2話 第2話

第2話

第2話

鉄扉の向こうで、馬蹄が止まった。

蹄鉄が石畳を打つ音が、四回。続いて革靴の音が、慌ただしく砦の本棟へ駆けていく。通気孔から落ちてくる光の筋を数えながら、アレンは壁に背をつけたまま息を整えた。三刻後、と言われた査問官が、二刻も早く到着した。

理由は一つしか思いつかない。ガスパルが、昨夜のうちに早馬を走らせていた。

アレンは乾いた唇を舐めた。舌に残る鉄の味は、もう感じなかった。代わりに、喉の奥に石の冷気が溜まっている。石蔵の隅で藁が湿った音を立てた。鼠だろう。あるいは、もっと小さな何か。

鉄扉の錠前が鳴ったのは、陽が石壁を一尺ほど上に撫でた頃だった。扉が開く。光が目を刺した。

「立て、穀潰し。査問官閣下がお前の面を見たいそうだ」

副隊長ベルンだった。先月までアレンに酒を奢らせていた男だ。短く刈った髪の下、目だけが妙に乾いていた。

「──はい」

アレンは立ち上がった。肩の傷が、石壁に張り付いた布越しに裂ける音を立てた。血が脇腹まで垂れたが、拭う余裕はなかった。

本棟へ向かう回廊は、普段より冷えていた。厨房の方角から薪の匂いが流れ、それに混じって、煮詰めすぎた麦粥の焦げた匂いが鼻についた。副隊長ベルンの半歩後ろを歩きながら、アレンは廊下の石板の継ぎ目を数えた。十二、十三、十四。数える癖は、王都の孤児院にいた頃からのものだった。恐怖の形を、数に置き換える。

すれ違う兵が、咳払いをひとつして視線を逸らした。顔見知りの厩番だった。先週、薬草の束を分けてやった男だ。男は壁に張り付くように道を空け、アレンの背が通り過ぎるまで、靴の先を見つめていた。廊下の角を曲がるとき、ベルンの肩甲骨が、一瞬、こちらを向いて止まった。何か言おうとしたのかもしれない。だが、結局、何も言わなかった。

本棟の広間は、普段の三倍ほど人が詰まっていた。

暖炉の火が強すぎる。人いきれと獣脂蝋燭の匂いが、入り口の敷居を越えた瞬間、喉の奥に張り付いた。誰かが朝から清掃を命じたらしく、石床にはまだ湿り気の跡が残っていた。血を拭った跡──そう気づくのに、一拍要した。昨夜、広場で流された血ではない。もっと新しい、今朝のものだ。

上座の長卓に、査問官。王都の紋章を織り込んだ外套を羽織り、鼻の下に薄い髭を蓄えた痩せた男だ。年齢は四十絡み。右手に書類、左手に羽根ペン。顔を上げずに筆を走らせている。

指の第二関節にインクの染みが三つ。襟の内側に、王都の宿屋で使う樟脳の香り。長旅をせずに来た男の匂いだった。二刻早く着くはずのない距離を、どうやって詰めたのか──その答えは、この部屋のどこかにいる誰かが用意した馬の数と、宿場の手配書に書かれているはずだった。

査問官の右後ろに、ガスパル。左後ろに、副隊長ベルン。広間の壁際には、辺境警備隊の隊員たちが整列していた。十七人。昨夜の広場と同じ顔ぶれ。誰ひとり、アレンと目を合わせない。

壁際で、誰かが浅く息を吐いた。左から三人目、槍兵のヨアキム。昨年の冬、アレンが凍傷の手当てをしてやった男だった。右端の蝋燭が、隙間風でひとつ、強く揺れた。誰かの鎧の留め具が、カチリと鳴った。その音に釣られて、また別の誰かが身じろいだ。十七人の沈黙は、整列という形をとっているだけで、中身は風に晒された麦畑のように落ち着きなく揺れていた。

リュカだけが、列の一番奥で肩を震わせていた。

「お前が、アレンか」

査問官の声は、筆を走らせたままの、紙を撫でるような声だった。

「はい」

「名前、階級、所属を述べよ」

「アレン。Eランク。辺境警備隊、雑用係」

「魔物討伐の経験は」

「記録上は、ありません」

アレンの声は、自分で驚くほど平坦だった。喉の渇きが、逆に発声を安定させた。

査問官の筆が、一瞬止まった。目は上げない。

「記録上、と言ったな。記録外の経験は、あるのか」

ガスパルが口を挟もうとした。査問官が片手を上げて制した。

「閣下、それについては、私から──」

「黙れ、隊長。私は男に尋ねている」

ガスパルの顎が固まった。制された手が、卓上の書類の角を、意味もなく撫でた。指輪の縁が紙に擦れて、乾いた音を立てる。その音が、広間の隅まで届いた。

アレンは、査問官の額を見た。筆は再び動き始めている。先刻の問いの答えを、本当には必要としていない声だった。書類の一行を埋めるための、形式だ。

だが、筆先の走り方が、問いによって変わる。アレンは、そこを観察した。"魔物討伐"の問いのときだけ、筆圧が一瞬、紙を抉るほどに沈んだ。この男は、形式を装いながら、別の一線を探っている。探っている対象が、アレンなのか、ガスパルなのか、それともこの砦そのものなのか──そこまでは読めなかった。

「ありません」

「よろしい」

査問官は筆を止めた。ここで初めて、目を上げた。

灰色の瞳だった。光を反射せず、ただ吸い込む種類の灰色。

「お前の寝台の下から、ガスパル隊長家の銀短剣が発見された。この事実に、弁明はあるか」

「仕組まれました」

広間の空気が、微かに揺れた。ガスパルの頬が引き攣ったのが、視界の端で見えた。

「誰に」

「それを、私に証明する術はありません」

「ないのか」

「ありません」

沈黙が、羽根ペンの穂先を湿らせた。

査問官は、薄く笑った。

「では、弁明ではなく、ただの反論だな」

羽根ペンが、紙を三度叩いた。

「よろしい。私はこれより、ガスパル隊長からの報告書を精査する。明朝、正式に査問を行う。それまで石蔵に戻れ」

「承知しました」

「一つだけ、聞こう」

査問官が、初めてアレンの目を覗き込んだ。

「お前は、この処分を受け入れるつもりか」

アレンは、一拍置いた。

「受け入れる、受け入れないは、私が決めることではないと存じます」

「ほう」

「決めるのは、閣下です」

査問官の口角が、微かに上がった。満足したのか、失望したのか、どちらにも取れる動きだった。

羽根ペンの柄が、卓に一度だけ、軽く置かれた。その音の小ささが、かえって広間を圧した。

石蔵に戻されるとき、リュカが列から半歩だけ前に出た。副隊長ベルンの肩越しに、唇だけで何かを伝えようとしていた。

「──だい、ひょう」

だいひょう。代表? 台帳? 待避?

副隊長が振り向く前に、リュカは目を伏せた。

石蔵の鉄扉が、再び閉じた。

差し込む光は、昼を過ぎて角度を変えていた。アレンは壁に背をつけ、膝を抱えた。肩の傷が、布と一緒に固まりかけていた。引き剝がすのは、明朝でいい。

──代表。

言葉を口の中で転がした。辺境警備隊には、隊員の代表権というものが形式上存在する。隊長の裁量に異議がある場合、隊員が代表者を選出して査問官に直訴できる。百年前の古い条文で、今はほとんど使われていない。

リュカは、それを知っていたのか。使う気なのか、あの新兵が。

アレンは小さく首を振った。使わせてはならない。使えば、リュカが次に石蔵に繋がれる。俺のために、誰かが犠牲になるのは、もう沢山だ。

壁に頭をつけた。冷たい石の奥で、昨夜からの低い鳴動が、まだ続いていた。血ではない、熱でもない音。耳の奥の鼓動と、拍がずれている。

石を通して、骨を通して、何かが呼吸していた。アレンの呼吸とも、砦の呼吸とも違う、別の生き物の吐息のような、遅い波。

指先を握った。開いた。握った。剣が軽かった、昨夜の感触。藁束を断つように、トロールの頸骨が割れた感触。

──気のせいだ。

そう自分に言い聞かせて、何年経った。十二の年、王都の鑑定官が書類を一瞥もせずに告げた結論を、何度噛み締めて生きてきた。

通気孔の外で、鈴の音がした。羊飼いが、砦の外壁に沿って群れを移動させている。砦の裏手で育つ牧草は、秋の終わりに一度だけ分厚くなる。夕餉の支度が始まる前の、この時間にだけ鳴る鈴だ。

その鈴の音に混じって、別の音がした。

複数の馬蹄。一頭や二頭ではない。少なくとも六頭。北の街道から、砦の方角へ。

アレンは目を開いた。査問官は一人で来た。随員は四人。その馬はもう砦の厩に入っている。では、今近づいてくる六頭は、誰の馬だ。

鉄扉の向こうで、副隊長ベルンの怒鳴り声がした。

「閉門しろ! 王都の使者以外、一切通すな!」

閉門。アレンは眉を寄せた。査問官到着後の砦は、本来、査問が終わるまで門を閉ざさない。王命の使者が追加で到着する可能性があるからだ。にもかかわらず、閉門を命じた。

ガスパルが、何かを隠している。あるいは、何者かが来ることを、あらかじめ知っていた。

通気孔の上で、陽が翳った。

石蔵の奥で、低い鳴動が、一段だけ強くなった。肩の傷の底で、指先の骨の奥で、聞き覚えのない熱が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。

アレンは、もう一度、指先を握った。

明朝、査問は始まる。それまで、あと何刻あるのか──誰にも、もう、わからなかった。

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